第7話 変化

「む、村井先輩……き、今日は誘ってくださって……、あ、ありがとうございますっ」


 千夏先輩との話を終えた僕はロッカーにラケットを片づけてから教室を出た。千夏先輩と話している内に、クラスメイトや生徒達はすでに各々の放課後を過ごすために散り散りになっており、校内にはだべったりしている生徒は残っているものの、数としては多くはない。

 僕も部活がなくなった事で今後の予定がなくなり、まったりしながら家に帰ろうとしていた所である。ゆっくりと歩を進め、階段を降りるために廊下の角にやってきた所で、僕は聞き覚えのある声に足を縫い止められた。


「そ、その……あ、あのっ……わ、私、とても嬉しくて……」


 だけど、その声は僕がいつも聞いているものよりも遙かに緊張して震えていた。一体藍那がどんな顔をして喋っているのか、チラリと覗く事にさえ恐怖心を覚えるほどに。


「お、おう……てかめっちゃ緊張してるな。こっちまで堅くなるわ」


 村井先輩の声も聞こえてきて、藍那の緊張を解すように、冗談めかして軽く言う。


「ご、ごめんなさいっ」

「いや、いいけどさ。相馬のそういう姿も新鮮だしな」


 村井先輩が知っている藍那は、周囲の期待に応えようとして、心に頑強な鎧を着込んでいる藍那だ。村井先輩の声には少しの驚きと、そしてどことない照れが混じっていた。


「今日は本当に由宇の奴はなしでいいのか?」

「は、はい!」


 僕の名前が出てきて、ドキリとする。藍那の肯定に、何故か息苦しくなった。


「本当に?」


 村井先輩の声には逡巡が混じっていた。何かを迷っている。それを藍那も敏感に察したのか、心細そうになる。


「村井先輩は私と二人じゃ嫌ですか?」

「い、いや……そうじゃないけどさ」


 それでも村井先輩の言葉は歯切れが悪い。


「…………」

「…………」


 少しの沈黙。


「……っ」


 しかし、それを打ち破るように藍那が息を吸い込んだ。そして――。


「お、おい!」


 村井先輩が困惑したような声を上げる。


「嫌……ですか?」

「嫌……じゃないけど……」


 何をしているのか、僕には覗く事ができない。僕は胸を抑えて、暴れそうにいる心臓と呼吸を必死で抑えた。


「もし嫌だったら……振り払ってください」


 それでも、どうなっているか、なんとなくでも分かってしまう。


「あー、もう! 分かった! 分かったからちょっと離せ! ほら、行くぞ!」

「は、はい!」


 藍那がどんな顔を浮かべているか、見なくても分かる。あの、僕が藍那に一度もさせたことのない幸せそうな表情を浮かべているに違いなかった。

 ――いい! やめろ!

 心はそう叫んでいる。だけど、僕の身体は二人の姿を視界に納めようと、廊下の角から身を乗り出そうとしていた。

 ――もういいって!

 見たくなかった。でも、見ずにはいられなかった。心が折れるかもしれない、その確信があるのに、身体は僕の意識を離れて動く。

 ――見たくないんだ!

 いいや、見たい。見なければならない。全部僕の仕組んだことだ。村井先輩に藍那を紹介したのも、今日、二人が会っているのも、全部僕のやったことだ。

 自分が不器用な自覚はあった。時間が経つごとに、どんどんとそれは悪化していた。ここで二人の姿をみてケジメをつかたかった。折れてもいい。また繋ぎ合わせればいいんだ。見て見ぬふりなんてできない。僕には他の生き方なんてできない。


「っ」


 僕は身を乗り出し、二人の後ろ姿を心に刻みつけようとして――!


「だーれだ?」


 できなかった。後ろから、目を塞がれている。

 その声は、


「……南?」

「うん、正解」


 南瑠璃子のものだった。











「……はぁ」


 僕は廊下の壁にもたれ掛かるようにして、脱力した。


「大丈夫?」


 可愛らしく首を傾げながら、南は言う。その姿に、僕はもう一度溜息を吐いた。


「なによ、人の顔見て溜息吐くなんて」


 南は不満そうに頬を膨らませる。僕は苦笑を浮かべてフォローする。


「ごめんごめん。別に南の顔見て溜息ついた訳じゃないよ」

「本当かな?」

「ホントホント」

「ふーん」


 南はじっと僕の顔を見る。しばらくそうして、唐突に笑顔を僕に見せた。


「ね、今から用事ある?」

「これから? ……ないけど」


 用事は全部なくなった。かといって、今は遊びに行く余裕はないんだけど……。


「じゃあ、これから私とデートしない?」

「デ、デートって……」


 真っ正面から見つめてくる南の視線から逃れるように、僕は視線を逸らした。デートという単語が恥ずかしかったのもあるし、お昼休みのやりとりを僕は思い出した。


「嫌かな?」

「嫌って訳じゃないけど……」


 南の積極性に僕は押されてばかりだ。ここまでされれば、南が僕に好意を寄せてくれているのではないかと、なんとなく察しが付く。かといって、南に「僕の事好きなの?」なんて勘違い男のような台詞を言えるはずもない。

 だが、藍那と村井先輩のやりとりを見て傷ついていたらしい僕に、南の存在は有り難かった。


「ほーら!」


 言いながら、南は僕の手を握る。


「お、おい!」


 ヒンヤリとした手。だけど、男の僕とは比べものにならないくらいに柔らかく、スベスベとしている。

 慌てる僕に、南は悪戯っ子のように舌を出す。


「嫌だったら離してもいいんだよ?」

「い、嫌って訳じゃ……」


 嫌じゃない。だけど、遅すぎる藍那への気持ちをようやく自覚した僕には、南への申し訳なさがあった。そんなつもりはないけど、南を藍那の代わりのようにしてしまわないか、僕には確固たる自信はない。自信をつけるその機会はもう失われてしまった。


「ほら! 行こう?」


 そんな僕の躊躇など、どこ吹く風と行った感じで南は僕の手を引く。


「う、うううっ!」


 だけど、南がいくら引っ張った所で、僕の身体はびくともしない。必死な様子の南に、僕は思わず笑いが込み上げる。


「は、ははははっ」


 笑う僕を南は恨みがましそうに睨む。

 なんだか、うじうじ悩むのが馬鹿らしくなったよ。ありがとう南。


「しょうがない。行こうか」


 壁を蹴って、僕は立ち上がる。ひょうしに南が二、三歩たたらを踏んだので、僕の方へと引っ張った。


「きゃっ」


 力を入れすぎたのか、南の身体が僕の胸にすっぽりと埋まる。


「っ!」

「ごめん!」


 ばっと慌てて離れると、南が前髪を直しながら、上目遣いで僕を見た。そして、ほんのわずかに聞こえるぐらいの声量で呟く。


「…………嫌じゃないよ」

「そ、そうか」


 恥ずかしかった。でも、その間もずっと手は繋いだままだった。


「い、行こうか」


 僕は改めて言う。


「うん」


 南が頷くのを確認して、僕は南の手を引いて歩き出す。

 我ながら、ちょろいなーとか自己嫌悪に陥ったり、似たようなシチュエーションが続いた現実に対して、あるえるはずのない偶然に見当違いな関心をを示したりした……。

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