神庭 芽衣子 第七節

(あと四本。)

 これまでなら、ただ練習が終わるだけの四本だった。今日は自分自身の弓道が終わる四本。

 二本を足元にゆっくり置き、矢をつがえる。

 目の前にいる少女にとってこれからへ繋がる四本。

 真美が弓を引く。震えながら会を溜める。おそらく今日一番長い会。

 弦音。そして的中音。残心もしっかりととっている。

(貴女が今日のことを思い出すこともあるかもしれない――)

 正鵠のさらに中心に向かって視線が定まる。溜めた会から早矢は左回転で迷いなく飛び、穴の空いた正鵠へ突き刺さる。

 真美は疲労が限界点に来ているにも関わらず、言いつけを守って射形が崩れないように丁寧な動作。気力だけで押し留める会。

(今日の貴女がいつかの貴女を支えることがあるかもしれない――)

 的中の音。

 弦音に合わせて動き始める。重いものでも取れたかのように、弓の強さを感じない。矢の先のブレが一切無くなった。

 放たれた乙矢がぴったりと早矢の真横に並んで突き刺さる。

 真美の99本目が動き始める。ただその動作は、なぜかこれまでよりもゆっくりとしている。

 会が六秒を越え、体のブレと矢のブレが大きくなりだした。無理に会を長く溜めている兆候。

(私は二本と言ったわ。貴女は素直に引けばいい。今みたいに無理をする必要なんてない――)

 全体のブレを押し留め放たれた矢は的の枠に当たるも的中。

 肩で息をするほど肺の空気を吐ききったようにも映る。

(真っ直ぐよ――)

 的の二本が見える。矢尻がその矢に重なる。そこで放たれた軌道は乱れることなく正鵠へ。的中とは明らかに違う弾ける音。刺さった矢の羽が真っ直ぐではなく内側を向いている。

 真美の100本目が的を狙う。ゆっくりと、何かを惜しむように。

 そこから会は十秒を超えた。ただ、ここまでの七本でそんな癖も無かったはずだが、カケで弦と矢をしっかり握ってしまっている。

 明らかに無理矢理な状態で会を維持することは悪手であると告げるか悩んでいると、真美の横顔に涙が伝っていることに気付いた。

 きっと普段の練習やこれまでの神庭なら遠慮なく咎めている。しかし、そうまでして耐えようとしている真美の何かを汲み取ったこと、そして、もうどの道長くは耐えられない事を察して見守ることを選んだ。

 十二秒。そこで力尽き、弦から千切れるようにかけが離れると、矢は羽を左右に揺らしながら的へ飛んで正鵠に突き刺さった。無意識に神庭の唇の端が少し持ち上がった。

(貴女は真っ直ぐ進んで。)

 神庭が最後の打ち起こしに入ると彼女の中で完全に無音になった。近くを通る車の音も風の音も虫の音も。空手で弓を引いているような感覚。的の目の前にいる錯覚。

 最後の矢が神庭から飛び立った。矢が真空の壁に穴を開けるように景色と音を戻していく。

 的へ到達する直前、金属の弾ける音が響いた。

 残心から弓を倒し、射場を出ると目を赤くした真美と向かい合って笑顔で口を開いた。

「あー楽しかった」

 弓を立て掛け、正座で右手に付けたカケを外す。真美が隣に座り、俯いて同じようにカケの帯を解いていく。

 矢取りと的場の片付けに向かおうとすると、川村が手で制してきたので逡巡するも大人しく待つことにした。

 西日が道場に差しこみ眩しい。この時期、普段の練習は視界を奪われ、さぞやりづらいことだろうと神庭は思うが、環境の良し悪しは何も設備だけとは限らないことを知っている。

 100射を終えて気が抜けたように真美は背中を丸くして的場を見ている。

「お疲れ様」

「……疲れました……でもーー」

 神庭の方を向き、夕日に照らされた真美の横顔は笑っていた。

「神庭さんと一緒に練習できて本当に嬉しかったです」

 夕日より眩しい感情を浴び、なんともむず痒い気分になった。

「そう、なら良かった」

 自分の都合で付き合わせただけなのにも関わらず、真っ直ぐな視線を向けてくる彼女の目を見れなくなってしまい、わざと視線をずらした。

「その髪留め、可愛いですね」

 神庭が左髪を縛っているアクセサリ付きのヘアゴムに真美の意識が向いたので、ようやく視線を戻せた。

「ああ……これね」

(本当は違う人に気づいて欲しかったけど。)

 一瞬、川村を横目に見たが、そんなこととは露知らず的場を整えている。

「インターハイの時にお土産で買ったものよ……そういえば、森谷さんはそれどころじゃなかったから、お土産なんて買えてなかったか」

 ヘアゴムを外して差し出した。

「どうぞ。貴女にあげる」

「え、でも……」

「いいの。もう一つ違う柄のも買ってあるから。新しいほうがいいなら届けるけど?」

「……頂けるなら、これがいいです」

 手を伸ばし、神庭の手からソッとヘアゴムを受け取った。それを嬉しそうに眺めてから両手でしっかり握りしめる。

「ありがとうございます、大事にします」

「ただのヘアゴムじゃない」

 本当に大事にしそうだなと思わせるほど、真美はヘアゴムを何度も握り直したり違う角度から見たりと目を輝かせている。

「あの……もし、ご迷惑でないなら、あとで連絡先教えてください……」

 その申し出に神庭は悩んだ。迷惑ではないものの、川村を経由する口実がなくなるのでその部分だけ引っ掛かった。

「……ええ、じゃあ、あとで交換しましょ」

 だが、そんな理由で断れるはずもない。そもそも真っ直ぐ自分を見てくる視線と心に射抜かれ、もう真美という人間に興味を持ってしまっているのだ。

「神庭ぁ、矢が大変なことになってるぞー」

 そこへ的場の整備を終え的と矢を持って戻ってきた川村が神庭を呼んだ。

 差し出された矢を見て受け取る前からだいたいどういう状況か理解した。

 四本の内、一本は筈が無くなっており、さらにもう一本は筈が無くなるどころか羽の中くらいまでシャフトが裂けている。

「筈割れはちょくちょくあるけど、さすがにこれは初めてね」

 受け取って矢の裂けた部分を観察しながら感想を述べた。真美が目を丸くしながら覗き込む。

「どうしてこんな風になったんですか?」

「筈割れの時は、ほぼ同じ軌道を通ると先に刺さった矢の筈と交錯して起こることなんだけど、今回のこれはたぶん……」

 そこまで説明しておきながら、自分で説明するのが恥ずかしくなり口を止めた。本当にそうなのか疑問も残れば、自分がそんな領域に一瞬でも指が触れたと言うのは烏滸がましい気がしたからだ。

「たぶん、なんですか?」

「俺の予想だと、まったく同じ条件にしたってことじゃないかね。二本目と四本目の狙う位置や射形とかもろもろ」

「えっ、そんなこと出来るんですか?」

「……達人くらいになればね……」

 普通ならプラスチック製の筈が先に割れて軌道が変わるし、よしんば真っ直ぐ重なってもシャフトが曲がってしまう。竹ならいざ知らず金属製のシャフトでこうなるのは聞いたことがなかった。

 再現性はあるものの理論的なことであり、そんな雲の上の存在である人達と今の自分のまぐれ当たりを同等に扱うのは気が引ける。そのため、言葉はあくまでも川村の予想へ対する補足という感じに控えめなボリュームで答えた。

「まあ、とにかく良い記念にはなったわね」

 矢筒に他の矢をしまうと、裂けた部分で手を切らないよう矢に布を巻いてから収めた。


 

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