第3話 吉野柾樹は眠れない


 今日も。忌々しくも神々しい花が、昼の夜空を我が物顔で占拠している。


 太陽がない天の下。吉野柾樹よしのまさきは、三年目にしていつもと何も変わらない通学路を歩いていた。その足取りは慣れ親しんでいるために確かだが、吹けば飛んで行ってしまいそうなほどには力がない。きっと見かける誰もが同じ印象を抱くだろう。


 頭が痛い。痛いというか、重い。眠さはもう、随分前から感じない。ただ、消しようのない何かが居座っているだけだ。

 始業式だけで終わった柾樹らと同じく、早めに学校が終わったらしい、大きなランドセルを背負った小学生の集団や、スーツを着込んでビジネスバックを携えた社会人、早くも私服に着替えて自転車に乗り、遊びに行く同級生くらいの少年たち。すれ違う人の誰もが、柔らかな光を感じ生きている。


 羨ましい、とは思わない。

 たとえ青空が見えなくても、日光を感知できなくとも。これで十分。実際には存在はしているために日焼けはするし、多分太陽があるであろう方向を見つめれば失明だってするかもしれないので、危険ではあるけれど。


 これでいい。

 このままでいてくれるなら。それに越したことはない。

 隣を歩く彼女も、同じことを考えているとは限らないが。


「音、またぶり返したのね」

「……まあね。お陰様で今日は最高の気分だ」


 頑張って口角を上げ、笑顔を作ろうとして失敗し。柾樹は何もかもを諦めて恨み言を吐き出すかのように告げた。それに草刈柊子くさかりしゅうこは沈黙で返す。


 彼――吉野柾樹の視界は、狂っている。


 眩く輝く朝日に目を細めることも、紅い夕焼けの鮮やかな色合いに感動することも。静かで優雅な姿の月の満ち欠けをつぶさに観察することも、面白い形の雲を探し、面白がって指差すことも、舞い散る雪の結晶を手のひらで受け止め、自然が形作る神秘に感嘆することも、その呆気なく溶けて消える儚さに寂しさを感じることも。柾樹にはもう、許されていない。このまま永劫、花火を眺め続けることしか。


 そして。影響が出ているのは、視覚だけではなかった。花火がその花弁を勢いよく開帳するときに響く爆発音。それもまた幻聴となり、脳内で延々と繰り返し、繰り返し再生され続けているのだ。

 朝、目覚めるときも、夜、床に就く時も。三回の食事時にも、入浴中にも、授業中にも、いつでも。時間に関わらずけたたましい音が絶え間なく鳴り続けるのである。現実と異なり、耳栓で締め出すことも、騒音被害や安眠妨害として被害届を出して強引な手を執ることも出来ないというとんでもないデメリットも漏れなく付いてくるため、酷い時は睡眠導入剤で誤魔化すのが精々の対処でしかない。

 更に、それは時折、不定期的に音量をぐっと上げることがあった。期間にして二、三日程度しか持続しないが、文字通り爆音を聞かされ続けるその間は、まともに睡眠をとることすらままならなくなり、気力や体力をごっそりと減らされてしまう。


 今回は、まさにそれだった。

 俄かに信じ難い、作り話のような症状に対し。しかし、ほとんど同じものを持つが故に、親よりも医師よりも、誰よりも詳しく理解している柊子を相手にしては、誤魔化すこともはぐらかすことも叶わない。


「そっちは、大丈夫?」

「何も変わらないわ。ずっと。目も、耳も」

「なら、いいんだけど」


 この視覚と聴覚での幻覚を訴えているのは、彼一人ではなかった。


 小学六年生の夏。大きくない病院の裏手の河川敷で。花火大会を遠目に観ていて、とある一つの願望を耳にした六人のうち、現状、未だに消息が掴めない一人を除いて、実に五人もの子供が全く同じ幻覚を、幻視と幻聴を知覚するようになってしまった。

 当然、精神的に未成熟な小学六年生たちが、その異常を隠し通せるわけもなく。


 狭い世間は彼らを、「可哀想な患者」として扱った。

 彼らにとって幸いだったのは、周囲の反応が同情寄りに傾き、ワケありの被害者だとして腫れ物扱いされるようになったこと。色々詮索されたりからかわれるよりは、意図的に触れられない方が遥かにマシだろう。

 故に。男女が連れ添って歩いているところを見ただけで即冷やかし、学校中で噂にしてしまう時期、思春期真っ只中の中学生であっても、彼らだけは対象にはならない。

 もっとも、柾樹にはその気も何も無いのだが。


 いつものバス停に辿り着く。古びた待合所のベンチに並んで座ると、柾樹は何度も何度も読み返されてぼろぼろになった英語の単語帳を取り出し、読み始める。

 花火の光だけでは手元は薄暗いが、座って落ち着けば読めないこともない。実際は陽の光が当たっているはずのため、目が悪くなる心配は要らなかった。


 何かに取り憑かれたように、必死に単語帳をめくるその姿を、柊子は何も言わずに眺め、溜め息をつく。

 その吐息が、柾樹に届くことはない。


 もうとっくに、高校受験に臨むには十分すぎるレベルの、載っている全ての単語は暗記しているというのに。彼はこうして毎日、欠かさず読み返す。

 良い大学に行くために。端的に言えば、国公立大学の医学部医学科に受かるために。


 柾樹や柊子が物理的にも時間的にも通える範囲内に、いわゆる進学校とされる学力を誇る高校はない。都会の方の寮があるようなところに行くか、皆と揃って地元のところに行くか、基本は二択。しかしそれは、全寮制の高校に子供をやれるような金のある家庭にしかできないことで。残念ながらただの一般家庭に過ぎない吉野家には、そんな余裕はなかった。

 となれば、近くの比較的マシなところに入り、高校在学中に頑張るしか道は無い。地方ともなればまともな予備校もなく、浪人する方向も絶望的だ。この分の悪い完全一発勝負に挑むには、中学生のうちから彼のように必死になって勉学に明け暮れることが最も合理的かつ現実的だと言えるだろう。全てをひっくり返してしまうような天才でもない、限りは。

 故に、柾樹はこうするしか方法が無い。


「ほら、バス、来たわよ」

「ん、もうか……」

「移動するときは仕舞うこと。貴方あなた、自分で決めたでしょう?」

「そう、だったね、ごめん」


 数人がちらほらとしか乗っていないバスの到着を柾樹に告げるのは、柊子の仕事になっていた。彼一人では、気付かず見逃してしまうこともままあったから。


 微妙に足元がおぼつかない柾樹と、その手を引く柊子は当然のようにバスの最後部席に並んで座る。二年間、ほぼ変わらずその席に着き続けているためか、半ばこの便の指定席と化していた。

 座席に腰を落ち着けた柾樹は、また先ほどの単語帳を取り出そうとする。あまりにも慣れて滑らかなその動作を、しかし柊子は止めに入る。


「今くらいは寝ておきなさい。それじゃあ保たないわ」

「でも、眠れないし」

「目を瞑るだけでも良いのよ、そうしているより随分ましになる筈だから。どうせ今日も落ちるまで勉強するんでしょう?」

「ああ……、じゃあ、そう、させてもらうよ」


 このまま夜を迎えても音が鳴りを潜めない限り、今日が恐らくそうであったように、彼はまた、夜を徹して机に向かうのだろう。

 彼女はそれをわかっている。充分すぎるほどに、理解している。

 幼稚園から、既に十年以上、彼の近くにいる柊子は、柾樹の思考や行動をある程度推測できるようになっていた。だから、誰に何と言われようと、破滅に一直線に向かっていく彼を、彼女はその隣で見守っている。それは彼女にだけ許された権利であり、彼女にとっては義務であった。


 若干の不安を表に出しながらも、柾樹は単語帳を鞄の中に押し込み、それを抱きかかえる形で俯き、目を閉じる。

 精神が乱れているため、寝付くことは出来ない。視覚情報を遮断し、脳の負担を減らすのが精一杯だ。


 路線バスの振動、花火の爆発音、座席からじんわりと伝わってくる温度、柊子が使っているシャンプーの甘い香り。一旦視覚以外の五感が鋭くなり、柾樹の眉間に皺が寄った。

 だがそれらも、疲労に喘いでいる脳に処理を遅らせられ、段々と淡くおぼろげに薄れてゆく。


 落ちることはない。ただ没するだけ。酔うように、頭が勝手に揺れる。

 次第に意識は拡散し、なにもかもが遠くへ飛んでいってしまう。


 それでも。吉野柾樹が夢を見ることはない。


 脳裏に浮かんでくる、かつての情景を覚えている限り。彼は止まることはない。休むことはない。ひたすらに歪んでしまった現実を直視して、歯を食いしばって必死に生きていくしか、彼にはできない。



 あの花火大会の日の思い出が、ある限り。




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