第8話 春日要は揺れる
花火大会の開催を目前にした昼過ぎ、込み合っている道路を逆走するように車を飛ばすこと十分強。
駐車場で空きを探す時間すら惜しいだろうと急かされて、ここまで運転してきてくれた母親に後を任せて、一足先に院内へ向かう。こんな時でも、苛立たしいほどに空は黒く澄み渡り。花火は美しく咲いている。
「……要」
閑散とした病院のロビーに足を踏み入れると、待合のソファに座っていた
そして、当然のように柾樹の隣に腰掛けている
いつもと変わらない、小学生からの友人たちを目にし、少しだけ安心する。
「よう」
軽く呼びかけながらゆっくり歩いて近付く。しかし柾樹は何か考え込んでいる、というよりは何かに思考を奪われているようで、口元を左手で覆い、暗い顔を張り付けたまま俯いてしまう。
動揺が、痛いほどに伝わってくる。彼は『友人』のことに関しては、一際砕身するような奴だ。今回もどうせ、責任なんて特に無くても。勝手に心を痛めてしまっているのだろう。
美徳、でもある。しかしそれは、行き過ぎると狂気と化す。
柾樹は。四年前の今日、花火大会の夜から、あの言葉から。そうであるように変わってしまった。
「来たぜ。
春日家の一員としての花火大会の設営の仕事を放りだしてまで、その身を案じて駆けつけた相手の名前を口に出す、けれど。柾樹は微動だにしない。単純に声が聞こえていないのか、それとも。
猫背に近い体勢で、柾樹の顔を斜め下から覗き込んでいた柊子は、何も返す気配がない柾樹の様子を確認すると、背もたれにゆっくりと体重を預け、小さく溜め息をつき、彼の代わりに口を開いてくれる。
「入院措置になるそうよ。もうすぐ面会の許可が下りる頃でしょうね」
「容体、は?」
「命に別状はない、とは聞いているけれど。詳しいところは分からないわ。知らされていないもの」
言外に不満を表そうとする柊子の瞳には、明確な嫌悪が見て取れる。けれど、それだけでは彼女の意図するところは伝わらない。要には、判別できない。
どこまで知っていて、どこまで知らないのか。どれだけ看破しているのか。しかし、柾樹がいる今に限っては、要はそれを確認する手段も、その度胸も持ち合わせてはいなかった。
今度は要が次の言葉を見失い、人気のないロビーは端に置いてあるテレビの小さな音だけで満たされる。とても薄い、軽い、不安定極まりない、意図的な沈黙だ。
「発狂に近い形で錯乱していたことで搬送されたから、倒れたって言っても体調の悪化や怪我、病気ではないわ。精神の限界が来たらしい、とだけ」
「おお、そりゃ、よかった……で、いいのか?」
生死に直結してしまうような事態ではなくてほっとしたのは事実。しかし、安心できるような状態、及び状況ではなくなってしまっているのもまた事実。とりあえず、直接確認しなければ判断はできないか。
原因の察しはつく。
腐っても幼馴染だ。
それを知らない柾樹や柊子が想像出来る範囲内には、解答はない。何故なら、彼らも、要もそうであるように。幻覚症状で憔悴するようなことは、檜奈乃にとっては全く有り得ないことだからだ。その理由は、些か異なっていると考えられるが。
「どうかしら。これで少なくとも、あの娘の病を治すだけでは済まなくなったのは確か、だけれども」
「あァ。だからコイツがそんな深刻な顔してんのか」
二人して、まだ俯いている柾樹を見詰める。真面目で、真面目すぎる故にこの親友は。何もかもを背負い込み、一人で何とかしようとするきらいがあるどころか、全て自分の責任だとして罪悪感を覚えてしまうのだ、本気で。
だから。神藤花菜が罹っている――罹っていた難病の治療法を探すために、その結果として要や柊子らが対面している花火の幻覚、幻視幻聴を治すためにひたすら頑張っている彼は、今回それによって精神が疲弊してしまった櫻井檜奈乃をも救おうと、救わなければならないと、尊い志を燃やし、直面している厳しい現実を睨みつけているのだ。
そのことがわかっているからこそ、この柾樹という男は良い奴だと断言できるし、実際そうなのだが。少々めんどくさくもある。
「まあ、そこら辺はオレにゃァどうしようもねえことだからよ。何にも言えねえが」
「……大丈夫だ。なんとかする。必ず」
「そうか。じゃあ、頼んだ」
花火師の修行を積むうちに、出来ることと出来ないことの区別ははっきりつくようになったし、出来ないことへの諦めも直ぐにつけられるようになった。やれることを、精一杯やるだけ。
たとえ柊子が無言で刺すような視線を向けてきていても、間違っているとは思わない。どうにもできないなら、檜奈乃のことまで余計に抱え込んで身動きしづらくなって、出来ることまで出来なくなる方がずっとダメなはずだ。それに。想定通りなら、檜奈乃は自分でどうにか出来る。彼女は、強いから。
柾樹の隣にどっかと腰を下ろして背を逸らし、天井を眺める。
同じ境遇に身を置いている彼らの間には、多くの言葉は必要ない。言ったところでどうしようもないことばかりが周囲に蔓延っているのもあるだろうが。
多少遅れて、要の母親と柾樹の母親が現れ、受付で会話を始めたかと思うと、要らの方へ足早にやってきたかと思えば。
「私たちは向かいの喫茶で待ってるから。帰る時連絡しなさい」
それだけ言い残し、二人は病院を後にした。精神的なことであれば、家族でない大人がいるよりは同じ事情を抱える友人だけがいた方が良いという判断だろう。その点では要たちは、その家族を含めたコミュニティにおいて、檜奈乃の両親よりも優先度を高く考えられていた。
セミの鳴き声が、遠くから響いてくる。しかし、空調が程よく効いた院内では肌で夏を知ることは出来ず。
ロビーには外部に通じる窓は無い。普段、自然と目に入ってくる夜空と花火が見えないだけでも、常に感じているプレッシャーのようなものは薄らぐけれど。要にとっては、無ければ無いで物足りなくも思ってしまう。
時間だけが、ただただ過ぎてゆく。今頃は花火師たちが、今日の花火大会の準備をしていることだろう。花火の音は絶えないので、時計を確認しつつ、世界とのズレを噛み締める。
今回の、檜奈乃のことがあって。柾樹や柊子は、進む道を変えるだろうか。止まってしまったり、迷ったりしてしまうだろうか。いや、それは無い、と。思いたい。どのみち、それぞれが出来ることはそう変わらないし、簡単に変えてほしくもない。それに、
対して。要に出来ることは、最初から決まっている。決められている、といっても良いかもしれない。
だから。要は彼らに勝手な願いを抱いてしまう。
要は、眼を閉じた。
どれくらい待っただろうか。たった十分のようにも感じるし、一、二時間ほどかかったようにも思う。三人は変わらずソファに言葉もなく寄りかかっていたが、そこへ一人の看護師が歩いてくる。
「櫻井さんの容体が安定しました。面会は……しますか?」
この狭い田舎では、彼らが揃って奇妙な症状に罹っているということは周知されている。そのために、部外者には絶対に推し量れない間柄同士だとして、彼らは度々特別扱いの対象となる。今回は檜奈乃の両親のことも含めてだろうが、こうして優先されるくらいには。
それは、あからさまに気を遣われていることが分かるために微妙な気持ちにもなるが、慣れれば便利の一言に尽きる。
「します」
三人のうち柾樹だけが即座に歯切れよく返事をし、要、柊子も彼の後に続いて看護師の先導に付いていく。
今ここにもう一人の友人、
白一色の眩しい廊下に、四人分だけの足音と、病室の扉が滑る音だけが響く。
窓が塞がれ、外を望むことが出来ないようにされた一室。仕切りとして引かれたカーテンの向こうには、長い髪を乱れさせ、虚ろな目をどこかへ向けたままの痩せこけた少女が、上半分を起こしたベッドに横たわっていた。
「檜奈乃」
痛ましい姿の彼女に柾樹が歩み寄り、声を掛ける。
反応はない。視線が揺れ動くことすらない。まるで、何かに強く繋ぎ留められてしまっているかのように。
扉の脇に控えている看護師の傍を離れ、要と柊子もベッドサイドに移動する。檜奈乃が彼らを知覚しているのかどうかさえ、その様子から窺い知ることは出来ない。
しかし。
「……ん?」
「どうか、したか」
直ぐ近くに至り、普段の様子を嫌というほど見慣れていた要は、とあることに気が付く。
微動だにしていないと思われた、櫻井檜奈乃の口元。その薄い唇が、ほんの僅かに動いていた。
「なんか、言ってる」
要のその呟きに、柾樹と柊子がはっと息を呑み、顔を近づける。
「……ん、……い……」
意思が介在しているかどうかは、わからない。故意に発しているのか、ただぶつぶつと独り言を漏らしているのかは、彼女にしかわからない。
それは、小さな小さな言葉。目と鼻の先まで接近しても満足に聞き取れないほど掠れた、か細い声であった、けれど。今にも消え入りそうな、微かな声であったけれど。
「……ごめ、ん、なさい……」
要たちは、聞き取ることが出来た。
「檜奈乃……?」
「わた、しが……あんなこと、を、言わなければ……」
それを待っていたかのように。要の呼びかけに呼応する形で、檜奈乃は謝罪とは異なる言葉を吐き出す。
その瞳から頬、顎を伝った雫が、ぽたりと胸に落ちる。
「わ、たし、が。「ずっと、このままでいられたら、いいのに」なん、て……言わなけ、れば……」
一際大きな、花火の音が。
夢か現か。判別の付かない爆発音が、世界を揺らした。
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