大学一年生:草刈柊子

第12話 草刈柊子の罰


 いつでも外に広がっている闇と、その中で断続的に光を放ち続ける花火。


 教室で黄昏たそがれる際には頬杖をついて窓の外を眺めるのが定番であったが、それは視界が正常である架空の人物キャラクターに限るらしい。結局ただ視線を無造作に投げているだけであっても、人は空の透き通るような青や白い雲、情緒的な夕焼けを通して少なからず心を安らげているのだろう。そうに違いない。

 まあ、そんな光景は、とうの昔に忘れてしまったが。


 随分前に黒板に引かれた線群をぼんやりと眺めながら柊子しゅうこがどうでもいいことを考えていると、ほぼ雑談に入って長引いていた講義がようやく終わりを迎えた。すぐに立ち上がり速足に退席する者、今になって惰眠から覚める者、未だにどうでもいい会話に興じる者。いずれも高校までではみられなかった特異な生態だ。全く興味をそそられない。


 講師が自ら書いた本の中身を語るだけの講義は退屈で困る。買ってから三日以内には全て読破及び概ね理解したので、これも復習として聞いているだけで十分だろう。千数百円と二単位の交換と思えば、割のいい買い物か。

 とはいえ、どうやら出席はとらない形式であるらしく、試験日も前もって告知されているため、同講義を採っている学生の一定数は、次回から自主休講を行うことを考えているかもしれない。

 そしてやはりというべきか、効率を最重視する草刈柊子くさかりしゅうこもまたそれと同様の思考には辿り着いた、けれど、実行することはまず有り得ないだろう。


「帰りましょうか」

「そうだね、先生からも結果を聞かなきゃいけないし」


 無遅刻無欠席、加えて早退も授業中の居眠りも一切無い彼、吉野柾樹よしのまさきがいる限り、共に在る限り、ほんの少しでも道を踏み外すことはない。

 あらゆる物事に等しく真摯に取り組み、かつ全力で目的達成に邁進する。七年弱もの年月をかけてうずたかく積み上げられた柾樹のそれは最早習慣や志といったものを越え、呪いと呼ぶべきものの域に足を踏み入れつつさえあった。


 筆箱と教科書を手早く仕舞い、帰宅する準備を整える。次の講義が入っていない大階段教室にはまだ多くの学生がひしめいていたが、それらには視線の一つも遣ることもなく後にし、揃って帰路に就く。

 いつものように柾樹は小サイズの参考書を取り出し、無言で歩きながら読み始める。あまりにも真剣な表情で、人生を賭けた大舞台に挑むかのような面持ちで、何者をも寄せ付けないほど重苦しい空気を漂わせて。


 完全に、


 これに関してはあまりにも当たり前すぎて、今となってはもう何も思うところはない。ただ、恐らくこの時期限定ではあろうが、少しだけ危険だ。

 講義棟を出ると、そこには。


「ラグビー部でぇす! よろしくお願いします!」

「男子バレー! 男バレはここだよぉ! おっ君背が高いねえ、バレーどう?」

「このあと十六時半から弓道場で体験会やりまーす! 興味のある人も無い人も是非来てみてくださーい!」

「少林寺拳法部! 説明会の後新歓で焼き肉行きまーす!」

「あっちの芝生で航空部の実物展示してます! 触ることもできますよ!」

「そこのあなた、スキー部どう? 楽しいですよぉ!」

「はいこっちどうぞ! いえいえ話だけでも聞いて行ってくださいってぇ!」

「キミも応援団やってみない? 絶対損しないよ!」

「ハンドボール部ではマネージャーさんも大募集中でぇす! 見学だけでもどうぞ!」

「硬式野球部! 硬式野球部はここです!」

「女子ラクロス部、初心者大歓迎! 先輩にも初心者からの人たくさんいるので安心ですよぉ!」


 大学構内には、新入生を確保せんと勧誘活動を行う各部活、サークルの上級生が所狭しと動き回り、次々に一回生に声を掛けては進路妨害を繰り返していた。

 まさに、大学のようの面を体現したかのような人込み、賑やかしさ。一年でも四月から五月にかけてのこの新歓の時期か、学祭のときくらいでしかみられない浮かれ具合をこれでもかと見せつけてくれる。


 これがあるから面倒だったのだが。微塵も関心が向かない、これからも向くことはないことにうつつを抜かしているつもりも暇もあるわけがない。

 既に決まり切っている道筋を辿る柾樹の前に立ち、さながらボディーガードのように周囲を警戒しながら人の海を掻き分け渡っていく。


「あ、あなた女バスに興味ない? 女子バスケ!」


 しかし。案の定というか何というべきか、敏感に新入生の気配を感じ取った先輩学生に行く手を阻まれてしまう。数は二人、押しは強そうだがあまり慣れているようにも見えない、それより真正面に陣取られてしまったことの方が痛いか。

 まあ、これまでとそう変わらない。他と同じように、すげなく断ればいいだけだ。


 間を無理やり押し通るよりは、こちらの軌道を修正して避ける方が良いと考え、となれば柾樹の手を取って、と振り返ろうとする、が。


「君、一年生? 卓球部とか興味ない?」


 すぐ前を歩く柊子が勧誘に捕まったために自然と背後の柾樹の足も止まり、更に一歩下がったことで不自然な空間が形成してしまっていた、そして彼が動いていなかった一瞬の隙を突かれ、別の勧誘の手が湧いて出てきてしまっている。

 迂闊うかつだった。こちらを一人で振り払うのは訳ないが、柾樹の方に無駄にまとわりつかれては移動に手こずる、連鎖して勧誘に補足されるのは避けたい。


「あれ、そちら彼氏さん?」

「ちょうど今日は男バスと合同で説明会やるんだー。一緒にどう?」


 振り返ったことで連れ合いに意見を求めたのだと勝手に合点した女子バスケ部の勧誘員たちは、柊子の動きに合わせるようにおおよそ90度回り込み、再度正面を維持して話を続行しようとする。

 これは面倒、しかし好機。


「とりあえずこれ僕ら卓球部のビラね、活動日とか、今後の新歓日程とか書いてあるんだ……けど……」


 にこやかに、けれど有無を言わせぬ勢いで会話を押し付け、ビラを手渡そうとする卓球部の勧誘員は、次第に言葉の勢いを失ってゆく。


 大学入学から約二週間。都会での生活も、授業形式や風習などに関しても少しずつ学習し、誰もが理解し始める頃合いだが、大抵の学生はまだ強引な勧誘を力強く断る術を構築するに至っていない。

 それは単純に慣れていないことであったり、相手が明らかに年上の先輩学生であることであったり、集団に囲まれることで強く出られないことであったり、この場の雰囲気や空気に呑まれてしまっていることであったり、要因は様々あることだろう。兎にも角にも、上級生にとってはここが新入部員獲得に最も適した場面で、新入生にとっては自由に動くことができない、最も苦しい場面であるのだ。


「今日はこれから集団説明会を兼ねた食事会の予定なん……です……が、あの」


 もっとも。

 それは、新入生側が反応を返すという、当然のような前提を基にした話であるのだが。


「えっと、これ……とりあえずこれだけでも、受け取って、くれないかなあ……」


 先程から一瞬たりとも手元の参考書から目線を離さない柾樹からは、期待するような返事は、反応は出てこない。参考書を覆うように差し出されたビラを無言で押し退け、ひたすらに目で文字を追うその姿は、病的なまでに真剣で、本気で、鬼気迫るものだった。


 どうやらどれほど声を掛けても無駄であることを察したのか、卓球部の勧誘員が苦笑いと奇異の目を残して撤退の兆しを見せる。

 ならば都合がいい。


「説明会のあとはイタリアン行くんだ。パスタ、ピザ、バーニャカウダにアクアパッツァ、他にも色々あるよー」

「もちろん新入生はタダ! 話だけでもどうかな!?」


「いえ」


 早口でまくし立てる女子バスケ部の勧誘員たちを手で制し、柾樹の上腕を掴んで一気に加速する。


「結構です」


 半身で人込みに突っ込み、人と人の合間を縫って進み、距離をつける。見込みが薄い相手をしつこく追うほど余裕があるわけでも、よほど勧誘したい理由があるわけでもあるまい、見えなくなってしまえばこっちのものだ。


 そもそも部活に入ることの利点が限りなく薄い、話さえ聞く気にもなれない。

 上下の繋がり? 同学年の友人? 必要性が見出せない。交友関係は重要とは思えない。過去問の提供、共有? まともに勉強していれば余程のことでない限り必要はない。健康の為? 体力向上の為の走り込みや筋力維持の為のトレーニングは毎日欠かさず行っている。

 私たちには、不要のものだ。それが柊子と柾樹の共通見解であった。


 ようやくキャンパスを出、最寄りの駅まで歩く。そこからは人通りも普通で、柾樹の腕を放すものの、特に反応はない。決まりきった道筋をなぞるだけだ。


「…………」


 時折、不安になる。

 七年以上も吉野柾樹という人物の隣に居れば嫌でもわかる。年月を経る毎に、季節が巡る度に、次第に彼の心が壊れていくことが。書物に向けられるその目から生気が失われていくことが。


「駅、着いたわよ」


 かける言葉に対する反応が、日に日に遅く、鈍くなっていくことが。


「柾樹」


 改札のすぐそばで、肩を叩き彼の意識を現実に引きずり戻そうとする。自力で出来ることを何もかも代行するわけにもいかない、今に生きる一人の人間であるという自覚を捨てさせてはならない。


 けれど。


「……え、あ、そうか。もう、か。ありがとう」


 いまいちはっきりしない寝起きのような挙動で、定期を取り出し改札を通り抜ける柾樹に、柊子は言い様のない痛みを感じる。

 ただ反応が薄くなっていっているだけではない。自宅に居るときも意識を落としてしまっている時間が明確に増え、伸びている。食欲も減衰し、感情の表出も目減りしている。


 その原因は、分かり切っていることだ。


 彼は、あまりにも背負い込んでしまっている。

 実質的に彼の所為せいではないということなど、柊子や要らはとっくにわかりきっているというのに。更にいうなら、あの「ずっと、このままでいられたら、いいのに」という言葉でさえも、直接的な原因ではないとも、理屈では理解出来ずとも、肌で納得出来ているはずなのだ。柊子の推論が仮にも正しいとするならば。


 自分を許せないのはわかる。


 それでも。


「先生の返事だけど。明日来てください、って」

「時間は?」

「十三時から十五時なら研究室で、らしいから承諾しておいたわ」

「うん、ありがとう」


 階段を下りながらそれだけ言うと、柾樹は再び参考書を取り出し、それに目を落としたまま所定の位置に立ち、電車を待つ姿勢に入る。


 絶え間なく精神をに負荷をかけ、容赦なく苛んでくる花火の幻覚を前にして。

 一切の他の事物を許さない。まるで、彼一人が失敗してしまったらこの世界全てが崩壊でもしてしまうかのような使命感と、それにより自身に課した責任感の重さに妥協せず、逃げようともしない。

 明らかに、やりすぎている。努力の域を逸脱している、力の入れ方とその加減を大幅に間違えている。


 このままでは駄目だ。


 止めなければ。辞めさせられずとも、少なくともその生活を変えさせなければならない。

 そう、思っているのだが。


 柊子は、それが出来ずにいる。


 それどころか。



 このままでいいとすら。思ってしまうのだ。






 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、反対側のドアに寄り掛かり参考書を読み耽る柾樹、その向こうに。その背後の窓を通した先の空に。

 柊子は、いつもと変わらない幻覚を見る。


 変わらない黒、と。


 赤と黄色。緑。金からの銀。紅。細かい黄の連続、泳ぐ青。枝垂れるオレンジ。クロセットの紫からエメラルド。緑とその末端に点滅する水色。赤から始まり淡く消える銀。ピンクの残輪を見せる紅。小割浮に映える青と緑、レモン色。万華鏡を思わせる金と紫、青。


 彼女の空に咲く花は、一つではなく。静止した画でもなかった。


 止め処なく上がり続ける花火。弾け終わらない花火。消えないのではなく、一つが消えるときにはもう次が開いている。文字通り、絶え間のない光の地獄が、柊子の目を通して世界に存在していた。


「……っ」


 突如襲い来る、視界が捩じれる錯覚、強烈な吐き気と鋭い頭痛に、柊子は顔を歪ませる。耐えられない。耐えるしかない。


 いや。彼女は、耐えなければならない。


 あさましく低劣な願いの、代償として。





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