志藤 美紗 第一節

 矢道に並んだ葉桜となった木にしがみつく何匹ものセミの鳴き声は衰えることを知らず、伴侶を求めてわめいている。道場に近い校庭で練習を始めていたラグビー部では掛け声と顧問の怒号が交差していた。フェンスで遮られたすぐ横の道路からは、信号で止まる車のエンジン音やタイヤがアスファルトを噛み締める音が断続的に聞こえてくる。

 矢道と的場を繋ぐ正面が開かれた八畳ほどの小さな道場に、青の鉢巻きをした袴姿の川村とその横にも袴姿の美紗が正座で姿勢を正し目を閉じて静かに佇んでいた。

「瞑想、やめ」

 川村は大きくないが良く通る声でそう発し瞼を上げた。美紗もほぼ同時に目を開いて的場を見据えた。照りつける太陽に焼かれた屋根から降りる熱と湿度に満ちた道場内に風が吹き込み、鉢巻きや髪を揺らし蒸した熱気をかき混ぜた。

「これより本日の練習を始める。礼」

 腿のうえに置いていた両手を脚の横から膝の前まで滑らかな動作で床につけ、二人とも体を六十度ほど傾けると一拍置いた後に戻した。そのまま河村は立ち上がるが、美紗は座ったまま矢道を見ていた。

 奥に数本並べていた弓から青い弓を手に取り、柱の窪みへ弓の先端を押し付けながら反対の端を持上げるように曲げて膝へ乗せ弦を張っていると、

「センパイ」

「んー?」

 特に作業を止めるでもなく彼は呼びかけに緩く返事をする。

「恋愛とは・・・・・・いったいなんでしょうかっ」

「瞑想でそんなん考えてたんかい」

 別に咎めているわけではない。瞑想は心を落ち着ける意味でのものであり、考えを整理したりもする。無心になる者もいればイメージトレーニングをする者もいる。行動の邪魔にならなければ必ずしも行うことに内容を沿わせる必要はないのである。特に彼はそういったことに寛大である。ただし、顧問までもが寛大であるわけではない。

「それは哲学的なことか、それとも言葉の意味的にか。そもそも彼女が出来たことすらない俺にそんなの聞くな」

「なぜですかっ」

「いやなぜですかじゃないよ、なんでそんな残酷なことを聞くの」

「どこが残酷なんですかっ」

 美紗は「質問するな」と捉え川村は「なぜ出来たことがないのか」と捉えているが故に、互いの言葉を取り違えて平行線を辿る。

「もう気分萎えたよ俺、もう今日は練習しない!」

「小学生ですかっ!」

「うっせーな!」

 そう言うと桶や障子ノリ、ハケを持って外に並べ、破れた的や的枠だけになったものをその周辺へ転がした。

「美紗も手伝いますっ」

「いいんだよ、美紗ちゃんは練習してな」

「手伝いますっ」

「いいっつってんでしょうが!」

「やるったらやるんですっ!」

 ムキになって言い合いながらも、川村は職員室へ材料を貰いにいき、美紗は的紙を出したり桶に水を張ってノリを溶かしたりと準備をした。わら半紙を包装していたやや厚手の茶紙を貰ってくると15cm幅の短冊状に切り分け、ノリを溶かした桶にすべて浸していく。

 美紗は破れた的を綺麗に剥ぎ、修理の必要な的枠と分けながら積み重ね、前回的張りして使用頻度の少ないものは裏から穴を閉じてノリに浸された茶紙どうしが重ならないように当てて補修。表面にハケでノリを湿布し新しい的紙を被せて新品同様にした。

 完全に剥いで無くなった的には短冊の茶紙をできるだけ隙間ができないよう八方に重ねて張り、その上からノリに浸した的紙を乗せて、弛みがでないよう的枠を回しながらしっかり紙を伸ばす。

 こうした手間がかからないビニール製の的紙もあるが、圧倒的に価格が変わる。部員が少なく部費も僅かな睦月高校弓道部は極力手間より予算を惜しむ必要がある。

「真美、大丈夫かな……」

 日陰とはいえ茹だるような暑さの中で汗を浮かばせながら作業を繰り返し、手を休めることなくインターハイに出場している森谷真美のことを話題に出した。

「大丈夫なんじゃね。一応は神庭も気にかけてくれてるみたいだし」

 川村は真美の指導の礼としてファミレスで食事をごちそうしたときに神庭から簡単にサポートするとだけ聞いていた。その時に練習メニューや昨年の大会冊子も渡されたので真美は神庭の特別メニューを元に練習に励んだ。経過報告もいるので、連絡先の交換もしている。

 一生懸命に的張りをする美紗。その姿をどこか憂いた表情で川村が見つめることに彼女は気づいていない。

 二人は的を粗方張り終え、乾燥させるために雨に濡れない場所に並べると、道具を片付け今度は的枠の修理を始めた。矢が突き刺さり割れたり繋ぎ目の金具が外れたりしているので、割れた部分はボンドで補い、外れた繋ぎ目は万力で固定してからロボコン部から分けてもらった小さいボルトとナットで金具の代用をした。

 修理した的は次回の時に的紙が張られるので、邪魔にならないところへ積み重ねた。

 続いて美紗は道場と更衣室の清掃にかかったので、川村は崩れてきた的場の盛り直しに着手した。シャベルで固くなった砂をほぐし下へ流れて溜まったものを的場の最上部へ掬い上げる。全体がほぐれてきたので木製の道具で斜面と上部を整えた。

 汗だくになりながら作業の区切りをつけ、川村が缶ジュースを美紗に渡して30分ほど休憩。日陰の涼しい場所に巻き藁を出して調整練習だけすると、この日の部活は午前中だけで終了となった。

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