神庭 芽衣子 第一節
大会から二日経ち、部活開始前にワラジで弦を扱いて手入れしていると校内放送が流れた。
「弓道部の神庭芽衣子さん、お電話が入っています、至急事務室までお越しください」
怪訝そうな表情を浮かべるものの弓を立て掛け、副部長に先に部活を開始しておくように指示してから神庭は袴姿にサンダルを履いて事務室へと向かった。
事務室に入り電話を受け取ると点滅していた保留ボタンを押して通話に切り替えた。
「はい、神庭です」
「どーも、睦月高校の川村です」
「どちら様ですか」
思考がフリーズし、聞いた名前が理解できず無意識に聞き返してしまった。
「睦月高校弓道部、二年、川村卓成です。去年までは合宿でお世話になりました」
川村が丁寧に自己紹介してくれたおかげでようやく神庭も思考が追いついてきた。ただ今度はようやく整理がついてきた大会での一件が思い起こされ、胸の内が酷くざわついた。
「何の用ですか」
大会のときより冷たくよそよそしく言葉にそれが出る。
「その、この間のことは本当に申し訳ない。俺が無神経で浅慮なばっかりに追い打ちかける真似して。言い訳になるけど、あれはそんなつもりじゃなかった」
「はい。わざわざその謝罪のために電話をされたのですか?」
「うん、それもあるけど、実は折り入ってお願いがあって電話した」
彼の方は何も変わらず話してくるのは感情の温度差があることを知ってか知らずか。
「それでどういったお願いでしょうか」
「ああ、うちの後輩が大会で優勝したろ、それでそいつにいろいろ教授してやってほしいんだ」
「え、なんて?」
だいぶ客観的な姿勢でいたが、想像もしていない内容にさすがに耳を疑って聞き返した。
「睦月高校弓道部の一年生森谷が個人で優勝しただろ、それで全国大会に出ても恥ずかしくないようにアドバイスしてやってほしい」
丁寧に言い直してくれたが神庭の胸は余計にざわつくだけである。
「なに言ってるのアンタ、なんで私を負かした学校の生徒にアドバイスしなきゃいけないの」
「そこを頼む。正直、そんなことを頼める立場でも相手でないことも義理がないことも承知してる。だけど、他に頼りになる知り合いもいないんだよ」
「そっちだけでどうにかしなよ、顧問だっているでしょ」
「顧問だけじゃ当てになんないからこんな無茶なお願いしてるんだよ」
「そんなの知らないしっ、こっちの気持ちも知らないで!」
冷静に努めようとするが、ざわつく胸の内は徐々にカサを増し、どうしても声のボリュームが大きくなった。
「俺が怒られたり叩かれたりするので気が済むなら甘んじて受け入れる、だからこの通り!」
「意味全然違うし!」
イラついているのは大会の件が原因だと勘違いされ、神庭の気持ちを理解してもらえず胸が張り裂けそうだった。
下唇を噛みしめ、鼻から息をゆっくり吐きながら目に浮かぶ涙を少しでも減らそうと必死になる。
彼のすべてが無神経この上ない。言葉にしても、お願いにしても、会話の主旨をくみ取ってもらえないことも、ずっと抱いていた気持ちを理解してもらえないことも。
期待してはいけないと言い聞かせて過ごし、実ることのないものだと諦めようとし、素直に頑張ってほしいという言葉も言えず、大会で優勝したら思いを打ち明けてみようと決心した日に限って彼の後輩に苦杯を舐めさせられ、挙句には彼自身から辛い言葉も投げつけられた。
川村への気持ちはあの時に冷めたはずだった。なのに溢れかえる混ざり合った感情に神庭は抑え込んで無言になることしかできない。
「頼む」
川村は無言であることを逡巡であると捉えたのか、ただまっすぐにお願いを繰り返す。
(できるわけないし……。)
「――だけ」
「え?」
「一回だけ教える。それ以上は無理」
「ありがとう、助かる!」
「次の日曜の10時にそっち行くから。そこで都合つかないなら諦めて」
「わかった、必ず都合つける、ほんとにありがとう!」
受話器を置いて通話を終えた神庭は溜息を漏らした。
(断るとか、できるわけないし……。卑怯すぎる。)
恋慕の情に抗えないことに自己嫌悪した。なにもそれだけで譲歩したわけでもなく、大会で見た彼の後輩――森谷の実力は全国では些か不安が残る点、あまりハートが頑丈そうに見受けられなかったことも気がかりではあった。
神庭が一年のときに初めて出場した全国大会では知らないうちにプレッシャーがのしかかり、思うような結果にならなかった。それだけでなく女子高であるが故に部内で陰湿な嫌がらせ的なものも起こり、先輩が引退する二年の秋になるまで孤立に近かった。おかげでメンタル面は強化されたので因果なものである。
睦月高校の弓道部には大会で見た三人しかおらずイジメなどはないだろうが、プレッシャーに負ければ大舞台で0中なんていうことも有り得る。それではあまりにも惨めである。
結局、情に流されたという事実だけは覆らない。
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