神庭 芽衣子 第三節


「今日は本当にありがとうございました」

 練習を終えて自転車置き場で深々と森谷が頭を下げた。

「どういたしまして」

「あの、先輩のせいで不愉快な思いとか、こんな普通じゃない無理なお願いとか、その、本当にご迷惑をおかけしました」

 そう言うとまた深く頭を下げた。

「そうね。あり得ないよね」

 神庭は淡々と答える。

「あと、あの……」

 森谷は視線や指を動かしながら何かを言いにくそうに言葉を紡ごうとしていた。

「……あの、間違ってたら、ごめんなさい。その……先輩のこと、す、好きなんですか?」

「なんで、違うし」

 失笑するように答えた神庭の心臓が締め付けられた。終わったものだと諦めたからなのか、違うと否定したからなのか。

「そ、そうですか、ごめんなさい……」

 気まずそうに森谷の声が小さくしぼんだ。

「それじゃ」

「あっ、あの」

「まだなにか?」

 自転車の鍵を外したところでさらに話しかけられ、神庭からすればこれ以上なにを話すことがあるのかと疑問になるくらいである。

「あの、神庭さんに教えてもらえて、すごく嬉しかったです。試合会場で見て、他にも上手な人はいる中で、見惚れるくらい綺麗な射型で、あんな風になれたらな、みたいに憧れました。それが、こうして教えてもらえるなんて、ご迷惑だったとは思いますけど、本当に嬉しかったです」

「別に、大したことは教えてないし」

 一生懸命に話してくる森谷に何故か照れてしまいそうになっていた。

 憧れるや尊敬などといった思いを受けたことはない。聖サクラエの部員からは、「怖そうだから」「先輩だから」「部長だから」「戦績が良いから」と畏怖や形式張った付き合いのみで、そんな風に真っ直ぐな気持ちで話しかけられていない。いじめを助長していた先輩がいなくなっても、形が変化しただけで孤立という現状に大差はなかった。

「……全国大会――」

 自然と神庭の口が開いた。

「私も団体と合わせて個人で出場してるから、困ったことがあったら相談して」

(私なに言ってるんだろ。)

 言ってしまったものは取り返しがつかない。

 同県からの代表という立場や、乗りかかった舟でもある。何の頼るものもない場所に一人で挑むのは心細いことはよく知っている。それに接してみて分かるのは、一生懸命な森谷の事を放ってはおけなくさせるなにかも持っていた。

「あーよかった、まだいた」

 道場の片づけをしていた川村が駆け寄ってきた。

「先輩、どうしました?」

「いやどうしたって、真美ちゃん、その履物で帰るつもり?」

 川村が指にひっかけているローファーを見せたので、森谷の足元に視線を落とすと、ローファーではなく矢取りに使うサンダルだった。

「きゃーっ、きゃーっ、やだもう、もぅっ!」

 顔を真っ赤にしながら森谷は慌てて川村から靴をひったくり、サンダルからローファーに履き替えると、その場から逃げるように道場へサンダルを持って走った。

 もしかすると、ドジというのかああいう頼りない感じが放っておけなくさせるのかもしれない。

「なあ神庭」

「……なんでしょうか」

 神庭は用事も済んで川村に対して元のよそよそしい対応に戻した。

「お礼と前のお詫びもかねて飯食いに行こうや。御馳走する」

「そんなのいりません」

 だが、言ってからすぐに訂正した。

「いえ、やっぱり頂いておきましょうか。ファミレスでもいいなら」

 きっと鈍感で余計なことを言う川村と自分とではうまくいくことはないと諦観していた。しかし、森谷のように少しだけでも素直になれば何か変わるかもしれないと神庭は前を向いた。

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