森谷 真美 第九節
「引退って……その、高校ではってこと、ですよね……?」
「いいえ。言葉通り引退よ」
どこか信じられない気持ちになった。あれほど上手で、あれほど綺麗な射形まで整えてきたのだから、高校を卒業しても続けるものだと真美は勝手に思い込んでいた自分がいる。
「一応、全国で三番目には強いっていう証明も残したし、潮時かなと」
「選抜も蹴ったんだろ。候補の中から名前無くなってたぞ」
「貴方なんでそんなこと知ってるの?」
心底不気味そうに尋ねる。
「うちの顧問は弓道連盟の偉い人らしいぞ。選抜の冊子を作るのを手伝わさせられたんで、そんときにな」
「……まぁ、そろそろ受験も本気で追い込みたいし、ね」
「いやいやいや、弓道推薦ていう選択肢もあるやろ」
「私は自分の実力で戦いたいし私が行きたい大学に行きたいの」
律すればこその自由を勝ち取ることが神庭にとって価値あることなのだろうと真美は察した。
彼女が決めたことであり区切りをつける時期ともなれば、続けてほしいという勝手な思いなど口に出せるわけもない。
「……あの、それで、引退試合って何をどうするんですか……?」
「貴女と100射の競射」
「ひゃ、ひゃく……」
真美が射場に立ってからの4射を一人で行うと約1分強。二時間ほどぶっ通しで行う計算になる。
強豪校では割りと普通の本数だが、川村は無理に本数を多くせず一回の立ちをしっかりと行う方針なので多いときでも60射程度である。そのため、普段の倍となる本数を要求されたことになる。
「ま、矢取りの時と神庭が普通に20射すれば絶対にインターバルは入るから、そこで少し息を整えていく感じで」
「は、はい……」
正直、神庭と競射というだけでも緊張を免れられないところへ100射という未知の数字を提示されたことで、元来持つ弱気も影響し真美は怖じ気づいていた。
「少しウォーミングアップだけさせてもらうから、それまで待ってて」
彼女は弓を柱の穴に掛けると弦を張った。軽く具合を確かめると立て掛けて正座をし瞑想を始めた。
「真美ちゃん、カモン」
川村に呼ばれ矢取りのサンダルを履いて道場から少し距離を取った。
「神庭の引退試合とは言ってるけど、たぶんどちらかと言うと真美ちゃんのために今日を用意したんじゃないかなと、俺は思う」
「私の……ためですか?」
それの意味するところが理解出来ず、首を傾げるように聞き返した。
「確かに100射っていうのは普段からさせてないから大変だろうけど、真美ちゃんが今日見ておかないといけないのは、的じゃないことを覚えておいて」
川村はそれだけ言うと矢道の外を通って矢取りの待機場所へ歩いていった。弦音が響き彼を追い越すように矢が的に突き刺さる。
(私のため……。)
川村の言葉と神庭の真意が分からず、悩みながら一人射場から弓を引く神庭を見つめた。
真美ではまともに引ききることもできない19㎏の強弓を引き絞り、それでいてブレも震えもない静止のような会。
矢は鋭く放たれ、残心から無駄な力を省いた最短の弓倒し。ウォーミングアップなのに一つも手を抜いていない。
(……そうだ、私はこの人を初めて見て、本当に感動したんだ。あんなに綺麗に弓も矢も扱える人がいることに……。)
さっきまで怖じ気づき沈んだ心は神庭が弓を引き矢を放つ度、いつしか、緊張とは違う高揚へと変化していった。
(一番近くで、その人と弓を引ける。理由は分かんないけど、その人が私を最後の相手に選んでくれた。この時間を、神庭さんの姿を、しっかりと覚えておきたい。)
8射を終えて弓倒しを行った神庭が真美をちらりと見た。
「さて、そろそろ始めましょうか。私の引退試合を」
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