第10話 春日要にはわかっている



 九月。


 暑さが残るどころか、これからが本番だぜと言わんばかりに上がったまま降りてこない気温が、教室のエアコンと仁義なき全面抗争を繰り広げている頃。

 今日もまた、昼休みの鐘が鳴った。生徒たちは午前最後の授業を終えた教師に揃って礼をし、各々の昼食の準備に取り掛かる。

 少しでも早くと、扉を開き我先にと購買へ駆けていく者、左右前後の机を突き合わせ、教室で弁当を広げる者、友達と連れ添って談笑しながら学食へ向かう者。思い思いに、高校生一同は方々へ散らばっていく。


「おーい要、学食行こうぜー」

「ん、あァ、すまん、行くとこがあンだ」

「え、あー、そっか。そうだったな、んじゃまた後でー」

「応」


 彼らと同じように。否、異なる目的に沿って教室を後にする生徒が、若干名。

 春日要かすがかなめは、弁当箱を片手に、一人で職員棟の方へ向かう。教師からの呼び出しではない、それなら弁当を携えはしないし、そもそも教師も昼飯は摂らなければやっていけない。部室で、というわけでもない、帰宅部だし。家で花火の勉強をするほうが有意義だ。


 理由は既に、決まっている。


「よーっす」

「要。おはよう」

「おはよう」

「お早ゥ。もう昼だぞ。昨日はちゃんと眠れたか?」

「まあね……。ばっちりだよ」


 道中、いつもの面子のうちの二人、相変わらず目元の隈が深い吉野柾樹よしのまさきと、淡々と柾樹に合わせた挨拶をする草刈柊子くさかりしゅうこと合流する。


 この二人と、昼食を共にするため。

 高校二年の二学期になって、今更。新しくできる日課、のようなもの。


 目指す先はどこぞの空き教室でも、三人だけの部活の部室でも、密かに鍵を複製してある屋上でもない。足並みを揃え、彼らは職員室の向かいの、会議室の扉を開く。

 既に空調が効いていて、窓は全て閉め切られ、カーテンもきっちり引かれた真っ暗な部屋が、花火の幻覚を共有する三人を迎え入れた。


「ふーゥ、飯だ飯だ」


 ぱっと電気を点け、長方形を形作るように配置された長机のテキトーなところを選んで座る。二十名ほども利用できそうなこの部屋も、今はたった三人で貸切状態。贅沢なものだ。

 歩くことすら億劫だと言わんばかりに、柾樹は扉のすぐ側のパイプ椅子を引き、柊子もそれに続く。仲がよろしいことで。苦笑いを噛み殺してやり過ごす。


 いつも通り母親が作ってくれた弁当を広げ、楽しい楽しい昼食の時間が始まる。


「檜奈乃の退院、今日だっけ」

「その予定だな。まァ無理して来るこたねェぞ。うちは車出すが、お前らバス通学だろ、家も逆方面だしよ」

「うん……じゃあ、頼むよ」

「あの子に、よろしく言っておいてくれる?」

「おう、ッたり前ェだ」


 昼休みの時間中、空き会議室を、春日要、吉野柾樹、草刈柊子、そして櫻井檜奈乃の四名に提供する。


 どうして彼らにそんな待遇が与えられたのか。それは偏に檜奈乃の入院と、柊子の心ばかりの訴えのお陰だった。無論、彼らが気が狂わんばかりの幻覚を有していることを大前提として。

 空に幻覚を見る彼らへの特別措置として、檜奈乃の病室は窓が封鎖された。隙間なく、かっちりと。

 朝も昼も夜も、少しでも空の黒を見るだけで重大な精神的苦痛を得てしまう、特に食事も喉を通らない、とのことから、その要請は容易く実現された。残念ながら、直接脳に響く音の方はどうにもならなかったが。

 その檜奈乃が退院するにあたり、高校においても同様かそれに近い対処をする必要がある、ということと、同じ症状を持つ他三人に対しても同じ配慮をするべきだということより、案外にもあっさり決定した、らしい。


「無事に退院できて良かったね。倒れたって聞いたときは、そりゃあもう驚いたけど」

「まあ、あいつァそれなりに頑丈だからな」

「……言い方、他に無いのかしら」


 眉をひそめ、柊子は冷めた視線を投げかけてくる。


 曲がりなりにも檜奈乃と仲の良かった彼女の心情も解らなくはない、が、気遣いというものは時として過ぎた侮辱に成ってしまう。これが、要と檜奈乃の正しい距離感だ。他の誰にも理解されることのない、絶対的な。


 無機質な冷房の風の音が、大きくない会議室を満たしていく。

 生徒が多く押し込められている教室棟や食堂はここからは遠く、声も届いてはこない。たった三人だけでは、この部屋は大きすぎて、静かすぎる。ここに檜奈乃が入ってきたとしても、きっとそれは変わらない。美しい花が開く爆音が延々と鳴り響くだけ。そう考えると、これはむしろ、逆効果なのかもしれない。


「結局、れんは帰って来なかったな」

「きっと忙しいんだ。仕方ない、よ」


 高校進学に際して東京の方、全寮制の学校に一人で進んでいった榊原蓮さかきばられんとは、卒業式の日以来、半年近くが経った今でも、連絡が取れないでいる。

 都会に出て、花菜を探すとは聞いていたが、逆に言えばそれしか聞いていない。その手段も、手がかりも、根拠も、自信も、何もかも。その他の全てと言っていい部分については、少なくとも要は知り得ていない。


 中二の頃の初詣の時に一対一で話をしていた柾樹なら、もしかしたら知っているかもしれない。でも。

 でも。知ってどうなる。どうにもならない。仮にそうだったとしても、そこには蓮の何らかの意図があるはずだ。

 ならば、出来ることはない。信じて待つ、以外には。


「夏休み中も一回も帰らなかったンだってな。マジでこっちの情報入れる気ゼロじゃねェか」

「信じてくれてる、ってことだと思う。多分……だけど」

「わーってるっつの。わざわざ嘘言う奴だなンて思ってねェよ」


 分かってる。分かってはいる。それでも、言い表せないもどかしさがある。胸のあたりに溜まって渦を巻く。掻き毟りたくなる不快さがのたうち回ってたまらない。


 それは、同じく胸に巣食う、多少の後ろめたさにも関係しているのだろう。


 皆。同じなんだ。

 柾樹、檜奈乃、蓮、柊子は。少なくとも、花菜のために、友達のために動いている。努力している。純粋で透明で綺麗な、羨ましいと感じるほど眩いばかりの、その感情を原動力としている。


 対して。要は省みる。

 今も昔も、春日要を動かしているのは花火への自己的な欲求。それは極めて個人的なわがままに過ぎない。どころか、この状況を喜んでさえいる。顔を上げればいつでも花火が観られるという状況を進んで受け入れている、そんなことを知られれば皆に白い目で見られるかもしれない、そういう自分を。

 その自分は、表に出すわけにはいかない。飽くまで友人のために。この友人たちと同じ目的のために。花火に打ち込む自分で覆い隠す。


 でなければ。きっと要には、皆と一緒にいる意味がない。


 価値がない。


「こっちにいる両親には伝わってるはずよ」

「ンなら、一応知ってはいる、ってのか」

「その上で帰って来ないんだ、きっとよっぽど忙しいんだよ」


 本当にそうなら、何も問題は無いのだが。


 自らの意思で道を違えた蓮は、今後、俺たちの誰とも会わずにこのまま行方をくらませることだって、そう難しくはないはずで。この、血が滲むほど肌に食い込んでくる友情ってやつから一人だけ逃げ果せることも。


 いや。


 違う。違うだろう。


 二人には決して気づかれないように、要は奥歯で情けない己を噛み締めた。広がる苦味に、眉間に溝が刻まれる。

 何を考えているんだ。友情を盾に自分を偽っているような奴が。それを疑うなんてことは、それこそ許されない。


「そのまま東京の方で進学するなら、どうせ会うでしょう。一朝一夕で振り回される問題でもないわ」

「まあ……それもそう、だな。そンときにお前らが話、聞いといてくれりゃァいい」


 大丈夫、大丈夫だ。

 信じればいいだけだ。信頼されたければ信用する以外に術はない。そうであること、それ自体に意味がある。


 各々が選んだ役割があるんだ、他に何が重要であろうか。


「まだ、いけるかどうかはわからないけどね」

「馬鹿言え、お前ならどこだって行けるっつゥの」


 そう、柾樹なら。短時間睡眠に無理やり適応したうえで、何にも現を抜かすこともしない彼なら。きっと、どこへだって行けるだろう。

 少なくとも要はそう確信しているし、彼の普段の行動を目の当たりにした周囲の生徒、教師の誰もが同じことを言うに違いない。

 いくら謙遜を言ったところで、もう既に彼に対する周囲の認識は定まっていた。


「世の中には俺より頭がいい人は沢山いるし」


 苦しそうな笑みを浮かべながら、柾樹は弁当の蓋を閉める。


 彼が言うのなら、きっとそうなのだろう。まだ見ぬ世界は、どこまでも広大だと。


「それに、教科書の勉強だけじゃ駄目、だからさ」

「……ああ、応援してる」


 弁当箱を三角巾で包み、そっと椅子を引いて立ち上がる。片付け終え、長机に教科書とノートを広げた柾樹と、いつのまにか読書を始めていた柊子を横目に、要は静かに会議室を後にする。

 楽しいランチタイムは終わりだ。あとは、昼休みを使って彼らが勉強と読書に明け暮れるだけ。そういう意味でも、勉強は自宅派という点でも、要は立ち去るのみ。


 さて、教室にでも戻るか。文化祭もほど近くなってきて、それについての話し合いだってあるかもしれない。


 渡り廊下の中腹。大きな窓越しに見える花火は、いつもと何ら変わりなく。美しく輝いている。


 花火は決して裏切らない。あの日の花火は、今も春日要の到達を待っている。


 いつまで?


 きっと、いつまでも。あるいは、なにもかも投げ出してしまって、諦めて仕舞えば消えてしまうのかもしれないけれど。

 だから、目線を切って、背を向けて、歩き去っても。見ていなくても。要がそれを見失うことはない。

 春日要には。それしか。


「――でもさ、なんで要のヤツ、あんな奴らと絡んでんのかねー」


 教室棟との合流地点、十字路に差し掛かるところで、先ほど教室で別れた友人の声、二人分が、聞こえてくる。


「小学校からの付き合いだろ。例の幻覚仲間って感じでさ」

「いや、それがあるとしてもだぜ。あのガリ勉二人と要は……合わねえよ、絶対」

「それは、まあ、言えてる」

「櫻井さんは普通だけどさ、吉野と草刈は……なあ? 明らかに他とは違うんですオーラ出してるしよ、確かに次元が違う感じはするけど、悪い意味で」


 笑い声が、やけに空虚な響きを持って鼓膜に突き刺さる。


 配慮されていた、というのは。蓮の家族、榊原家がこの辺りで力のある名家であったため、病院や学校側の『大人たち』がしていただけのこと。


 奇妙なもの、珍しいもの、知らないもの、自分の常識から外れたもの。それらに興味を抱き遊び、差別する一方で群れ、安全圏で愉快に過ごしたいだけの、刺激を求める時期の子供には、それは理解し難い“おはなし”なのであって。


「…………」


 近付いてくる足音に、要は思わず角の柱の陰に隠れ、息を潜めてしまう。


 なんでだ。何も動揺することじゃあない、なんでもない風にポケットに手を突っ込んで歩いて出て行って、そこで初めてあいつらに気付いた体を装えばいい、だけ、なのに。自分に言い聞かせても、脚は、身体は動いてはくれない。

 柾樹に、柊子に、後ろめたいことなんてないのに。


「幻覚っつーのも嘘なんじゃね? うさん臭えし、特別扱いされるために、とか」

「ある。一回言ったら案外みんな信じちゃって、今更嘘だって言い出しづらくなってるだけかもしれねえな」

「お前もよくやるやつじゃんな。要も大変だよなぁ。わざわざ付き合ってやっててーー」


 違う。


 違う、違うんだ。


 次第に遠ざかっていく二人組の背中を睨みながら、要は表しようがない自分への怒りを手のひらで握り潰そうとする。


 これは。




 誰のわがままなのか。


 誰のための願いなのか。


 わかっているんだ。



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