第11話 春日要は座して待つ
放課後を迎えても、気持ちが晴れることはなかった。
何も知らないからこそ悪気のない純粋な疑問は、
ただ、不幸中の幸いとでも言うべきか、皮肉なことにタイミングだけは丁度良かった。退院する
「……じゃァな」
「? おう、また明日な」
「じゃなー」
いつもは帰路を共にする二人に手を振り、教室を後にした。
昇降口で上履きから外履――ローファーに履き替え、少し躊躇ってから、正門を抜けて。携帯を取り出しつつ、病院への道を歩き始める。
今日は残暑が厳しい。視覚的には夜空に浮かぶ花火しかないが、きっと太陽がこれでもかと照りつけてきているに違いない。
光が肌を焼く感覚だけが直に伝わってきて、その違和感に頭を狂わされそうになる。見えないところから一方的に攻撃されるっていうのは、こんなものなのだろうか。そんなことを考えながら、額に滲む汗を拭う。
今の自分には、丁度いい。
『もしもし? 要? もうちょっと待っててね、もうすぐ車出すから』
「いや、いい」
別に、すぐに向かっていなくてもよかった。むしろ、母親が車に乗って迎えに来るのを教室で駄弁りつつ待っていればいいだけ、だった。
でも、そうはしたくなかった。
その場にいたくなかった。時間がほしかった。何かに身を委ねたかった。意味不明なまま太陽光に焦がされていたかった。
『いいって……どうして。バスで行くのかい?』
「歩いて行きたい気分になった。ゆっくり来てくれれば大丈夫」
一人で。歩いて行きたかった。
『わかった。私はあんたの後に行くから。しっかり歩くんだよ』
「うん」
それだけで電話を切る。自分で言ったからには、片道に一時間以上はかかるほど遠かろうと、きちんと歩かねばならない。
この程度で折れ曲がっているようでは到底、この先を強く生きていくことなど、できはしない。
要するに、
空を仰ぐと。目を閉じたくなるほど華麗な炎の花が、誇らしげに、美しく咲き誇っている。
幻覚の件で良くも悪くも注目されていた中学で、ただひたすら勉強だけに打ち込む
良い捉え方をすれば熱心、勤勉、真面目。教師からすれば、とても模範的な生徒に見えたに違いない。
それが普通の範囲内であるうちは。
次第に柾樹は、普通の枠組みから外れていった。
特別頭がよかったとか、才能があったとか、伸びが凄まじいとか、そういったところではなく。ただひたすら、向かい合う姿勢とその時間という点で、彼は緩やかに、しかし確実に逸脱していった。
朝も、昼も、夜も。午前も午後も、春も、夏も秋も冬も、一学期も二学期も三学期も、平日も休日も祝日も日曜も月曜も火曜も水曜も木曜も金曜も土曜も盆も年末も元旦も正月も夏休みも冬休みも春休みも大型連休も先勝も友引も先負も仏滅も大安も赤口も春分も夏至も秋分も冬至も立春も立夏も立秋も立冬も一月も二月も三月も四月も五月も六月も七月も八月も九月も十月も十一月も十二月も雨水も清明も小満も小暑も処暑も寒露も小雪も小寒も啓蟄も穀雨も芒種も大暑も白露も霜降も大雪も大寒も梅雨も十五夜もハロウィンもクリスマスもバレンタインも節分も台風も、晴れの日も雨の日も、曇りの日も雪の日も。
いつだって、吉野柾樹が勉強を止めることはなかった。
動機は至って単純だ。
神藤花菜を救うため。その身体を蝕む病を治すため。
理由は極めて簡潔だ。
眠れないから。目を開けていれば永遠の輝きに眩み、目を閉じれば不断の爆音が苛んでくる。
結果は至極順当に表れた。
柾樹は半年で、学年で一番になった。二年で、三年生の進行度を抜かして中学で一番の学習範囲、速度を誇るようになった。四年が過ぎた今では、一年生の夏の時点で高校の教育過程をほぼ全て学習し終えていた。一日の中で費やせる時間の差の積み重ねは、確実に彼を押し上げていったのだ。
そんな化け物がいるこの環境において、彼の隣に一度でも机を並べた者は、等しく同じ感想を抱く。
そう言い表す他に、何があるというのか。文字通り寝る間も惜しんで、寝不足で効率が落ちることも厭わず、ひたすら量で押し切っていく力技だけで強引に進んでいく柾樹を、「普通」の定義の中に押し込めることは出来なかった。
彼に追いすがる者は、次第に一人、また一人と減っていき、既に
追い付けるわけがないのだ。勉強が好きだとか、向いているだとか、そういう次元ではない。彼は勉強に集中するしかなかった。そうしなければ自我が花火の音に飲み込まれるという状況で、止まることなく走り続ける以外に選択肢はなかったのだろう。
しかし、それを理解できるのは。要を含むごく少数、同じ花火の幻覚を持つ者だけで。
そんなことを続けていれば、いずれ遠くないうちに柾樹が壊れてしまうことは明白だった。でも。誰も、彼を止めることはしなかった。
少なくとも、要は。できなかった。
蝉が鳴いている。
照りつける太陽の存在を、背中だけに感じる。
いっそのこと。完全に狂ってしまえたなら。全てを幻想に囚われてしまったなら、少しは楽になるだろうか。と要は問いかける。
どれほど好きなものでも、綺麗なものでも、感動的なものでも、次第にその感覚は鈍っていって、新鮮さを失って、愛着を通り越して、飽きてしまうものだ。それが毎日、意図せず強制的に受け止めさせられているならば、尚更。
要にとって、正直なところ、完璧な花火を延々と見させられるのは、実際相当に厳しいことだった。
なにしろ、それは要の中での最高なのだ。現実と理想の乖離を、圧倒的な差を、届きそうもない絶望的な距離を、絶えず突き付けてくることと同じ。お前は未熟なのだと耳元で罵倒されることと、そう変わらない苦行を視覚的に強いられる。
無論、要はそれが自業自得だということは理解できていた。きっとこんなことを考えているのは、勝手に責められている気持ちになっているのは、自分だけなのだと。
だから。
だから彼は考える。
きっと多分、オレ一人が諦めたところで。別にみんなは気にもしないし、することはこの先もないだろうと。だからこんな辛い事は投げ出してしまわないか、と。いつまで続ければいいかもわからないこんなことなんて、辞めてしまわないか、と。問いかけられるのだ。
――誰に?
いつの間にか止まっていた足を、また前に出す。
歯を食いしばり、地面に無様に転がった自分の残骸を力の限り蹴飛ばして。
前に進むんだ。
病院へ続く道は、まだ先へ先へ、途方もなく伸びている。
単独で先へ先へと歩いて行ってしまう柾樹に追いすがるのは、今や
柾樹と一緒にいて心が折れないわけがない、でも、それでも彼女は食らいつき続けている。
とにかく費やす時間、量で押し通すのが柾樹だとすれば、柊子は徹底的な効率重視。常に自主的な学習で先取り、授業を復習程度に活用し、
二人を間近で見ていればその違いは明白なのだが、多感で興味の対象がぶれやすく、周囲の目を気にする頃合いの高校生にはわかるはずもなく、ただ一括りにして奇妙だとされ、敬遠されるばかりで。
表向きは、いじめなどは起こらなかった、とされているし、実際に実害が出る形でのそういったことは特に無かった。要や檜奈乃が「通常」の方に違和感なく溶け込んでいたこともそれなりにあっただろう。
けれど、今日の昼に遭遇した場面のように、陰口を叩かれていたり、密かに心無い中傷を囁かれていたことは間違いない。本人たちも鈍くはない、きっと気づいてはいる。
要は、何が違うんだろうと考えたことがある。
花火の勉強を熱心にするオレは良いことにして、普通の勉強をする柾樹と柊子には後ろ指を指すんだろうと。そこに何の違いがあるというのか、むしろ普通から外れているはずのオレの方が変な奴という扱いをされるのが道理、ではないんだろうか、と。皆に直接訊くわけにもいかないし、一人で。
辿り着いた答えは、簡単なものだった。
怖いんだ。
自分と同じ分野、同じことをする競争相手が、自分より強いことが怖いんだ。
熱心に取り組む奴を見て、それより真面目にやっていない自分を顧みるのが。彼らより能力的に劣っていることを自覚するのが。前提条件も異なれば、比較する意味なんて特に無いのに。心の安寧を得るために、自分は間違っていないという自己肯定が欲しいがために、指先を揃えて、足並みを揃えて蔑むことを止められないんだ。
その気持ちはとてもわかる、わかってしまう。常に自分より遥かに優れたものを、格が上の人を見せられるのは確かにきつい。きついし、逃げられない。
それで相手を貶める方向に流されるのも、わからなくはない。自分を変えようとするよりも、そっちの方がずっと楽だし、簡単だ。それじゃあいけないのだと、知っていても。
誰よりもしわ寄せを受ける側に回されてしまっている柊子が、精神的に素晴らしく強いわけではない彼女が、それでいて平気でいられる訳もない。もう周囲を見なくなった柾樹と違って、花火の幻覚と現実の視線、二重の圧力に晒されて、無事でいる方が無茶だというものだ。
では、そんな彼女を繋ぎ止めているものは何かといえば。
ごく単純で、何の変哲もない話だ。
春日要は、そのことを考える度に、少しだけ、少しだけ心が軽くなる。
弱いが故に。
ふと気が付くと、病院が目の前に迫っていた。
どれだけ歩いただろうかと腕時計を確認すると、汗に塗れたそれは、学校を後にした時刻から約一時間と三十分ほどの時の進みを示している。
思ったよりは、早かった。
エントランスを抜け、白くて清潔な、でももう閑散としてきているロビーを通り過ぎる。もうそろそろで窓口が閉まる時間だ。勝手に足が速くなる。
およそ一か月半前には柾樹と柊子と共に歩いた、それから一月以上、一人で通い詰めた廊下には、突き当りの大窓から花火の明かりが差し込んできている。いつも、いつでも、きっとこれからも変わらない角度、強さ、色合いで。
いつか、要がそれを打ち破らない限り、永遠に。
ゆっくりと、その光を踏み抜くように歩を進めていく。病棟内は、いつも通り静かなものだ。だって、花火の音しか聞こえない。風が吹きすさぶ音や、車の駆動音、子供のはしゃぎ声や蝉の鳴き声なんてものがなければ、それはそれは綺麗に、際立って聞こえてくることだろう。
……頭がおかしくなりそうだ。
病室の扉を開ける。
いつもの病衣とは異なる、薄桃色のマキシワンピースを着た櫻井檜奈乃が、目を閉じてベッドの縁に腰かけていた。
「……迎えに来たぞ」
扉の開閉音で気付いてはいたのだろうが、微動だにもしていなかった檜奈乃がようやく顔を上げる。まるで、声を掛けられて初めて気が付いたかのように。わざとらしく。
病室に一人で入ってきた要の姿と、病室の扉が閉められていることを確認すると、檜奈乃は緊張の糸が切れるように、力を抜いて項垂れた。安心するように、しかしこれからに絶望するように。
「要」
下を向いたまま、彼女はぽつりと言葉を零す。
「わたし……」
要には、今も苦悩に打ちひしがれる檜奈乃が言わんとしていることが理解できていた。他の誰も知り得ない、知られてはならない一つの秘密を。
彼女が友人を大切に想うが故に、彼女が包み隠すことを。
「大丈夫だ」
それ以上を言ってしまう前に、速足で近寄り、その肩をかき抱く。
「あっ」
強く、強く。弱くて嘘だらけの自分諸共、全てを抱きしめて。崩れてなくなってしまわないように、今に繋ぎ止めておけるように。
「大丈夫だ。柾樹も柊子も、東京に行っちまう。あと、一年とちょっとの辛抱だ」
「わたしは……もう……」
そうしたら、この田舎に残っているのは春日要と、櫻井檜奈乃だけとなる。必死にバレないように偽装する必要もなくなる。後は、全ての結末がやってくるのを、要が最高の花火を作るのを待っているだけだ。
一緒に、ここで。座して待つことを選ぼうと。語り掛ける。
「檜奈乃」
「どうすればいいのか……わかんないんだよ……」
声を殺して泣く彼女が苦しむ原因はたった一つ。簡単で、どうしようもないことだった。
それは、春日要や吉野柾樹、草刈柊子、榊原蓮と同じものではなく。
それどころか、真逆。
花火の幻覚が、見えないということ、であった。
春日要は今日もまた、空を睨みつける。
理不尽な現実を。最高の理想を。
いつ出るとも知れない答えが出るまで、それこそ、心が折れるまで。
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