第11話 幸福な時間
「っ……」
身体が火照っていた。異性に告白をされるのも、異性に自分の気持ちを伝えるのも、まったく初めての経験だった。
僕は火照りを冷ますために、シャワーでも浴びようと脱衣所のドアを開ける。
すると、
「きゃっ!」
短い悲鳴。
「えっ」
視線の先には、身体にバスタオルを巻いただけの南がいた。まず目に付いたのは肩から腰にかけての大きな引き攣った痕がある切り傷。南のスレンダーな手足の長さ、見惚れるような美しい肌のきめ細やかさに似合わないそれに、僕は一瞬だけ言葉を失う。しかし、すぐに状況を認識して謝る。
「ご、ごめんっ!」
慌てて僕は脱衣所を飛び出してドアを閉めようとする。しかし、あまりに慌てていたせいか、足下が疎かになって、踏み込んだ拍子にバスマット諸共ひっくり返ってしまう。
「え? う、うわぁっ!?」
狭い脱衣所内。僕の身体が倒れ込む先には当然のように南の姿があった。ぶつかる寸前に、なんとか南を避けようと身体を捻ったのがさらに悪い結果を生む。
ドテーーンッ!!
「きゃああああっ!」
さっきよりも甲高い南の悲鳴。
「うっ……あっ」
避けきれず、僕は南を巻き込んで無様に転んでしまった。しかも、それだけならまだしも――。
「っ……痛ったぁい……もう、園田ぁ……」
「うっ……」
僕は南の胸にダイブしてしまっていた。目の前どころか、僕の顔は南の小ぶりだけど形の良い胸に挟まれてしまっている。間近で香る洗い立てのボディーソープと南の体臭に、僕の頭が赤ランプを灯し始める。冗談抜きに、理性が崩壊しかかっていた。しかし、そんな夢現な心地も、すぐに現実に叩きのめされて消えゆく。
「……そ、園田?」
ゆっくりとだが、徐々に現状を認識し始めた南が、頬を引きつらせている。それもそうだ。今の南の胸にのし掛かるような体勢は、どこからどう見ても性犯罪者だ。すぐに地獄行きが決定してもおかしくはない。
だから僕は誠心誠意込めて言った。過去、最高の純度だと自負しながら!
「ご、ごめんなさい!」
南の全身が急速に赤みを増していく。それは、怒りか羞恥か。おそらくはそのどちらもで間違いない。南は額に青筋を浮かび上がらせると、地獄の鬼のような表情で手をゆっくりと振り上げる。
「……園田」
「は、はい」
その声は、身の毛がよだつ程に冷たい。冷や汗が僕の額を伝った。南は僕をきっと睨むと、手を振り下ろす。
「謝る前にどきなさいよっ!!」
「仰るとおりですー!」
僕の頬に真っ赤な紅葉が浮かんだ。
「…………」
僕は、リビングのフローリングに直に正座をしている。目の前には、鬼よりも恐ろしい裁判官である南と母さん。二人は椅子に座ったまま、僕をまるでゴミのように見下ろしている。母さんは沈痛な顔を浮かべて、南に謝った。
「ごめんなさいね、南ちゃん……。私なりに由宇を教育してきたつもりだったけど、こんな事になってしまって……」
「いえ、おば様……園田くんも男の子。我慢できない時があるんだと思います」
「……そうね。お父さんもそうだったわ。あの人も野獣のように……まぁ、それは置いておいて、いつもつらい思いをするのは私たち女……はぁ……」
「おば様! 本当にお気になさらないでください! 私は……責任をとってくれるなら……」
「そ、そうね! 責任は必ず取らせるから! 安心してちょうだい!」
「ありがとうございます! おば様!」
「ええ! こちらこそよろしくね! ……それにしてもごめんなさいね、家の由宇が……」
以下ループ。こんな話を延々と聞かされて早一時間。怒られるのは仕方ないにしても、遠回しな精神攻撃は勘弁して欲しい。ようするに、二人が何を言いたいかというと――。
「責任とりなさい!」
「責任とって!」
という事だ。なんかもう今日中に結婚させられそうな勢いである。それは置いてお
いても南と母さんの仲の良さはなんなんだろう。南の悲鳴を聞いて駆けつけた母さんは、南の全面的な味方をした。それはいいんだけれど、僕をチクチクと言葉の棘で刺しながら、急速に仲良くなっていく二人を見ていた僕としては狐につままれたような気分だ。
「もう女の子の嫌がることしちゃダメよ! 分かったわね由宇!」
「……重々、承知しました」
ようやく飽きたのか、母さんが立ち上がる。そして、南とさらに二三言交わして、最後に言う。
「ああそうそう。南ちゃんのお布団を居間の方に出しておいたから」
「あっ、何から何までありがとうございます!」
「いいのよ。もし何かあったら遠慮なく言ってね」
「はいっ!」
手を振り合って、母さんと南は別れる。二人が仲良くなってくれるのは喜ぶべきことなんだろうけど、なんだか嫌な予感がした。将来的な意味で……。
リビングに南と二人残された僕は、さっきの事もあって若干居心地の悪さを感じた。逆に南の方が、我が家にいるように寛いででいる。僕は媚びるような笑みを浮かべて、南に話しかけてみた。
「いやー、本当にごめんね。わざとじゃないんだよ」
「へぇ、胸に顔から飛び込んでおいてわざとじゃないんだ?」
南の声は相変わらず冷たい。だけど、完全に無視される訳じゃないから、嫌われた訳ではなさそうだった。
「本当だって! あれは南を避けようとしたらああなったんだ!」
嘘じゃない。嘘じゃないけど、こうして必死になって否定すると、何故だか嘘くさく聞こえてしまう。僕ですらそうなんだから、南はどうか、考えるまでもない。
「言い訳はいいですー」
南は顔をプイと逸らす。その雰囲気にそぐわない可愛らしい仕草に、僕の頬が自然と緩んだ。
「あ! 何笑ってるのよっ」
顔を逸らしたくせに、南は目敏くそれを見つけ、文句を言う。少しだけ空気が落ち着いたのを見計らって、僕は言う。
「どうしたら許してくれる?」
すると、南は端的に、
「責任とって」
そう言った。
「責任って?」
どういう意味か分かっていて問う。南は面白いように顔を赤らめて、それでも言った。
「私とずっと一緒にいて」
「…………」
そのストレートな言い分に僕まで赤くなる。今日だけでどれだけ赤くなったり青くなったりすればいいんだか。本当に南といると、心を休める隙もない。おまけに、夕食時の一件以来、南は自分の気持ちを隠そうともしなくなった。いや元々隠してなかったと言われれば、そうなんだけどね。要するに、遠慮がなくなったってこと。
「ずっと一緒……かぁ」
「何よ、嫌……なの?」
南は恐る恐る僕に聞く。嫌だと僕が言ったら泣き出してしまいそうな顔だった。
「嫌じゃないよ」
想像してみる。南は見た目の印象よりも、遙かに女の子らしい。料理も旨いし、気遣いもできる。きっといいお嫁さんになるだろう。その隣にいる自分を僕は想像して、フローリングの上を転げ回った。
「ちょっと! どうしたのよ、急に!?」
突然転がり始めた僕を見て、南が目を丸くする。本当に、我ながら今日の僕はおかしい。おかしくなってしまった。たった一日にも満たない時間で、人はこんなに変わってしまうのかと、驚きを通り越して関心する。
「うん、嫌じゃない」
残念な事に、僕は浮気性らしかった。
南、父さん、母さん、それぞれに「おやすみ」を告げて自室に戻る。すると、自室の机に置いてあったスマフォが点滅を繰り返していた。スマフォを手にとって確認してみると、藍那からルートが送られてきていた。ルートとは簡易かつ個人でも複数でも同時にやりとりのできるメール機能の事だ。チャットにも近いかもしれない。
「藍那か……」
たぶん、僕一人で家に帰ってきていたら、僕はこのルートを見ることができなかったかもしれない。
本当に僕って調子いいよな。
「なになに?」
着信があったのは午後六時半頃。ちょうど僕と南が母さんに呼ばれて一階に下りてすぐぐらいだ。さっそく僕はルートを開いた。
『今帰ってきたぜぃ!/(^O^)\ 村井先輩とデートできて本当に嬉しかった! これも全部由宇のおかげ! サンキュー!(^-^)/』
どうやら上手くいったみたいだ。なんというか、複雑な気分。とりあえず、僕は返信する。
『上手くいったなら良かったよ。この調子で二回目三回目行っちゃえよ!』
相変わらず、僕は心にもない事を伝えるのが得意なようだ。 返信は一分と待たず帰ってくる。
『本当のこと言っていいかね?』
「えっ?」
本当の事? さっきのルートの内容は本当の事じゃなかったって事? 訳が分からず、僕は画面の前で困惑する。とにかく、聞いてみないことには仕方がない。
『いいよ。どうしたの?』
すると、次の返信はたっぷり二十分後くらいだった。どんなに長い内容でも、平均三十秒。遅くても二分で返事がくる藍那にしては、長すぎる時間。
ピロリロリ~ン。
スマフォが鳴る。僕はベッドに座ると、少し覚悟を決めてルートを開いた。
『最初の内容全部嘘……。なんかせっかく紹介してくれた由宇に悪くて、あんな事書いちった……ごめん。本当は先輩と全然話せなかった。けっこう強引に連れ出したのに、頭の中真っ白で何も思い浮かばなかったよ……。結局先輩に気を遣わせただけで終わちったぜぃ……。由宇といつもしてるように話したかった……(´;д;`)ブワッ 』
「藍那……」
嬉しいような、ショックなような不思議な気分だった。ただ、それ以上に、どう返事していいか迷う。藍那の素の部分は柔らかくて壊れやすい。対応を間違うと、藍那はどんどんと鬱っぽくなってしまうだろう。以前、藍那は友人関係の些細な問題で急速に、どんどんと堕ちていった。あれを繰り返してはいけない。
『先輩には僕からフォローしておくよ。大丈夫。先輩はいい人だから全然気にしてないと思うよ。だから今日はゆっく寝な』
今度の返信は早く、
「うん」
藍那にしては珍しい、そんな単調な内容だった。よっぽどショックだったんだろう。
その後、僕は先輩に遠回しに今日の事を聞くルートを送った。帰ってきたルートは――『今日は俺のせいであんまり相馬を楽しませてやれなかった。お前にもせっかく間に入ってもらったのに本当に悪い。相馬にはもう一度ちゃんと謝るわ』
そんな先輩らしい思いやりに溢れたルートだった。
「ふぅ……」
とりあえず、これでいいか。ホッとすると同時に、喉が渇いた。何か飲んで今日はもう寝ようと思い、一度下に下りる。
「んーと、緑茶でいっか」
ペットボトルに入った緑茶を取り出し、コップに注ぐ。冷えたそれを一気に飲み干すと、全身に水分が行き渡るのが感じられて、とても気持ちが良い。
「ぷはー!」
どれだけ僕は喉が渇いていたんだろう。たぶん、今日は緊張しすぐて、汗だったり、冷や汗だったりで、多量の水分を消費したせいかもしれない。
「さて……」
口をつけたコップを洗って、僕は一息吐く。風呂場の方からは母さんの鼻歌が聞こえている。父さんは、じっとテレビを見ていた。父さんはとても集中しているようで、身じろぎ一つしない。そのいつもの光景に、僕は父さんが心配になった。
「…………」
父さんが食い入るように見ているのは、二十四時間放映の地獄の映像だった。父さんは夕食後、毎日それを見ている。自分の両親の不在を確かめるために……。父さんの両親――僕にとっての祖父母は数年前に病気で亡くなった。とても優しい人達だった。祖父母を知っている人達は皆、口々に天国へ行ったと言う。しかし、父さんはそれでも不安で、こうして何年も経った今日も、祖父母が地獄へ来ていないか確認して祈っている。
「父さ――っ」
声をかけようとして、僕は思いとどまった。僕が何を言った所で、父さんを安心させてあげられる訳ではない。幸いなことに、父さんがテレビに向かい合う時間は、年々減っていた。元々、見ていて気分のいい映像ではない。だけど、確認することで父さんが少しでも現実と折り合いをつけられるなら、放っておいてもいいのかもしれない。
僕は上げかけた手を下ろし、気づかれないように部屋に戻った。
肩を回し、筋肉を解して布団を被る。今日ほど疲れる一日はそうないと思うくらいに、全身が重く、すぐに睡魔が襲ってきた。
だが、とても疲れたけれど 、今日は悪い一日だった訳では絶対にない。むしろ逆に、これからの人生の転機になる一日のような気がした。僕は全身の力を抜くと、自然と垂れてくる瞼に抗うことなく目を瞑った。
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