第9話 お邪魔します

「お、お邪魔しまーす……」


 おずおずといった様子で、南は僕の家の敷居を跨いだ。そんなに警戒しなくとも思うが、まったく警戒心がないのも、それはそれで困るので口には出さない。


「いらっしゃい」


 だから、僕はそれだけを言うにと止める。何よりも、緊張しているのは南だけではない。僕も同じくらい緊張していた。

 何故南が僕の家にいるのか。そこについて少しだけ説明というか、言い訳ををしたいと思う。誰に対してという訳でもないが、まぁ、自分の心の平穏のために。










 事故を目撃した南は怖がっていた。僕が支えていなければ立っていられない程に南は顔を青くしている。


「大丈夫?」


 僕は南の背中を摩る。しかし、南の震えが収まる気配はなかった。


「……怖い……よ」

「……うん」


 南が恐れているのは事故そのものではない事はすぐに分かった。南は被害者の女の子に共感しているのだ。


「あの子が……もし地獄に行ったら……」

「大丈夫だよ。あんなに小さいんだ」


 何の慰めにもならない言葉だった。子供だという理由で罪を許されるのなら、誰も地獄を恐れたりはしない。この世で最も理不尽な場所だからこそ、地獄はこんなにも人々に恐れられているのだ。


「良い子……だったんだよ」

「……うん」


 だから、僕らはそう信じる事しかできない。それは自分自身ですら例外ではない。僕は良い子だった、良い奴だった……そう思っていなければ、いずれ必ず訪れる死を冷静に受け止めるなどできない。

 それにしても、


「南って案外恐がりだったんだね」

「わ、悪い? ……怖いんだから仕方ないじゃない」


 言葉にもいつものキレがなかった。相変わらず震えは止まらないし、いくら地獄行きが怖いからといって、これはさすがに怖がりすぎではないかと少し思う。それとも、南は特別感受性の強い子なんだろうか。

 どっちにしても、この後どこかへって感じでもなくなったし、南を家に送らないと。 


「立てる?」

「う、うん……」


 僕が促すと、南はなんとか一人で立ち上がることができた。


「帰ろう。送るよ」


 僕がそう言うと南は、


「やだ!」


 そう言いながら、また僕に抱きついてくる。やはり尋常ではない怖がりように、僕は心配になる。


「家は嫌……今は一人は嫌なの……」


 ガクガク震える南。南の言葉が僕は気になって、問いかける。


「一人? 親御さんは?」

「…………」


 南は無言で首を振った。事情を悟った僕は謝る。


「ごめん」


 無神経な事を言ってしまった。最初の時点で察してあげるべき事だった。


「えっと……じゃあどうしようか」


 僕はどうするべきなのなろう。

 藍那の家に泊めてもらう……いや、さすがにそれはありえないな。いろいろな意味で。

 考える僕の手が引かれた。南が懇願するように僕を上目遣いに見る。


「……園田の家……行きたい」

「いや……それは……」


 さすがにまずいのではないだろうか。もちろん、こんな状態の南に何かをするような考えは欠片も持っていない。しかし、話の流れ的に僕の家に泊めてくれという意味だろう。やっぱり、それは……。


「あー」


 断ろうと南を見ると、南は僕をじっと見つめていた。純粋な信頼の眼差し。これを断るのは非常に勇気と根気がいりそうだ。


「えー」


 それでも、なんとか断ろうとすると、次に南は薄く涙を浮かべた。涙は女の武器とはよく言うが、南はさすがに多用しすぎだと思う。乱用すると、効果が薄く――なるなんて事はなく、僕の答えは強制的に一つに絞られた。


「……分かったよ。家においで。父さんと母さんにメールしてみるから」












メールの応えはすぐに帰ってきた。二人揃って『是非連れてきなさい』という内容だった。

 ……それでいいのだろうか。


「エッチな本あるかなー?」


 そして今、南は僕の部屋ではしゃいでいた。

 まったく、さっきまでの南はどこへ行ったんだか……まっ、元気になったならいいけどさ。


「そんな本はありません!」


 ベッドの下をゴソゴソと漁る南に僕は堂々と宣言する。


「えー、男の子は皆持ってるものじゃないの?」

「持ってない男もいるんだよ」


 エロ本を持っていたからと行って地獄に堕ちるわけではない。ただ、過保護な両親への対策がこんな所で役に立つとは思わなかった。


「つまんない……」


 口を尖らせて、南が僕のベッドに寝転ぶ。


「ちょっ!」


 さすがに僕は焦った。ベッドの上で、南の制服のスカートがかなり危険な感じで捲れ上がろうとしている。思わず生足に視線が吸い込まれたのは、僕の年頃を考えて無理からぬことだろうと思う。


「もうっ……エッチ……」

「な!」


 しかし、南は僕の視線を敏感にキャッチしたようだ。自分からそんな格好をしているというのに、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、僕を挑発する。


「ほれほれ」


 それだけに飽き足らず、南は自分からスカートをひらひらとさせる。絶妙な加減でその下に隠された下着は見えないが、僕は情けないことに視線を逸らせなくなる。


「男の子って面白ーい」

「う、うるさい!」 


 どうやら、南が緊張してたり、警戒心を持っているなんて思っていたのは、まるっきり僕の勘違いみたいだ。もしかすると、藍那よりも警戒心が薄い疑惑すら沸いてくる。


「はー」


 僕は嘆息した。


「まっ、南が落ち着いたみたいで安心したよ」


 それだけは本当に良かったと思う。あの時の南は本当に尋常な様子じゃなかったから。


「……うん、ありがとね」


 スカートをひらひらさせる手をパタリと止めて、南は言う。そして、寝転んでいた体勢を立て直して、ベッドの隅に足を投げ出して座った。


「んー!」


 そのまま南は前屈のように身体を伸ばして、自分の隣の布団をポンポンと叩いた。

 座れってことかな。まったく……一応僕の部屋なんだけどな。


「はいはい」


 断る理由もないので、素直に南の隣に僕が座ると、南は僕の肩に頭をコツンと乗せる。それだけで、僕の身体が化石か何かのように硬くなったのが分かった。


「なんか不思議だね……」


 南が心地よさそうに目を瞑って言う。


「今日だけで……園田にかなり近づけた気がする……」


 僕はドキッとした。それはまるで、告白されているかのようで、


「ねぇ? 園田はどう? 私は園田に近づけたって思ってもいいの? ……それとも、私の勘違いなのかな?」


 甘い、バニラのような香りがした。僕の部屋なのに、僕じゃない香り。南の女の子の香り。頭がボーとした。


「そうだな……確かに、今日はいろいろあったな」


 南の弁当を食べて、南に励ましてもらって、南とデートして、南にプレゼントして、そして今、南は僕の部屋にいる。それが、たった一日の間に起こった出来事なんだ。そんな急展開が現実にあるかって話だ。何か……意図されたモノじゃないのか、そんな疑念が僅かに生まれてしまうほどに。

 こういうのをもしかしたら――。

 僕の手に暖かく、柔らかい感触。今日だけで何度も知った南の手。吸い寄せられるように、僕は南を見た。すると、南も熱の籠もった視線を僕に向けていた。近くで見ると、人形のように整った顔だった。僕のものとは違う、プルンとした小さく艶やかなピンクの唇。それが誘うように濡れそぼった口内を覗かせる。


「これってさ……運命って思ってもいいのかな?」

「…………」


 僕は魅入られる。身体は金縛りにあったかのように動かない。そんな僕に南はゆっくりとした動きで近づいてきた。それが何をしようとしている動きなのか、僕に分からないはずがなかった。自覚すると、脳裏に一瞬だけ藍那の姿が浮かぶ。しかし、それを見越したように僕の手が南によって強く握られると、直ぐさま霧散した。そんな自分自身に、僅かな嫌悪感を抱く。だけど、僕に南を押しのけることなんて、できるはずもない。端的に言えば、僕は嫌じゃなかったのだ。それどころか、もっと南の事を知りたいとすら思った。野獣のような本性を晒してしまえば、もう迷うことなんてない。そんな最低な考えが頭を過ぎった。迷う僕に、南はうっすらと笑って目を瞑った。引くことも進むこともできずに、僕はひたすら流される。互いの吐息が微かに触れ合う距離。もう一秒もあれば、繋がれた所で――。


「ただいまー」


 階下から聞こえた母さんの声に、僕らは慌ててバッと飛び退いた。


「由宇ー? 帰ってるの? 南さんはもう来てるのー?」


 続けて母さんはそう言った。僕は小さく溜息を吐くと、苦笑を浮かべながら返事をする。


「いるよー!」


 すると、


「ケーキ買ってきたから下りてきなさい」


 どこか、うきうきとした母さんの声。これは南を早く紹介しろという要求だと僕はすぐに気づいた。僕は同じく苦笑を浮かべている南の方を見た。そして、微妙な空気を誤魔化すために、外国人のような大業なジェスチャーを交えて言う。


「ケーキはお好き?」


 南は、


「うん、大好き」


 そう今日一番の笑顔で答えた。

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