第13話 草刈柊子の希望
「――そう。順調に回復してきているのね」
『うん。最近はだいぶよくなったよ』
薄い機器越しに鼓膜を打つのは、故郷で道を分かたれた友人の声。というと少し情緒的すぎるだろうか。
それでも、たった
その原因は、
「
『ありがとう……でも、ちょっと申し訳ないな』
「気にすることじゃないでしょう。偶然が重なっただけ、それだけよ」
しかしそれを今、わざわざ言及して掘り返すほど暇でもなければ意地も悪くはない。何より、治ってきていること自体は喜ばしい、それは紛れもない本心だ。
何度か会話をするうちに、柊子は
互いの事情、目的に余計に触れないという、暗黙の了解。それの確認と現状報告が毎回の電話の理由となっている。
『それでね。わたし、物語を書いてみることにしたの』
だが。今回に至って、檜奈乃はそれ以外の話を持ち出してきた。
「……へえ。いいんじゃないかしら。どういう心境の変化?」
『
全くの予想外な方向からの言葉に面食らうも、それほどおかしなことではないと認識しなおす。自分の心境や心情を文字にして書き出してみることで精神的な安定の作用なども得られる、という話かもしれない。今度調べておくことにしよう。
とはいえ、檜奈乃の声色は真剣みを帯びており。何かしらの意図があることだけは聞き取れた。
『上手く出来たら、柊子ちゃんにも読んでもらいたいな、なんて』
「
個人的にも、友人的にも、応援する以外にはない。それで彼女が元気を取り戻すなら尚のこと望ましい。
それと同じくらい、もどかしい。治ってほしくないという感情が、思考が胸中で主張する。どうしようもない人間だな、と。柊子は絶えず自分にそう思わずにはいられない。
ともあれ、順調ならばとやかく言うこともなく。柊子らは更にいくつかの話題を経由した後、またねという曖昧な次回予約を入れ、回線を打ち切る。
そろそろ、約束の時間だ。遮光カーテンが閉め切られた室内の壁掛け時計に目を向けると、十二時を半分ほど回っている。可もなく不可もなく、丁度いいくらいだろう。
何をしにどこへ行くかというと。大学へ、教授の話を聞きに。土曜日だというのに。
といっても、講義であったり補講だったりするわけではない。単に話を聞きに行くだけの予定だ。
「起きて。そろそろ
それも。部屋の隅の作業机に突っ伏して寝ている
本当は、必要ないのかもしれない。けれど、これまでずっと同行してきたことからしても、それが当たり前になってしまっている。今更、何となくで変えられることでもない。
「う……ん、ああ、そう……だった、ね……」
柾樹はどうにも重苦しそうな返事をしながら、ゆっくりと起き上がる。短時間であろうが、それではまともに体力は回復しまい。だが、ベッドも無いこの部屋では、まともに睡眠もとれない彼では、常識で諭したところで意味はない。
どうしようもない、長年蓄積されてきた疲労が色濃く反映されている生気のない表情と、特に酷い隈がこれ以上なく深く刻まれている目元を見る度に、柊子は罪悪感と幸福感に同時に蝕まれる。
今更、柊子に出来ることは、何一つ無いというのに。
「あ、草刈さんと吉野君じゃ~ん。やほ~」
「……こんにちは」
目的地へ向かう途中。キャンパスを歩いていると、不意に声を掛けられ、反応してしまう。顔を向けた先には、あまり見覚えはないが知ってはいるという微妙な相手が四人ほど
別に柊子や柾樹は、人を避けて生きているわけではない。しかし、幻覚やそれに伴う人生の変遷等を知られれば、それなりに敬遠されることは見え透いている。これまで幾度となく経験してきたが故に、どうせこの人たちも同じだろうと考えてしまう。ならば、最初から余計な人付き合いなどしなければ、どうでもいい人間関係などに一方的に攻撃されることはない。先に離れてしまえば、寄ってくる物好きもそういない。そういう自己防衛策を採っているだけだ。
それでも。
「なに? 草刈さんたちもラグビー部の新歓行くの?」
「いえ……」
こうして。コンタクトを取ろうとする人は存在する。どうせ気味悪がって逃げていくだけなのだから、最初から触れないでくれ、とも思ってしまうが。
外面上の正しさ、礼儀の良さという要素は重い。どれほどおかしな人間であろうと、学業や運動で良い成績を残せていたりすればある程度は許される。柊子や、柾樹のように。そういう人間であると括られる。
繕っておくには値するのだ。
「えぇ、じゃあどこ行く予定なの? ソフトボール? あとは……えっと、何あったっけ」
「女子ホッケーと剣道くらい、かな。あと目ぼしいのは夜から」
「ソフトがラグビーと同じく部活見学でホッケーと剣道が花見だね」
「ラグビーがスイパラで、ソフトがしゃぶしゃぶ。まあそれならスイパラが圧勝なんだけど」
「だよね。夜は陸上で」
「それ。ビュッフェ強いわ」
「カロリーで死ぬけど」
「宿命じゃん」
こちらの反応を待たず、自分たちで勝手に話を広げる女子たち。自分も生物学上は雌なのだが、どうにも同様の会話形式を上手く成立させられる気がしない。したとしても違和感に悩まされることは必至だろう。
さて、どう答えるか。下手な嘘をついて見破られるのは論外、じゃあ私たちもそっちに付いていく、なんてことになるのも避けたい。具体的でないところに妙に突っ込まれても困る。どうやら彼女らは時間に余裕があり、同時にこちらに興味を示しているようでもある。こちらも急いでいるわけではないものの、長話は個人的にもあまり好ましくない。
何より、屋外においてはどうあっても空が見えてしまう。
それならば、多少正直に情報を開示してしまった方が楽か。何か事情があるのだと察するならばそこで終わり、訊いてきても家庭の事情で誤魔化せるうえに、以降の無駄な接触の機会を減らすにも有効とみる。
「新歓ではなくて。研究室に用事があるの」
「研究室訪問? 早くない?」
「そこ目当てで入ったから、とりあえず話を聴いておきたくて。ごめんなさいね」
無論、目当てであることは間違いない。そこの研究室の研究内容が
しかし当然ながら、入学前に話は伺っているし今回も単なる研究室訪問ではない。それを明かす必要はない。
「へぇ、そうなんだ。それなら仕方ないね」
「夜は? 暇なら一緒に陸上行かない?」
「そちらも、申し訳ないけど友人と会う予定が入ってしまっていて……。良ければまた今度、誘ってもらえると嬉しいわ」
これでいい。どうせ
大丈夫、これでいい。余所行きの笑顔を張り付けつつ、柾樹を促し彼女らから離れる。
「あ、うん、またね」
そう言って寂しそうな笑みを浮かべる、初めに声を掛けてきた女子の様子を視界の端に収める。それも、最早どうでもいい。これがお互いにとって最適、最良。そうに違いないのだから。
研究室というと、思い浮かべるのは大きな冷蔵庫や安全キャビネットだろうか。それとも、高校までの理科室や家庭科室のような台や流し、ガラス張りの棚などだろうか。
実際はそれらは実験室や検査室に該当する。大学で研究室というと、大半はデスクとPC、資料や書類が保管されている棚などくらいしかない、むしろオフィスのような部屋が一般的だ。
その研究室の中の小さな会議室にて、柊子と柾樹は既に三回は顔を合わせている、若くはないがそれほど老いているともいえない教授と机を挟んで、また向かい合っていた。
「……ということで。この研究のおかげで、
やや早口で手元の資料の説明を済ませた彼は、多少興奮気味にそう言い加え、改めて最初のページに戻り、こちらの反応を
そこに記載してあったのは、約六年前よりつけられている、とある難病の患者に対する多少実験的な治療の記録を元にして開発された治療法が、ここ数年で一定の成果を上げつつあるという研究発表。まだ途上段階だが、これから更に研究が進めばこれまで治療法が望めなかったいくつかの難病の解明及び治療法の確立が可能になることが示唆されている。
「吉野君は、これを目標にしてここに来たんだよね」
「それは、はい、そうです」
柾樹の目的でもあった、花菜も
「なら本当に丁度いい。君がうちの研究室に入るころには、君が望む研究は行えるようになっているだろう」
「願ってもないこと、ですね。俄然やる気が湧いてきました」
「うん、それは良かった。うちも吉野君ほど熱意をもってこの分野に取り組むことを決めている人材がいることが喜ばしいよ」
運がいい、といったらそれだけだ。運良く、タイミング良く研究したいと思っていた分野の道が大きく拓かれることが予見され、やりたいことが出来るようになったというのは、そうないことでもない。
しかし。偶然で片付けてはいけない、そう感じる何かが、そこにはあった。
「ありがとうございました」
「またね。この研究室で待ってるよ」
更にいくつかの話題、いくらかの時間経過を経て、その場は御開きとなる。
有望な学生に対する極めて友好的な笑顔を向ける教授に見送られ、柊子と柾樹は資料を手に、研究室を後にする。柾樹にとっては、非常に有意義な時間であり、かつ待望の報告であったことだろう。なにしろ当面の問題が全て消え去り、研究の道が一気に開けたのである。願わくば、その希望に浸り、体調の方も快方に向かえば良いのだが。
しかし、今の柊子にとってより重要なことはそこではない。勿論大事なことではあるが、たった今だけに限っては瞬間的に他の何もかもを上回る興味関心対象が降ってわいた。
柾樹も、気付いているのだろうか?
だとしたら、これは喜ばしいのか、嘆くべきなのか。柊子には、わからない。
教授に渡された資料に目を落とす。そこに記載されているのは、約六年前、正確には六年と八か月ほど前より行われている、とある難病を患っている患者への様々な治療の記録。
ただの紙束を持つ手が、震える。
「……柊子?」
「え、ああ、そうね、行きましょうか」
廊下の途中で不自然に立ち止まる柊子を、柾樹が不思議そうな目で覗き込んでくる。恐らく、気付いてはいない。
でも。仮に。この推論が正しかったとして。希望に満ちた絶望の予感が当たったとして。どうするのが正解になるのだろう。
わからない。
歩き出し、柾樹の意識が再びその手元に落ちていったのを確認し、柊子は携帯電話を取り出した。普段なら檜奈乃との連絡くらいにしか使っていないそれには、しかし今必要な番号が登録されている。
答え合わせだ。
六年と八か月前。柾樹や柊子らなら小学六年生の時期まで
それは。丁度、
もう余命幾ばくも無いと通告されていた
様々な記憶と幻覚と感情の渦に溺れる柊子は、耳に当てたその小さく薄い機械から、聞きたいけれど聞きたくない声を聴いた。
『……久しぶりだね。要件は、何かな』
その声は、随分と嬉しそうで、でも怖そうに、震えている。
正直に訊くのにはどうにも勇気が足りなかった。世間話から入るのにはこの貧弱な心臓が耐えられなかった。何より、このまま何も言わずにいると、
「――見つかったそうね。ずっと探してたもの」
鎌をかけた。つもりだった。
その希望は。叶うのか、打ち砕かれるのか。
柊子は、永遠に最も近い時の流れを感じながら、彼の言葉を待った。
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