いまからどこに行こうか

高志千悠

いまからどこに行こうか

『あれからどこに行ったと思う?』

 いつもより少し早起きをした朝。眠っているあいだに降り積もった夜の静けさが、素足を撫でて少し肌寒い。窓から差し込む神様のあくびのような日差しの下で、受け取ったばかりの手紙に視線を落とす。

 歌う妖精の森と、そこで見た決して枯れることのない花の話。空に似た青さの湖と、その湖上で暮らす人々との出会い。東の国からやってきたという商人に御馳走になった、奇妙な料理の不思議な味。海辺に建って、今では海鳥の家となった古い古いお城から見た水平線の形。

 音が風に乗せられて耳元を通り抜けていく。見たこともない景色の香りが鼻をくすぐる。柔らかな大地の感触に胸が躍る。私のなかで、私の知らない世界が広がり、彩を豊かにしていく。

『身体を冷やさないようにね』

 そう言って締めくくられるあなたの手紙。今も続くあなたの旅路。あなたが私に見せてくれる夢物語。

 手紙を抱いて瞳を閉じる。そうすることで、私はあなたの隣にいられる気がするから。あなたの感じる物を、隣で感じられる気がするから。両足で地面を蹴って。両手を大きく振って。ときどき笑いあって。

 そうして心が温かさに満たされてから瞳を開ける。少し肌寒い部屋。いつもと変わらない景色。たくさんの淋しいという気持ちと、少しの羨ましいという気持ちが混ざり合って、部屋の隅にうずくまっている。それが私のお友達。言葉を交わせば、きっと悲しい気持ちになってしまうような。だから私は言葉と一緒に今のぬくもりが零れ落ちてしまわないよう、ただ静かに、今日も窓の外を眺め続ける。


 両腕を広げても抱えきれないような大鳥と旅を続ける旅人の話。海の向こう側との交易で栄えた港町での珍事件。今は観光地として有名な、旧監獄島で起こったという摩訶不思議な物語。酒場で偶然耳にした、目の覚めるような世界の神秘。

 淋しさで胸がつまってどうにかなってしまいそうな時、いつもあなたの手紙が届く。あなたの言葉が、不安で凍てつきそうな心を温めてくれる。その優しさに涙が零れそうになる。遠く離れていても、きっと私たちは繋がっている。そんな思いに勇気づけられて。あなたが手紙を書くときに、同じ気持ちでいてくれたらと考える。少しだけ恥ずかしくて頬が熱くなる。

 ベッドのうえで身を起こしながら、何度も何度も手紙を読み返す。その一文字一文字を、あなたの旅の一歩一歩を胸に焼き付けるように。きっとどこまでも広い世界の片隅で、今も旅を続けるあなたの姿を思い描く。

 あなたの旅はいつまで続くのだろう。淋しくないと言えば嘘になる。悲しくないと言えば嘘になる。けれどこれは、二人で決めたことだから。今日も、明日も、その次の日も、私はここであなたの一歩が描く軌跡に思いを馳せる。それでも時々、一人でいる部屋の広さに押し潰されそうになったとき、あなたの言葉を手に取って、指先で撫でることを許してほしい。

『これから行こうと思う場所があるんだ』

 新しい目的地を見つめて、きっとあなたは力強く笑っている。私との約束を果たすために。だから私も強くあり続けようと思う。視界の隅に佇む不安を押しやって、今日もこのベッドの上から、明日の晴れを願っている。


 一人で部屋にいると、時間がたつのがとても遅く感じられる。部屋の隅で膝を抱える静寂と睨み合いを続けるには、一日という時間はあまりにも長すぎる。近頃はベッドから出られずに過ごす日も増えてきた。時間という名前の生地はどこまでもどこまでも薄く長く引き伸ばされて、けれど今の私には、そこに彩りを添えることも、素敵な味付けを加えることもできない。

 そうして過ごすうちに、部屋にはもう一人の友人が居座り始めた。彼は私がいつも見つめる天井のどこかに身を潜めていて、常に私を見下ろしている。そうして夜になると、のっそりと這い出してきて私の顔をのぞき込む。怖い、というその思いから私は目を背けることができなくて、部屋の隅にうずくまる淋しさが、私を助けてくれることもない。

 手紙が届いた。壁に掛けた時計の針が、少しだけ進んだような気がした。けれどそれも、すぐに凍り付いてしまった。

 あなたの文字が霞んで見える。はじめは自分が泣いているのかと思った。けれどそうじゃなかった。頬を拭ってみても、手のひらには妙に乾いた肌の感触が残るだけ。

 それは薄々気付いていたこと。いいえ。本当はとっくの昔に気付いていて、目を背け続けていただけのこと。

 いつか、そう遠くはない未来に私が光を失うということ。あなたのぬくもりを感じることができなくなって、世界のどこか深い深い場所に閉じ込められてしまうということ。その瞬間が足音をひそめて、けれど刻々と、決して無視することのできない歩幅で近づいてきていること。

 天井のどこからか、けたけた笑い声が聞こえてくる。それは一人ベッドに潜っていると、いつでも私を心の中の暗いどこかへ追い立てる声だった。けれどこんな日に。あなたからの手紙を受け取った日に涙に暮れているなんてことはしたくない。

 目を凝らす。頬を手紙に寄せるようにして覗き込む。あなたの足跡。あなたの息遣いを感じたくて。心に忍び寄る暗くて冷たい苦しみをおしやるために。

 空を支える大きな大きな大樹のお話。大地があまりにも広くて、空が途方もなく青い理由。とある国のお姫様と、彼女に恋した星空の宝石の恋物語。世界のどこかにあって、どんな願いも叶えてくれる花園の伝説。世界で一番神様に近い場所と、そこに住む人々の澄んだ祈り。

 あなたが見せてくれる世界は光に満ちている。いつか私が光や熱を失っても、きっとそのことに変わりはないと信じさせてくれる。その輝きは色褪せることなく私の中に息づいて、不安や悲しみと向き合う勇気をくれる。

『もう少し行けば、見つけられる気がするんだ』

 吹けば消えてしまいそうな光を世界に繋ぎ止めるための巡礼。永遠に終わることなんてないようにさえ思える歩みの日々。それでも必ず果たしてみせると、あなたは私に誓ってくれた。

 知らず知らずのうちに何かを失い続けていく日々の中で、私もあなたが届けてくれる色彩の一部であることができる。失われるばかりの光を取り戻すことができる。日増しに甘やかさを増していくそんな想いを、決してただの願望ではないのだと、きっと現実になるはずの希望なのだと信じさせてくれる。

『もう少しだけ、待っていてくれるかい?』

 だから私は待ち続ける。待ち続けることができる。すべてが希薄になっていく日々と、それがもたらす恐怖や寂しさにも耐え続けることができる。

 もう少し、あと少しだけ。

 今の私にあとどれくらいの少しが残されているのかはわからない。けれど私に許される限りのあいだは、私にとってのすべての少しを、あなたの旅路に捧げようと思う。


 ある日届いたささやかな小包。それはあなたの旅が終わりを迎えたことを告げる贈り物。

『すぐに戻るからね』

 贈り物に添えられた短いメッセージ。それを目にした時に頬へ感じた温かさは今でも忘れられない。

 あなたが私に届けてくれたものは、その魔法は、延々と明けない夜のような暗闇と静けさ、苦しさや不安を晴らしてくれた。

 いったいいつぶりになるだろう。そんなことを考えながらベッドから起き上がった時に感じた素足の冷たさもよく覚えてる。ああ、本当にあなたは約束を果たしてくれたのだ。その時感じた途方もない喜びも覚えてる。部屋を飛び出した。窓にさえぎられていない太陽の光は、私には少しあついくらいだった。風の香りが心地よかった。小鳥の歌に胸が躍った。世界はあまりにも色鮮やかだった。これがあなたの旅した世界なんだ。長い長い冬のような時間を越えて、私もようやくあなたと同じ世界に立つことができたんだ。

 伝えたことはいくらでもあった。けれど、それらのすべてよりも大きな感謝の気持ちが私の胸には溢れていた。

 あなたに逢いたい。あなたの旅路と等しいと言ったら怒られてしまうかもしれないけれど、それくらいに鮮やかで激しい気持ちにどうにかなってしまいそうで、けれど私はそれをぐっと我慢した。

 あなたはきっとすぐに戻ってくる。だから今の感情は、その時まで大切に大切に、胸の中にしまっておこう。

 だから私は再び待つことにした。来る日も来る日も、約束の旅を終えたあなたが私のもとに戻ってくることを。

 来る日も来る日も、待って待って待ち続けた。

 けれどいつまでも、幾度季節が巡っても、あなたは私のもとに帰ってはこなかった。それでも待って、待って、待って。

 その間に、多くの人がいなくなった。いくつもの命が芽吹いては、散っていった。あなたが私に届けてくれた魔法は、奇跡は、私にそれらのすべてを見つめさせて、けれどついにあなたの顔を見せてくれることはなかった。

 そうして世界の景色が変わって、ただ私だけが変わらなくなってどれくらいが過ぎた頃か。私は旅に出ることにした。

 かつて遠い昔に消え行ってしまいそうだった私をこの世界に繋ぎ留めた奇跡。そんなものがあるのだから、またもう一度、たった一度だけでいい、あなたに逢うことだってできるかもしれない。

 手紙を通してあなたが届けてくれた世界の風景。今度は私が、あなたの言葉と一緒にその景色の中に踏み出していこうと思う。

 旅はきっと長くなるだろう。延々と続くだろうし、それは今度こそ永遠に終わることがないのかもしれない。けれどかつてあなたの言葉がそうさせてくれたように、今もまたあなたの言葉が私に都合のいい奇跡を信じさせてくれるから。だから私は旅に出る。

 幾星霜が流れ、何もかもが変わってしまって、けれどその鮮やかさだけは変わらない世界に両足で地面を蹴って。両手を大きく振って一歩踏み出す。

 あなたから貰った言の葉の一つ一つを抱きしめながら、かつてあなたも見たに違いない遠い空に、私は言った。

「いまからどこに行こうか」

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