第15話 草刈柊子の絶望


『――そっか、やっぱりか』


 声の主は電話越しに、少し嬉しそうに、何もかもを諦めたように呟いた。

 次いで、大きく息を吸って吐く音が聴こえてくる。


『いやあ、丁度いいね。今まさにこっちからかけようとしてたところだよ』

「都会は随分と楽しかったみたいね。そんな戯言ことまで教えてくれるの?」

『うーん、君もそのうち分かると思うけど……もしくは、あー、』


 柊子しゅうこは声のトーンを極力一定に保つようにしながら、なるべくこちらの意図を汲み取ってもらえるように言葉を選ぶ。柾樹まさきの前を歩いていることもあり、残念ながら余裕はないのだ。


 希望と絶望の狭間にて、草刈柊子くさかりしゅうこは願う。

 もう彼の、榊原蓮さかきばられんの答えは決まっている。それどころか、今日聞いた話を知らなかっただけで、世界のどこかにその解答は存在していた。いつ知ることになるか、ただそれだけだった。知らずにいられるのは、きっとどうあがいてもあと少しもない。だとしたら、自ら手を伸ばしたほうが精神衛生上、ほんの僅かでもましなはず。


 そう、思いたいだけだった。


『ごめん』


 情けない。みっともない。どうしようもない。柊子は自分にそう思う。

 すぐ後ろを歩く吉野柾樹よしのまさきと共に破滅する道は、脆くも崩れ去ったのだ。ここから希望に転じることはない。何を焦ることがあるのだろうか。

 最初から気付いていた。察していた。考えていた。研究室でその話が出てから、ずっと。


花菜はなを見付けた』


 神藤花菜かみふじはなのこと、を。


『正確には見付けたっていうより、花菜はなと思われる患者がいることが確定したって話、なんだけど』

「どういうこと?」

『……例の論文を読んだんだろう? なら、あの患者が花菜本人であるかもしれないということも当然考えたはずだ』


 花菜がまだ生きているかもしれないと、まだ頭のどこかで考えている僕たちなら、と蓮は付け足す。

 柊子は何も返さなかった。自分がそうであることと、それに反して柾樹がそうでないことを認めてしまうのが、恐ろしく感じられて。


 いないでいてほしいと願うあまりに、その実在を求めない者の方がより敏感に存在の有無を警戒し、いるのではないか、という幻想を通して証明を図ってしまう。もっと相応しい人物が、いるにも関わらず。


『調べたよ。まあ、それもここ数日で、なんだけれどもね』


 それは、蓮も同じであるようだが。決して連帯感が生まれるようなことがあるわけでもなく。

 ただただ、自分の勝手な都合で人の不幸を願う恥知らずがいることを双方が理解するだけだった。何の得も在りはしない。


『どうにも、花菜だという確証が得られない。意図的に隠されているにしては下手なんだ、それこそ僕なんかに探られるくらいには。でも、それが花菜かどうか、それだけ断定させてくれない。そういう人が実際にいるということだけ仄めかしている、みたいに』

「随分と奇妙な体制ね」


 普通、被験者の素性は極力隠蔽されて然るべきものだ。しかし、その患者が花菜である可能性がある、ということがわざとらしく示されている、と。

 作為的すぎる気がする。そう感じさせることすらわざとなのか、単純に蓮が虚偽の報告をしてきているのか。どちらにせよ、疑ってかからなければならないことだけは確かだ。


「それで、どうするの?」

『そんなの、決まってるさ』


 意図するところがどこにあったとしても、柊子らはその真偽を確認しなければ前に進めない。それに、恐らく、もうあまり時間もない。


 キャンパスの出口に差し掛かったところで、しかし蓮は、至って明るい声色で言い放つ。


『今から確認しに行くしかない、だろう?』











 曇天、らしい。


 湿った空気が忙しなく流れ、今にも雨が降り出しそうだ。


 まあ、空は暗く澄み渡り、雲一つない空間に鮮やかな火の芸術を描き出しているのだけれど。


 落ち合う場所は、電車を乗り継ぎ十数駅。まだ都内で昼過ぎ、人通りもかなりのもので、駅前という曖昧な指定ではなかなか巡り会えなさそうではあった。


「……いたよ、蓮だ」


 が。

 至極当然のように。


「二人とも。久しぶり。三年ぶりだね」


 彼らは人混みの中であっても、即座に互いを識別し合っていた。まるで、見分けるための華美な目印でも付いているかのように。

 いや、実際そうなのだろう。

 吉野柾樹と榊原蓮にはあって、草刈柊子には無いものがある。視点が違う、視界が違う、見ている世界が違う。

 目的を、未来を見据える眼で通じ合っている。

 久方振りの再開だというのに、毛先ほども郷愁を覚えることもなく。唐突に湧き上がってくる無遠慮な疎外感が顔を歪ませる。


「……本当にね」

「じゃあ、行こうか。昼食は済ませた?」

「俺はまだだけど、いてない」


 二人が振り向いてくる。


 彼らが、彼らの眼が恐ろしくてたまらない。直視しかできない。気付いているのかいないのか、気付いたうえで変わらない態度をとっているのか、気付かない振りをしているだけなのか。

 だが少なくとも、この震えを表に出すことはしたくない。無駄も無駄、ただの意地、虚勢でしかなかったが、最早柊子にはそうするしかなかった。


「同じよ。今、わざわざ寄り道している暇はないと思うけれど」

「それもそうか。急ごう」


 隣を歩いていくには、そうするしか。


 柾樹にはもう、電車の中で事情を説明してある。終始無言で、最後に「……そっか」とだけ呟いていた彼は、何を思ってここにいるのか、わからない。

 彼らは、何を思って。


 その背からは、何も感じない。旧友と偶然会い、これから夕食でも食べに行くかのような軽い空気しか纏っておらず。


「そういえば、檜奈乃ひなのの具合は良くなったんだっけ。喜ばしいね」

「らしい、な」


 怖い。


 今更ながら。

 著しく今更ながら、もし神藤花菜がいたらどうしようという仮定が胸中を占拠する。

 これが、いなければいいという思いを基として形作られる幻想の恐怖であることは理解できている。

 それでも。しばらく会っていなかっただけの蓮と顔を合わせているだけでも、柾樹は大分気を取り戻しているように見える。柊子や柾樹、要に檜奈乃と同じ傾向の幻覚を見ているはずの彼が何故か全く平気そうにしているために、肩の荷が下りた気がしているのだろうこともあるだろうが、それよりも。


 他人と接触することによって、柾樹が気力を取り戻しつつあるのがまずい。

 彼の体力は、身体は相当な段階まで追い詰められているのだ。五年超も絶え間なく幻視に苛まれ、幻聴に妨げられて短時間意識を落とす以外にまともに睡眠もとれない生活では病まない方が無理がある。

 これ以上に自らに鞭を打てば、壊れてしまいかねない。その判断に異を唱えることが、彼にはできないと考える。


 そんな彼が、その想いの対象、大元に、神藤花菜に巡り合ってしまうことなどがあってしまえば。


「え、僕? 僕は何もできてないよ。残念ながらね」


 このまま緩やかに終わってゆくだけでいいのに。


「大見得切って、先陣切って。三年も花菜を探していたのに。今日、ようやくときたもんだ」


 私は。


「無能のそしりを受けて当然だよ。というかむしろ、罵ってくれた方が気が楽まである。これだって、柊子に言われなきゃ行く勇気も出なかったんだからさ」


 なのに。私は。


 何を、したいのだろう。


 杞憂になるもならないも、それらは全て、今ここに足を運ばなければ、蓮に尋ねなければ起こり得なかった事象に過ぎない。単純な話だ、花菜に会いたくないのなら会いに行かなければいいだけの、簡単なおはなしだったはずだ。

 なのに。


「でもさ、蓮がいなければ俺たちはこうして確かめに行くこともできなかったわけだし。何もできてないなんてこと、ないと思うよ」

「……そう、かな」

「うん。それに、何かをしなくちゃいけない、なんて決まりがあるわけでもないしさ。それこそ蓮一人だけでもを断ち切っていたとして、俺はきっと喜んでいたよ」


 柾樹は、いつになく、穏やかな笑顔を見せて、弱弱しく空に向けて指を立てて見せる。


 そこには、何も変わらず、花火が咲き乱れている。

 この暗い、明るい、雨が降り出しそうな、雲などどこにも見えない、花火が輝いているこの空は。


 草刈柊子にとって、一体何なのだろう?











「ここだ」


 先導していた蓮が、一歩、二歩と速度を落とし、立ち止まる。


 最寄駅から僅か十分足らずの住宅街の隅の区画に、その病院はあった。

 ここら一体ではそれなりの大きさの総合病院、外観はそれなりに綺麗で、それなりに新しいところらしい。


 その正面の交差点、対岸から柾樹は十数階はある病棟を見上げる。


「ここに、いるかもしれない、のか……」


 あの夏の日、共に花火を焼き付けた仲間の一人、掛けがえもない友人が。


「そうだね。花菜がいるとすれば、まずここだ。かもしれない場合も含めて」


 何も残さずに去って行った彼女が。余命幾ばくもない状態であったはずの彼女が。いる、かもしれないという。


 六年もの歳月を隔てて尚、亡くなっていることを皆が信じ、同時に生きていることを皆が感じているという少女が。草刈柊子にとっては、誰よりも会いたくて、何よりも会いたくないたった一人が。


 いつもと何も変わらないはずなのに。背後で弾けた気がするだけの花火の爆発音が柊子の鼓膜を震わせる。身体を揺らす。脳を揺さぶる。視界が揺らぐ。世界が歪む。


 それじゃあ、行くか。と。赤信号が青に変わり、柾樹と蓮は病院へと、そこへと続く横断歩道に足を進める。


「ま、」


 おかしくなってしまった柊子は、彼らを一歩で追い越すと、二歩で振り返った。


「待って……」


 何を。


 何を言おうとしているのか。自分でもわからない。


 でも、止まらない。


「止めよう、帰ろう? ねえ」

「柊子」


 草刈柊子であって草刈柊子でない何かが勝手に。


「きっと、いないわ。もう、とっくに。皆、分かってるでしょ? 肩を落として失意に塗れて帰るよりは、まだ生きているかもしれないという幻想を抱いたまま、前向きにいることの方がまだましなはず、きっとそう、そうに違いないって。行っても会える保証なんてないし、そもそも会えないかもしれない、個人情報の開示だって難しいわ、それに……」


「柊子」


 柾樹は、困ったような、微笑みかけるような顔で、何もかもわかっているように口を開く。


 わかっている。


「ねえ……そう、でしょう?」

「違うんだ」


 行き交う自動車の車輪がアスファルトを蹴る音。青信号であることを教える電子音。花火の、音。口の中がやけに渇く。暑くもないのに、顎から雫が滴り地面に跳ね返って解ける。


 蓮は、何も言わずに目を背けた。


「少なくとも俺にとっては、会いに行くこと、それ自体に意味がある。これまでと、これから。そのどちらもを確認して、場合によっては再定義するかもしれないし、何も変わらないかもしれない。でも、そうしないといけないんだ。そうしないと、そろそろ動けなくなる。わかってる、自分でも」


 聴きたくない。そんな言葉を聞きたかったわけではない。頭上で一切の遠慮無く轟き輝く花たちと同じように、何も変わらない、そのままでいたかっただけ、いてほしかっただけ、なのに。


 そうであってほしかった、でも。


 それと同じくらい。判ってもいた。


 頭の隅に追い遣って、そのまま生き永らえさせていただけの思考。目を瞑って見ないようにしていただけの、恐ろしくて直視できなかっただけの単純な真実。


 結局。草刈柊子は。


 私は。


「だから、俺は――」


 彼を、彼のこと自体を見てなどいなかったのだ。


 今も弾ける花火と同じ、モノとして。ずっと変わらないモノとして。理想を映し出すスクリーンとして、自分の勝手な妄想を照らしていただけ、だった。


 涙が頬を伝うことは、なかった。


 そんな利己的で自己中心的な哀れみが湧かなかったこと、それ自体は喜ばしい。それと同時に、そこまで行くこともなかった自分の中途半端さと情けなさが込み上げてきて、架空の喉を逆流する。


 どうせなら、叱責してくれたなら、よかったのに。

 膝を落とした柊子には、もう彼にかける言葉も、その資格も持ち合わせてはいない。


「……柾樹?」


 言葉を途中で切った彼に、蓮が不安そうな声色を投げる。


 信号の色が入れ替わる間際、吉野柾樹は最早草刈柊子を見てはいなかった。


 その中空に放り出された視線は交差点を横切り、対岸、病院の正面玄関方面から出て来て信号待ちをしている、一台の車に突き刺さっていた。


「――いた」

「え?」


 彼が次に言葉を発した時には、そこに彼の姿はない。

 直進しようとしていたはずの、信号が変わった途端にウィンカーを出すこともなく進路を左折に変更し、逃げるように加速しだしたその車を追いかけるように。柾樹はたった今赤信号になったばかりの横断歩道を全力疾走していた。


 彼は、見たのだ。


 確かめなければならなかった、何かを。


「待っ――」

「柾樹!」


 それに気付き、叫んだ時にはもう遅い。


 既に片道二車線の道路を渡り切った彼の後ろ姿は、トラックの陰に隠れて、もう見えなくなってしまっていた。





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