第14話 私は希う。
さて、いつだったのだろうか。
少なくとも、私は覚えていない。
私が覚えていないということは、私含めこの世界の誰も覚えていないし、知ってもいないということだ。そのはずだった。
きっと、それはもう思い返せないほど幼い時であったのだろう。私の記憶の中の最も小さな私ですら、既に好意を抱いていたのだから、きっとそうに違いない。
理由もわからない。しかしそれは気にすることではないし、どうでもいいとさえ考えている。より重要なのは現状がどうかであり、現在に深く関わってくることでもない限り過去など不要だ。
そう、過去などどうでもいい。
今この時に、私が彼の隣に居られれば、それだけで十分。彼が生きている姿さえ拝めればそれで満足。それ以上なんて求めない。そのままでいてさえくれれば。
最初から、そんなものは叶うわけもない、ただの幻想なのだと、わかっていたとしても。
彼の、真面目なところが好きだ。
冗談を真に受けて、滑稽なほど真剣に考えてしまう純粋なところが好きだ。
一度背負い込んだら意地でも放さず、圧し潰されそうになっても必死に歯を食いしばり生きる姿が好きだ。
彼の、優しいところが好きだ。
勝手に人の痛みや苦しみを想像して、自分まで辛くなってしまうところが好きだ。
自分の都合などは後回しに、他人のことを助けると決めたら躊躇せず、後悔もせず努力するその姿勢が好きだ。
彼の、細かな仕草の一つ一つが好きだ。
鞄を抱えて目を瞑る可愛らしさが。
困ったように笑う時の泣き出しそうな目元が。
考え込む時に左掌を口元に持っていく癖が。
机に突っ伏して眠るその苦悩に満ちた寝顔が。
見開いているだけで、何も見えていない目つきが。
ページを捲るときの指の動きでさえも。
手の届く範囲の問題全てに向き合う純真さが好きだ。
他のことに脇目もふらずに努力に明け暮れる一途さが好きだ。
彼の、諦めないところが好きだ。
人を信じ抜くその姿勢が。
理不尽に晒されても折れない強さが。
変わらない志を心に灯し、進み続ける背中が。
好きで、好きで。堪らない。
だから、私は。
私はこの幻覚を受け入れる。
打ち揚がり続ける花火、その狂気を呑み込む。
少なくとも彼が花火の幻覚に囚われている間は、彼は
あの夏の日、小学六年生の花火大会以来、彼はそういう性質に成った。
何かに取り憑かれたかのように――実際幻覚に取り憑かれてはいるのだが――勉強に打ち込むようになった。どうやら彼の中では、医学科に進み、花菜の病の治療法を研究する道が最も良いという結論に至ったらしい。
他の何にも気を逸らすことなく。休むこともなく。ひたすらに努力を積み重ねるようになってしまった。
実に喜ばしい。
私は、今の彼が尚更好きだった。
何者にも代えられない想い人がその性質を強め、ずっと側に居てくれる。これ以上の幸福の享受を、私は知らない。
それだけでも、十分すぎるほど幸福だったのに。その姿を眺めていられるだけで何もかも満たされていたのに。神か花菜か、はたまた私か知らないが、それと同時に、奇跡にも似た呪いが私たちを包んだ。
花火の幻覚は、私たちをそれまで以上に強固に、強制的に、無理やり繋ぎ止めてくれた。
理由になった。言い訳になった。原因になった。筋合いになった。根拠として使用できた。
ずっと、側に居ることが出来る。
同じ幻覚を共有する為に、目的を再確認させる為に、現実を見直す為に。立ち止まらない為に、また立ち上がれるように、壊れそうな心の拠り所とし合い慰め合う為に。今となってはただ一人、彼のことを理解、共感、援助してあげられる為に。
ある意味の「特権」を、私は手放さない、手放したくない、手放す気もない。誰よりも近くで、誰よりも長く、誰よりも彼を見詰めて居られるこの立場を、偶然にも手にしてしまった異様な何かを、譲る気などさらさらない。
別に、誰でも問題なく務まることではあるだろう。
この幻覚を保有していなくたっていい。彼の親や兄弟の方がきっと適任なのかもしれない。カウンセラーや保健教員であってもいい。それどころか、事情など把握していなくたっていいのかもしれない、むしろその方が彼にとって良い影響を
だから、これは単純に、ただの願望だ。我儘だ。私利私欲に突き動かされる愚かな人間の醜悪な感情の発露だ。
私は、繰り返し、自分にそう言い聞かせている。
私の汚い自分勝手な想い一つで彼を縛るのは。より良い手段、環境、関係を模索せず、させることもなく、今に至るまで彼の
そう考える自分がいる。
だが。
それがどうした。
そう一蹴する自分がいることも事実だ。
確かに私は悪い女なのだろう。ズルい女なのだろう。
しかし。浅ましくも愛おしい相手を独り占めしたいという感情は。傷だらけになりながらも進み続ける輝かしい姿に惹かれ、それをいつまでも見守っていたいという情動は。果たして悪に類するのだろうか。
当然、これが感情論に端を発する無茶苦茶な主張であるということは理解している。自覚していて
分かっている。
欲望に忠実に身を任せることは、野蛮で原始的で、知能を発達させた人間という種族からしてみれば低脳と罵られてもおかしくはない。でもそれは逆に、純粋で真っ当であるとも言える。
事実、私から彼に対して何らかのアプローチを仕掛けたことは一切無い。いつだって、ただ傍で無言で見守るだけ。
正しく一点の曇りもない使命に、友情に身を捧げる彼に、私如きが穢れを与えてはならない。そしてそれは私以外であっても許されない。彼の気高く貴く美しい精神に、志に故意に手を加えることは、絶妙なバランスで成り立っている芸術品に不躾に触れて台無しにしてしまうことと同義だ。
だから。私は他の誰よりも彼と親しくなければならない。彼と同等、もしくはそれ以上の学力を身に付けていなければならない。今にも壊れてしまいそうな彼を、護らなければならない。丁重に支えなければならない。何の企みも下心も絡ませずに。
例え、何と言われようとも。何人たりとも近付けさせはしない。その信念を持って生き抜くのだ。
勿論、それもまたエゴ。
きっと、そんな自分勝手な事ばかり考えているから。あの夏の日は私に牙を剥くのだろう。
こんなに大変な目に遭っているから。彼と同じ境遇に苦しんでいるから。幻覚症状を訴える仲間という、実に都合の良い大義名分を手に入れたと考えるから。
だから、私は彼の側に居ても良いのだと。自分に言い聞かせて安心する為のダシに使ってしまっている。そんな事をしているが故に、私の空に花火が打ち上がり続けるのだ。終わりの見えない一部分の繰り返しが、延々と、延々と。
この呪いは願いの代償だ。
無窮の向上を誓った柾樹には、その努力を止めること、即ち睡眠を貪ることが妨げられる爆音が。究極を夢見る要には、到達点となりながらもその心を何処までも折りにかかる至高の完成品が。それ自体を利用し現状維持を歓迎した私には、決意を放り出して逃げ出したくなる程の、永遠の色彩の暴力が。
彼らに関しては、これは諦めろという意思の表れではない。負の面はあまりに強大だが、目的に応じた効果であることに違いは無い。
しかし、私に関してはそうとも限らない。辞めろ、そうしないのであれば苦しめとでも言う様に、絶え間なく苛んでくる。
それでも。
それでも私は諦めない。屈しない、投げ出さない。
間違っていたって構わない。彼に幸せを齎すのは私でなくても良い。私を退けてくれるのであれば、私は全身全霊で抗い、心の底から歓喜して消えるだろう。
でも、それは今ではない。でも、今であっても構わない。
私は希う。願わくば、このままで。願わくば。今すぐにでも壊して。
私の願いは、理想は、ここにあるのだから。
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