第13話 南瑠璃子

「え?」


 南は状況を理解できないのか、もう一度そう言った。だから、僕も繰り返す。理解できるまで何度でもそうするつもりだ。


「南を許す」


 繰り返された南は一瞬泣き笑いのような表情を浮かべて、


「っ!?」


 ガタン!

 馬乗りの僕を力任せに押し返すと、逆に今度は南が僕の上に乗る。その両手が僕の首にかけられ、力が込められた。


「…………」


 僕は、そんな南を哀れに思った。やはり南が僕にやられたのは演技だったのだ。理由はともあれ、南は僕に殺されようとしていた。


「なんで?」


 首にかけた両手の力を強めながら、南は言う。南が僕を殺そうとしているのに、南の瞳は何故か困惑するような、助けを求める子供のような純真なものだった。


「僕には殺せないから許す。それだけだよ」


 端的に僕は答える。実際に、理由としては本当にそれだけだ。僕が決めた覚悟は二つ。一つは南を殺すこと。そして二つ目は、それができなかった時には南を許すこと。


「ねぇ、分かってるの? 私は南の両親を殺した女なんだよ!? 何も悪くない南の両親をあんなにしたの!」


 南が父さんと母さんに視線を向ける。そして耐えきれないとばかりにすぐにその視線を逸らした。


「ああ、分かってるよ」


 僕の胸の奥には、以前として燃えるような南に対する怒りがあった。それはきっと、これから先何年、何十年経っても衰えることがないと断言できる程、煮えたぎっている。


「……それでも許す……」


 スムーズにはその言葉はまだ僕の口から出てこない。でも、僕にはそうするしかな

かった。


「おかしいよ……そんなの……」


 南が錯乱するように髪を振り乱す。僕よりも、南の方が現実を受け入れられていない。南は僕に求めていた。僕が南を殺す事を。


「そんな……じゃあ、私が悪かったって言うの?」

「え?」


 南がどこか、ここじゃないどこかを見つめていた。


「……私だけが悪いの?」

「南……?」

「そんなはずない! 私だけが悪いんじゃない! 皆だって私と同じ状況になれば同じ事をするはずよ! ねぇ、そうでしょ!? 園田もそうなんでしょ? だったら早く私の事を殺してよ! 私と同じになってよ!!」


 南は咆哮する。僕にはその内容の半分も分からなかった。でも、ただ一つだけ分かったこともある。

 それは――。


「僕とお前を一緒にするな! 僕は人殺しにはならない!」


 人として、あの暖かい両親の息子として、決して犯してはいけない領域がある。もしかしたら、僕はもうすでに地獄行きが決まっているかもしれない。とても危険な事を南にしたのだから。でも、僕は人を殺したりはしない。それが僕の矜持だ。

 だが、南は諦めない。


「由宇のご両親も復讐を願ってるよ……? 幸せを壊した私を殺して欲しいと思ってるよ?」 

 そんな父さんと母さんへの侮辱を口にする。僕は南の目をキッと睨むと、父さんと母さんの代わりに言ってやる。


「父さんも母さんもそんな事は望んでいない!」


 僕の中に、今も生きている父さんと母さんの記憶は、決してそんな願いは望まない。もしかしたら、それは僕の妄想かもしれない。でも、僕は父さんと母さんを信じる事をやめることはないだろう。この場に父さんと母さんがいれば、きっと南のことを許しただろうから。


「父さんと母さんはお前みたいに弱くない! どんな事があっても、人をやめることなんてない!」

「っ!?」


 一息で僕が言い切ると、南は衝撃を受けたように仰け反った。そして、怯えるように力なく僕の上から退く。

「……そんなの嘘だよ……どんな人だって叩かれたら痛いよ……。酷いこと言われたら苦しいよ。……奪われたら、許せないよ。……私だけじゃない……」


 未だにそんな事を言う南の襟首を僕は掴む。


「自分がそうだからって他人もそうだなんて思うな! 少なくとも、僕は違う! 僕はお前の思い通りにはならない!」


 手を離すと、南はフローリングに額をつけるような体勢で泣いた。嗚咽が僕の耳まで届いてくる。

 不思議だな。こんな奴でも……こんな憎い相手でも……泣かれると僕まで痛いなんて……。

 僕は胸を押さえる。そこには鈍い痛みが走っていた。その痛みはまるで、僕が人である証のような気がした。











 泣き続ける南に業を煮やした僕は、その隣に座った。本当に自分でもどうしようもない馬鹿だという自覚があるけど、それが僕だ。どうしてだか、すっきりとした気持ちがある。


「ほら、話してみなよ」


 南の肩がピクリと震える。


「言いたいことぐらい……あるんだろ?」


 南が感情任せで言っていたことは、僕にとって理解できない事柄だった。きっと、南にもいろんな事情があったんだろう。だからといって全部を水に流すことなんてできないけど、話くらいは聞いてやってもいい気がした。


「『自分だけじゃない……自分だけが悪いわけじゃない』って言ってたよね? あれって、どういう意味なんだ?」

「…………」


 南は俯いたまま答えない。僕はその背中を叩いた。


「ひんっ!」


 すると、呆気にとられた様子の南が、僕をおずおずと見上げる。女の子にこんな事をするようになるなんて、昨日までは考えもしなかった。でも、南がまるで被害者のように振る舞う事が、僕には許せなかった。


「いいから、話せよ」


 無理して上から目線で問う。南は怯えるように身体を震わせると、ポツポツと話し出した。


「わ、私は……ずっとお母さんに育てられてきたの」

「お母さん?」


 南が話しやすいように、所々僕は相づちを入れる。


「うん。お父さんは、私が小さい頃に死んじゃって……」

「そうなんだ……」


 父親のいない家庭。それは僕には想像もできない形だ。これから嫌でも理解しなければならない事実に、胸が重くなる。


「最初のきっかけは、私がお父さんの事を忘れられなかった事。私が毎日のようにお父さんの名前を呼びながら泣くから、いつからかお母さんがお父さんの代わりを連れてくるようになったんだ」

「……代わり」

「そう、代わり。私も初めは困惑したけど、次第に、とっても優しかったその人に懐いて……まるでお父さんが帰ってきてくれたみたいで嬉しかったんだ」

「…………」

「でも、そんな日々も長くは続かなくて、だんだん疎遠になった。私も寂しかったよ。でも、お母さんはもっと寂しかったみたい……」

「お母さんが?」


 南はコクリと頷く。


「お母さんもお父さんが死んじゃって、耐えきれなかったんだと思う。でも、私がいるから、そんな姿は見せられなかった。そんな時に頼れる人が現れたら、依存……しちゃうよね?」

「……それは」


 僕にはよく理解できる。南と僕の関係が、まさにそうだ。弱さを露呈した時に、南が都合良く現れた。最初から、全部計算された事だったのかもしれない。


「その人が、お母さんから離れた原因は私。そうだよね。普通、子供がいる人と深い関係になるなんて、尻込みしちゃうよね? でもその事から、お母さんは私を邪魔に思うようになったの」

「邪魔って……」


 今時、そんな事があるのか。昔は親の育児放棄が問題になった事があったらしいけど、僕の周りではほとんど聞いたことがない。子供が嫌いな人、育児ができない人は子供を作ったりしない。そういった事が徹底された社会だ。


「元々はお母さんと仲良かったんだろ?」

「うん。裕福じゃなかったけど、たぶん普通の家庭よりも仲は良かったと思う。よく喋って、冗談を言って……服とかもよく買ってくれたっけ……」

「…………」


 最初から子供を嫌っていたわけでなく、後天的に嫌いになった。それはむしろ、南にとっては残酷な事だったのかもしれない。


「それからね……お母さんは私に暴力を振るうようになった」


 南は自分の肩を両手で抱きしめた。暴力を振るわれた時の事を思い出しているのか、肩を抱く手が落ち着きなく揺れている。


「『あの人が私から離れたのはお前のせいだ!』って言われて、毎日……毎日……」

「じゃああの背中の傷は……」


 僕はお風呂場で見た背中の傷を思い出していた。


「ああ、あれ、見られてたんだ」


 南が苦笑する。


「カッターで切られたんだ。」


 南は端的にそう言った。感情の籠もっていない、冷たい声色だった。


「お母さん、男の人と別れてからお酒飲むようになってね。酔うと暴力がエスカレートするんだ。あの傷もお酒を飲んだ時にね」


 僕はその状況を想像して、唇を噛んだ。


「誰も助けてくれなかったのか?」


 世界は善良な人間、善良であることを強いられた人々で満ちている。少なくとも、日本においてはそうだ。当時南が何歳かは分からないけど、学校に行ってたりしたなら、異変に気づいた人たちが助けてくれそうなものだが。


「助けてくれそうな人は……いたよ」


 南は少しだけ考えて言う。


「お父さんが生きてた頃からよくしてくれた人達は……いっぱいいた。お婆ちゃんもお爺ちゃんも生きてるしね。でも、私が必死にそういう痕跡を隠してたから」

「なんでだよ!?」


 僕は思わず叫んでいた。南がどうして助けを求めないのか、理解できなかった。南は自嘲するように笑うと、僕が決して反論できない答えを告げる。


「大好きだったから」

「は?」

「お母さんのことが……大好きだったから」

「っ」


 僕は黙り込んだ。当然の答えだったのかもしれない。もし僕の母さんが、ある日を境に豹変したとして、僕は母さんを告発できるだろうか? できないに違いない。幸せな記憶がある限り、僕は母さんを嫌いになどなれないだろう。まして、南は僕よりも遙かに幼かった。幼い子供にとって、親は世界のすべてだ。それを拒絶するなんて、できるはずがないんだ。


「ごめん。馬鹿な事聞いた……」

「ううん。いいの」


 南は体育座りをして、その膝に頬を埋める。その視線が僕を見ていた。一瞬日差しが強くなり、リビングに陽光が差し込む。父さんと母さんの遺体に光が反射してキラキラと光った。おぞましい光景だ。これを南が生み出したのだ。その心の闇は、僕には推し量ることすらできない。


「…………はぁ」


 ふと、全身から力が抜ける。何もする気力も起きない。ただ、最後まで話を聞かなくてはいけない。それが僕が父さんと母さんにできる最後の事。


「それで、お母さんはどうなったんだ?」


 予想はできた。でも、僕は南の口から聞きたかった。南は「ふぅ」と息を吐くと、


「殺したよ」


 当たり前のように言った。


「そうか……」


 僕も当たり前のように受け入れた。救いはどこにもない。ここまで聞けば、現状についてもある程度推察できる。


「僕の父さんと母さんを殺したのは……なんで?」 

「南に私を殺してもらうため」

「…………」


 南が、僕に殺されたがっているのには気づいていた。父さんと母さんを殺されて、僕は一時本気で南を殺そうとしていた。問題なのは、どうして僕だったのか。どうして殺される必要があったのか。


「どうして殺されたかった? どうして僕だったんだ?」

「南が中学生の時に女の子を助けたの覚えてる?」


 僕の問いに、南は少しズレた答えを返す。

「覚えてるけど……それが?」


 僕にとってあれは夢に見るほど鮮烈な経験だった。ある意味で、こうして両親を殺した相手にすらお節介を焼く遠因にもなっているかもしれない。僕が生まれて初めて人を助けた。あの時感じた満足感、達成感を僕は心のどこかで求めている……かも。


「あれ、私」

「はっ!?」


 驚愕の事実に僕はずっこける。


「は? え? あ、あれ!? あれあれが南!?」

「そうだよ。あの時はありがとね」


 南が笑顔を浮かべて感謝の言葉を告げる。僕はポカンと口を開けたまま、しばらく動けなかった。でも、すぐに気を取り直す。


「そ、それがなんで僕に執着することに繋がるんだ?」

「そんなの由宇が私を助けてくれたからに決まってるよ。お母さんを殺して、いろんな人に見捨てられて、世界で一人だけだと思っていた私に、優しさを教えてくれた人だから」

「そんなつもりは……」


 なかった。あれは結局の所、僕の自己満足に過ぎなかった。それが南の人生を変え、父さんと母さんの死に繋がった。 


「……殺されたかったのはなんで?」

「一人が寂しかったから。由宇なら地獄まで一緒に来てくれると思った」

「はぁ……」


 僕は深く溜息を吐く。知らず知らず、とんでもない女に執着されていた。

 実のところ、南と南の母親は似たもの同士だったのだ。二人揃って――。


「最悪の親子だ……」

「うん。そうなんだ」

「認めるなよ……」

「ごめんね」


 南は底の知れない昏い瞳を浮かべ、笑った。

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