第二章
第12話 ようこそ、ここは地獄の一丁目
「ん、んんんっ」
身体が揺さぶられていた。その揺れは僕の眠りを妨げようと、必死だった。でも、僕の身体はまだ睡眠を求めている。やめてくれと僕を揺さぶる手を握ると、今度は僕を引っ張り起こそうとする。しかし、その力は脆弱で、僕を起こすには至らない。まだまだ甘いな! そう高笑いしたくなる。僕はもう一度意識を心地よい眠りの中に沈めようとして――爆音!
「う、うわあああああっ!」
飛び起きた。一瞬で意識が覚醒する。僕は耳に装着したままだったイヤホンを慌てて外す。イヤホンからは、耳から遠ざけているにもかかわらず、はっきりとした音量が漏れていた。
「な、なんて事すんだよ! 母さん!」
僕は母さんに一言文句を言おうと顔を上げて、硬直する。
「園田……おはよっ」
「み、南……?」
目の前に制服姿の南がいた。どうして南が僕の家にいるのか一瞬考えて、すぐ思い出す。
「あー、えっと……起こしてくれたの?」
「うん」
「そ、そうか……」
僕は内心恥ずかしさに悶えた。油断しきった寝顔を見られただけに飽き足らず、南を母さんなどと呼んでしまった。ある意味で、最悪の目覚めだ。
「園田ってさ……」
「ん?」
南は自分の肩に掛かる髪を指先に巻き付けながら、言った。
「寝顔はすごく子供っぽいんだね」
「うっ!」
やっぱり見られていたらしい。
「そ、そうなんだ?」
でも、僕はなんとか内心の動揺を悟られまいと、済ました顔で答えてみせる。
「うん……なんか、可愛かったかも?」
「ぐはっ!」
しかし、微笑まれながらそんな評価を下されてしまい、僕は呆気なく撃沈する。とんでもなく恥ずかしい。というか、大の男捕まえて寝顔が可愛いってどういう事だよ! 女心は実に難解だ。
「ていうか、一晩中音楽聴いてたの?」
「ま、まぁね」
南がベッドに転がるイヤホンを指さす。一旦は眠ったものの、南が一つ屋根の下にいると思ったらやっぱりすぐ目が覚めかけて、音楽で気を紛らわせてた……なんて、絶対に言えない。
「ふーん。それでか……」
南がなるほどと納得するように頷く。
「それで? 何が?」
どういう意味か分からず、僕が問うと、南はニッコリ笑ってはぐらかした。
「女の子の秘密」
「そ、そっか」
女の子の秘密……なんだかヤバそうな響きだ。深くは突っ込まない方がいいだろう。
「…………」
僕の顔を南がじっと見ていた。目と目がピタリと合い、若干どぎまぎする。
「な、なんだよ?」
「もしかしてなんだけど……」
南はもったいつけるように、そこで区切った。その間もじっと僕の目を見ている。心なしか、だんだん距離が近づいているような気がした。まさか、キス……されるんじゃないか? そんな下心が胸中を過ぎる。自分から目を逸らすこともできずにいると、南はようやく口を開いた。
「南って、もしかしてマザコン?」
「は?」
予想もしていなかった言葉に、僕は一瞬呆気にとられる。しかし、すぐにその意味を理解して反論した。
「ち、違うって!」
「うわっ! なんかその言い方怪しい!」
その稚拙な否定の仕方が余計に疑惑を生んでしまったらしく、南の疑惑が確信に変わり始める。
「絶対違う! 全然違うから!」
「えー? だって毎朝起こしてもらって……行ってらっしゃいのチューもするんでしょ?」
「してないって! 誰だ、そんなデマ流したのは!」
「おば様に聞いたけど……」
「母さーん!?」
ぜぇはぁ息を荒げながら、僕は必死に否定する。自分でも熱くなっていると思うけど、雰囲気の良い感じの女の子にマザコン疑惑をかけられて、必死にならない男がいたら見てみたい。 とにかく、僕はその不名誉な称号を撤回させようと、南の説得を続ける。
しかし――。
「おば様が言ってた事と全然違うけど……?」
「だから! 母さんが嘘をついてたんだよ!」
母さんが嘘八百を教え込んでいたらしく、南の洗脳を解くのはなかなか難航した。だんだんと疲れてきた僕は妥協点を探った。
「……どうしたら信じてくれる?」
もうマザコンでもいいような気がしてきた。言いふらされない限り、特に不都合もないだろうし。南が不特定多数に言いふらすような子じゃないと断言できる程度の信頼関係はできている。南は僕と会話しながら、楽しそうだった。マザコン疑惑に関しても、単に僕を馬鹿にしたいんではなくて、僕と会話するための話題を探していたのかもしれない。……って、そはれちょっと自意識過剰すぎかな。
「じゃあ……」
南は何かを言おうとして、一瞬言い淀む。少しだけ、顔が赤くなっていた。こういう時の南は、大概大胆な発言をするので、僕は警戒する。何を言われてももう動揺なんてしないぞ!
「瑠璃子って……呼んで欲しい……」
「え?」
その言葉に、僕は拍子抜けしてしまった。あまりに可愛らしいお願いだったから
だ。しかし、南にとってはそうではないようで、言い終わってカァーと紅潮する。
「な、なんか言ってよ!」
僕が黙っていると。沈黙を恐れた南に睨まれる。でも、顔が真っ赤だから全然怖くない。
「顔真っ赤」
「う、うるさい! 仕方ないでしょ! 体質なんだから!」
あれって体質だったんだ……。
いつの間にか、形勢は逆転していた。
次は僕のターンって感じで攻めに回ってやろう! 実際に瑠璃子って呼ばれたらどんだけ真っ赤になるか楽しみだ!
「…………こ」
「ん?」
だが――。
「……りこ……」
「え?」
なかなか――。
「……るりこ……」
「……声小さくない?」
「…………」
瑠璃子。文字にすれば、たったの三文字。でも、実際に瑠璃子と呼ぼうとすると、なかなか声に出すことができなかった。今時、小学生でもこんなやり取りしないだろう。心の中ではいくらでも言えるのに、声に出すとなるとまた別問題だった。
「る、瑠璃子! こ、こでれいいんだろ!?」
若干自棄になって一息に言い切ると、南――瑠璃子は満足そうに笑って頷いた。
「うん、ありがとう……由宇」
「あ、ああ」
藍那以外の女の子に、名前で呼ばれるのは初めてだ。名前で呼び合うと、急に距離が近づいたように感じるから本当に不思議だった。
「ね? もう一回だけお願い!」
瑠璃子が手を合わせて懇願する。
「えー! 今!?」
これから瑠璃子で通そうと思っていたけど、真っ正面からお願いされると、ちょっと言いにくい。だけど、もう二度も呼んでいるし、別に嫌なお願いじゃなかったので、僕は一つ咳払いをして、視線を逸らしながら言った。
「る……瑠璃子」
やっぱりまだ慣れない。僕はそっぽを向きながら、チラリと瑠璃子を一瞥する。
瑠璃子は涙を流していた。
「はぁ?!」
驚いたなんてものじゃない。それは理解不能で、僕は立ち尽くした。そうしている間も、瑠璃子は次々と涙を流している。頬を伝う涙を拭おうともせずに……。
「ど、どうしたんだよ? る、瑠璃子?」
不安になる。僕が何か気に障ることを言ったり、したんじゃないかと。僕は女の子相手の経験値に乏しい。女心の理解なんて、皆無に等しい。知らず知らず、瑠璃子を傷つけたんじゃないかと、僕は思った。僕はベットの枕元のティッシュに手を伸ばす。そのティッシュで、瑠璃子の目元をそっと拭った。
「ごめんね……ごめんねっ!」
瑠璃子は泣きながら、そう繰り返す。僕にはその意味が分からない。だから、聞くことしかできない。
「謝るなって! その……もし僕が原因なら教えてくれ……言ってもらわないと僕馬鹿だから分かんないよ……」
父さんくらい人生経験があれば、僕も言葉にしなくても大事な人の気持ちが分かる日がくるんだろうか。泣いている女の子の涙を拭うんじゃなく、止めることができるようになるんだろうか。一度、父さんに聞いてみたいと思った。もし僕が原因ならば、絶対に改善しなければならない。それがこの世界のルールだから。
「由宇のせいじゃないよ……」
瑠璃子はポツリとそう言った。そして、ようやく涙が止まる。
「そうなの? じゃあ――」
どうして? そう聞いてみたかった。だけど、そうするには時期尚早で言い切れなかった。瑠璃子はともかく、僕の気持ちは固まっていない。そんな状態で瑠璃子の心の奥に踏み込むのは憚られた。
でも、そんな僕の躊躇をよそに、瑠璃子はその理由を語る。
「ごめんね……急に。私ね、瑠璃子って言われて嬉しかったの……」
「…………」
僕の目が一瞬点になった。そんな理由で? という言葉が喉元まで出かけるが、すんでの所で飲み込む。女の子とはそういう生き物だと、何かの本に書いてあった。何より、僕に名前を呼ばれただけで感動して泣いてしまう。悪い気はしなかった。今後が大いに不安になるのは横に置いておいて……。
僕は苦笑いを浮かべて言った。
「じゃあ着替えるから下に降りといて」
「あ、うん、分かった」
少し赤くなった目元を軽く擦り、瑠璃子は頷く。僕の部屋から出ようとドアに手をかけて、背中を向けたまま瑠璃子は言う。
「最後に聞けて良かった」
「最後ってなんだよ……これからも瑠璃子って呼ぶよ。……それでいいんでしょ?」
「うん……もしそうなら、嬉しいな……」
よく考えてみれば、その時の会話は不自然だったと後になって思う。僕は特に不思議に思わずに、答えていた。その結果があんなものになるなんて知らずに。……いや、違うか。知っていたとしても、何も変わらなかったんだろう。何故なら、もうすでに、すべては終わっていたのだから……。
僕はいつも以上に制服をビシッと、だらしなく見えないように着てから下に降りる。その途中に、瑠璃子の鼻歌とパンの良い香りが僕の所まで漂ってきた。今日はもしかして瑠璃子が朝食を作っているのかと、普段の日常にはない展開に心躍らしながら僕はいつものように言う。
「おはよう」
でも――。
「あ、遅かったね、由宇」
台所で微笑みながら朝食を作る瑠璃子。それはいい。でも、
「あ、ああ……あ、あ、あ」
――それはなんなんだ? なぁ、答えてくれよ、瑠璃子?
「いま朝ご飯できるから座ってて」
瑠璃子が促す。何も変わったことなどないと言わんばかりの態度だった。でも、僕の身体は少しも動こうとはしない。
だって、だって……だってっ!
「う! うぇっ……う、うぁ」
吐き気が込み上げて、僕は嘔吐く。何も入っていない胃から零れたのは白く濁った胃液だ。喉に焼けそうな痛みと苦しさが広がった。
いつも通りの団欒。今日は瑠璃子もいて、いつも以上に楽しい一日が始まるはずだった。少なくとも、僕はそう思っていたし、父さんと母さんもそうだっただろう。
――ねぇ? そうだろう? 父さん……母さん?
「父さんっ! 母さんっ!」
僕は飛びかかるようにしてダイニングテーブルに向かう。テーブルには、すでに父さんと母さんが席に着いていた。最初、僕が朝の挨拶をした時に反応がないからおかしいな、とは思った。でも、父さんの足下にできた血溜まりを見た瞬間、そんな考えは吹っ飛んでいた。まず、母さんの姿勢は、明らかにおかしかった。頭をを上に向けて、首が据わっていなかった。こうして近くで見ると、そんなのは当たり前だ。
「うあああああああああっ!」
頭が可笑しくなりそうだ。そんなはずはない! そんなはずはないのに、父さんの喉からは塊かけた血がドロット溢れ、母さんは額の中心に穴が開いていた。
「と、父さん……」
父さんの身体を揺する。すると、何の抵抗もなく父さんの身体は椅子から崩れ落ち、床に倒れ伏した。冷め切った体温の感覚が服の上からでも手に伝わってきた。
「か、母さん……?」
母さんの顔は、額の一点を除いて綺麗なものだった。出血量も少なくて、服もあまり汚れていない。だけど、その表情は怖気が走る程に青白く、まるで人形のようだ。
「お、起きてよ……母さん」
肩に触れると、ゆっくりとした動きで母さんの身体は傾いた。僕はそれをしっかりと、今度は抱き留める。
「嘘だろぉ……おい」
信じられない。現実味がない。だけど、母さんの身体は何よりも雄弁にこれが現実だと僕に告げているようだった。
「由宇……できたよ」
そんな沈痛な空気が満たすリビングには、一人だけ場違いな存在がいた。南はただ一人笑っていた。惨状を僕よりも長く見つめているはずなのに、南は少しも変わった様子を見せることはなかった。朝も、そして今も。
「南……どういう事……なんだ?」
僕は声を押し殺して問う。落ち着け、落ち着けと繰り返し自分に言い聞かせた。だって、南がこんな事をするはずがないじゃないか。父さんと母さんとも仲よさそうにしてたし、何も問題はなかった。そうだ。そうだよ。南もきっと今の状況にどう対処していいのか分からないんだ。
でも、
「そっか。もう瑠璃子とは呼んでくれないんだね」
南はすべてを受け入れたように笑った。その態度は、まるで僕の馬鹿な疑いを受け入れたように見えて、僕の心をかき乱す。
「南……何があったんだ? もしかして南も何かされたのか? それなら……僕に話してよ。南の力になれるかもしれない」
それはきっと、優しさなんかじゃなくて、現実逃避だった。目の前のどうしようもない出来事から目を逸らしたくて、僕は必死に『何か』を探していた。それは、僕の気を紛らわせてくれるものなら、なんでも良かった。しかし南の口から出るのは、僕の望みとは程遠いものばかり。
「園田もそう言ってくれるんだ。やっぱり園田家の人達って本当にすごいんだね。強いよ……園田は……」
そんな訳の分からない事ばかりを南は言う。今日の朝からずっとそうだった。いつもの南じゃないなんて、とっくに気づいていたはずなのに。そもそも、いつもの南とはどの南の事なんだろう。僕が南の何を知ってるって言うんだ?
「ごめんね、園田」
今日だけで 、何度謝罪の言葉を言われただろう。その謝罪は、一体どの園田に向けて発せられた言葉なのだろう。
「私ね――」
南の表情は凍り付いていた。まるで人形のように生気に欠けている。その顔を僕はついさっき見た記憶があった。あれは確かに母さんの死に顔と同じだ。南は生きながら、すでに死んでいるとでもいうのだろうか。
「園田のおば様とおじ様をね――」
僕の手足が震えた。奈落の底に堕ちていく心地。両親の庇護を失ったむき出しの僕は、酷く脆弱だった。
「……やめろ……」
自分を守るための言葉。それが何故か薄ら寒く僕の耳の届く。
「殺したの」
そして、ついに南の口から決定的な言葉が放たれて、僕の心臓を射貫く。
「あ、ああっ……」
南の告白と同時に、僕は大きく息を吐いた。僕はとうとう、気を紛らわせる『何か』を手に入れてしまったのだ。それは甘美で人の心を堕落させる蜜の味がした。それに全身を絡め取られたが最後、僕はその感情に意のままに操られる奴隷になってしまう。
曰く――憎悪。
人間の最も根源的で大きな力をもたらす禁忌の麻薬。
「あ、ああああ、うあああああっ」
僕は激情に身を委ねる。感情の赴くままに声を張り上げ、南を睨み付けた。
「南いいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
そして、南に向かって突進する。南は焼いた食パンとハムエッグの乗ったお皿を四つ器用に抱えて、僕を迎え入れた。
「うあああああっ!」
南の肩に体重を乗せながら手をかける。そのまま僕は押し倒そうとする。
しかし、
「な、なんで!?」
僕は驚愕する。僕の手は思惑通り南の肩にかけられている。突進の衝撃も加えれば、女の子一人くらい押し倒すのは容易だったはずだ。だが、現実にはまったくそんな事は起こらなかった。僕がどれだけ力を込め、南の肩を強く握りしめても、欠片もビクともしない。それどころか、全力を込めて息を荒げる僕とは対照的に、南はニッコリと微笑んだままだった。南は何事もないように、僕に向かって会話を投げかけてきた。
「由宇のために朝ご飯作ったんだけど、いらないかな?」
あまりにも場違いな台詞だった。台詞だけでなく、状況も。
「ふ、ふざけるな!」
しかし、どれだけ異常な状況だとしても、僕は絶対に引くことはできない。この南という女は僕の父さんと母さんを殺した! 絶対に許せない!
「ぐっ……ぐぐっ」
僕は歯を噛みしめて南の身体を押す。傍目には相撲でもとっているかのような間抜けな絵ずらに見えただろう。当の僕は真剣そのものなのに。
「う、ううっ……ぐぎぎっ」
いくら押しても、ピクリとも南の身体は動かない。痺れを切らした僕は、一旦南から距離を取る。すると、その隙に南は抱えていたお皿をテーブルに並べた。そして、自分の分だと思われるパンを一囓りする。
「ん~。由宇の家のパン美味しいね!」
南の馬鹿にしたような態度に、頭の中が再び沸騰する。何が起こっているのか分からないが、力で南に勝つのは無理だと僕は判断し、部屋を見渡して武器を探した。台所のシンクの中にさっきまで南が使っていただろう包丁が放置されていた。
「っ!」
僕を包丁を確保するために走った。
「こ、これで!」
包丁を手にすると、僕は南にその切っ先を向ける。朝日を浴びて、包丁の刃がキラリと光った。
「…………」
南は包丁を向けられても、パンを咥えたまま動かない。しばらく咀嚼して、ようやく口を開いた。
「そんなもの人に向けたら危ないよ?」
首を傾げて南は言う。その様に苛立ちが募った。
「だ、だからどうしたんだよ!?」
南にだけはそんな事を言われたくない。
「ひ、人殺しめ!」
南は殺人鬼だった。もしかしたら、報道されていた連続殺人鬼の正体は南だったのかもしれない。あの外見からは想像もできない力は、異常だ。今となっては、南がどんな人間で何をしていても不思議には思えない。
「そうだね……。私は確かに人殺しだよ」
南が目を伏せる。前髪に隠れて、その心情を推し量ることはできない。だけど、口元の歪みから、碌な事は考えていないだろう。
「でも、由宇がやろうとしてる事も同じなんじゃないかな?」
「……僕と南が同じだって?」
一瞬、僕はポカンとしてしまう。だって、あまりにも意味不明だったから。何も悪くない父さんと母さんを殺した南が僕と一緒なんて、本当に笑える話だった。
「ふざけた事を言うな! 人殺し!」
冷静さを失った僕に、南は冷や水を浴びせるように、ニヤリと笑って魔法の言葉を投げかける。
「……地獄に堕ちちゃうよ?」
「あ……?」
その一言で、僕だけじゃなく、現代に生きるすべての人間の心に巣くう恐怖が呼び起こされる。
「じ、地獄……いき……」
「そうだよ。復讐は地獄行き」
脳裏を地獄の映像が駆け抜ける。永遠の苦痛。永遠の絶望。地獄の姿のどこにも安らぎは存在しない。そんな世界に……僕も堕ちる?
「っ……ふ、ふは……」
奇妙な笑いが零れ、同時に手足がガクガクと震えた。地獄を意識した途端に、殺意や憎悪が霧散していく。
「そ、そんなことでっ……」
そんなのって、ありなのかよ!? 父さんと母さんをあんなにされて……何もできないのか!?
僕は嘆く。だけど、僕は元々その事を十分に理解していたはずだった。たとえ地獄が認知されても、南のような存在は一定数現れる。重犯罪率は劇的に改善されたものの、それでも完全になくなった訳ではない。人の感情は機械とは違って、完全に制御できる類いのものではない。
「っ!」
その事を僕は分かっていたつもりになっていた。どうしようもなく子供だった。自分の身に降りかかるなんて、想像もしていなかった。圧倒的な理不尽を前にして、人ができることは三つしかない。立ち向かうか、すべてを諦めるか、または同じ場所まで堕ちていくか。
「園田……どうするの?」
南は余裕の態度を崩さない。薄笑いを浮かべたまま、ゲームを楽しむように僕の葛藤を眺めていた。
「父さん……母さん……」
僕はもう一度、胸に刻みつけるように父さんと母さんの死に顔を思い浮かべた。ど
れだけ苦しかっただろう、悲しかっただろう。本当に素晴らしい両親だった。言葉にはしなかったけど、心の底から尊敬していた。いつか二人のような暖かい家庭を僕も持つのが夢だった。
「南……」
次いで、南を見る。昨日まで、ただのクラスメートの一人でしかなかった女の子。でも、一緒に過ごした一日に、僕は運命のようなものすら感じ始めていた。
「は、はは……」
本当に、僕は笑うしかないくらいに愚かだ。今では南と過ごした時間のすべてに作為的な何かを感じてしまう。南を家に連れてきたのは、他でもない僕だ。父さんと母さんの死の責任は当然僕にもある。
だから――。
「覚悟は決まった?」
南の問いに、僕が頷く。
「ああ……」
責任を果たす。僕は二つの覚悟を決めた。
「そう……」
南が僕の正面に立った。無防備なその姿に、僕は少し警戒する。今度はさっきのようにはいかないだろうという確信があった。
「…………」
右手を前に突き出して包丁の切っ先を南に突きつける。身体の半身だけを晒すような体勢を僕はとる。格闘技の経験など、僕にはない。ただ、映画や漫画での知識を真似ているだけに過ぎない。対する南は変わらぬ自然体。華奢な身体を僕に正面から晒して待ち受けている。
「うおぉっ!」
半身のまま包丁を持った右手を突き出す。
「っ!」
しかし、その突きはあっさりと南に交わされてしまう。だが、ここまでは想定通りだ。そんなに簡単にいくとは、僕も思っていない。
「これならっ!」
突きから包丁の刃の部分を向けて、そのまま横に薙ぎ払う。
しかし、
「…………しっ」
その攻撃も、南には通じず、呆気なくしゃがんで躱された。だが、それこそが僕の狙いでもある。
「そこだっ!」
しゃがんだ南の両足を僕は一気に右足で薙ぎはらう。
「……っ!」
南は一瞬目を見開いて、驚く。僕がこんなに連続的な攻撃を仕掛けてくるとは夢にも思わなかったに違いない。僕だって、自分にこんな事ができたことが不思議で仕方ないんだから当然だろう。身体が異常に軽かった。まるで、背中に羽でも生えたと錯覚する程に。
「うりゃっ!」
体制の崩れた南の肩を押してやると、今度は簡単に後ろへ倒れ込む。その隙を逃さずに、僕はその小さい身体に馬乗りになった。
「由宇……」
南のどこか恍惚としたような小さな声。同時に、南は観念したように目を瞑る。僕は南の無防備なお腹に包丁を添えると――。
「…………」
時間が止まったようだった。時計が刻むチクタクという音だけが耳に入ってくる音だった。それ以外、何もない静寂。
「…………はぁ……やっぱダメだよな……」
僕は初めから分かっていた結論を虚空に向けて呟くと、手に持った包丁を投げ捨てた。フローリングの床の上を包丁は滑っていく。
「え?」
呆然と、南が目を開いた。その間抜けな顔に、僕は引き攣った笑みを浮かべて言った。
「南……僕は、南を許すよ……」
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