第6話 不穏
「……はぁー」
目を開けて、僕は伸びをする。
不思議な夢を見た。夢を見ているのに、それを僕が夢だと自覚することができていた。いわゆる、あれが明晰夢というやつなんだろうか。
僅かに目尻に浮かんでいた涙を拭って、僕は教室の時計を見た。
「ああ、ちょうど放課後か……」
時計は午後四時二十分を指している。ちょうど七限目の授業が終わった頃だ。午後の授業が始まるまで少しだけ寝ようと思っていたけど、そのまま熟睡してしまい、誰も起こしてくれなかったみたいだ。自分がボッチなのを僕は一人痛感した。
「それにしても、先生くらい起こしてくれてもいいのに……」
恨み言を呟きながら、僕は時間割を確認する。六限目と七限目は世界史と現代文だ。学校で一番の適当教師と、一番の真面目教師の授業だった。恐らく、適当教師は気づいても放置。真面目教師には見捨てられたのだろう。完全に僕の自業自得だけどね。
「はーい、ホームルーム始めますよー」
僕がボーとしていると、教室に小柄な女性教師が入ってくる。似合わない無地のスーツとタイトスカートを着用した、一見学生にも見える程に童顔な彼女は、他でもない僕のクラス担任だ。肩甲骨の辺りまでのミデアムヘアーを揺らし、彼女――蘇芳先生は笑顔を振りまきながら、僕達生徒に着席を促す。両手で持った手提げ袋を重そうに床に下ろすと、蘇芳先生はふぅと軽く溜息をついた。
「もう、蘇芳ちゃん遅いって!」「蘇芳ちゃん! 待ってたよ!」「早く帰ろうよー。蘇芳ちゃんー」
しかし、生徒達は素直に着席こそするものの、蘇芳先生相手にとても気軽に次々と声をかけ、囃し立てる。当然、蘇芳先生もいい気はしないようで、
「ちょっと! 蘇芳せ・ん・せ・い! 何度言えば分かるのよー!」
先生の部分を強調して、蘇芳先生は生徒達を注意する。しかし、生徒達から返ってくる返答は蘇芳先生が期待していたものとはほど遠い。
「「「蘇芳ちゃん可愛いっ!」」」」
そんな馬鹿にしているとも取れるものだった。もちろん、生徒達には悪気がある訳ではない。大学を卒業してからそれほど間がなく、学校で最も年齢の近い蘇芳先生の事を大方の生徒達、クラスメイト達は好いている。この蘇芳先生への対応も、一種の愛情表現のようなものなのだが、受け取り方は人それぞれ。蘇芳先生は馬鹿にされている、若しくは嘗められていると感じてしまっているようだった。
まぁ、無理もないけどね。
生徒達の反応は、完全に同年代の友人に対するものだ。嘗められていると言えば、否定することはできない。ただ、蘇芳先生も蘇芳先生で、もっと柔軟に対応できればいいのになとも僕は思うのだ。
「はい! 静かに! 皆も早く帰りたいでしょう?」
蘇芳先生が教卓を軽く叩きながらそう言うと、教室内はようやく静かになる。早く帰りたいのは誰でも同じ。それを見計らって、蘇芳先生は口を開いた。
「まず先生の方からお知らせです。来週からゴールデンウィークに入りますが、ゴールデンウィーク開けには実力テストが行われます」
えー、と教室中からブーイングが上がる。
「大丈夫。心配しないで、内容は一年生時のものだし、きちんと勉強すれば皆良い点がとれるわよ」
蘇芳先生がニッコリと微笑む。床に置いてあった手提げ袋を教卓の上まで四苦八苦しながら持ち上げ、その中からけっこうな厚さがあると思われる問題集を取り出した。僕だけでなく、教室中が嫌な雰囲気に包まれる。
「蘇芳ちゃん……それは?」
お調子者としてクラスで人気のある武田が生唾を飲み込みながら問う。蘇芳先生は笑顔を崩さないまま言った。
「ゴールデンウィーク中の宿題です! 必修科目は全部出てるから、これさえやっておけばテストも余裕よ!」
ガッツポーズをつくりながら、蘇芳先生が宣言する。その瞬間――。
「「「えええええええええええええっ!!??」」」
教室内に怒声が吹き荒れた。さっきの倍以上のブーイング。僕も例に漏れず、がっくりと肩を落としていた。
せっかくゴールデンウィークはのんびんりしようと思ってたのに……勉強が大事なのは分かるけどさぁ……。
なんとなく、納得できない。一応進学校だから仕方のない一面はあるのは分かっているけど、それでもね!
「蘇芳ちゃん! 私、家族と旅行行くんですけど!」
女子生徒の一人、鈴木さんが抗議の声をあげる。前の席から配られてきた問題集は必修科目すべてで、どれも三十ページはあった。夏休みの宿題並の本気度である。とても旅行と平行してできる量ではないし、そもそも旅行中に宿題などしたくもないだろう。
「そうなの……」
蘇芳先生は悲しげに目を伏せる。しかし、それも一瞬の事であり、すぐに元の明るい表情に戻った。
「でも大丈夫よ! どうしてゴールデンウィーク一週間前に配ったか分かる? ゴールデンウィークをどうしても楽しみたいって人のためなのよ! そう、ゴールデンウィークまでに終わらしてしまえばいいの!」
まるで素晴らしいアイディアだとでも言いたげに、蘇芳先生はうんうんと頷く。
先生……それができないから文句言ってるんだと思います……。
「はぁ……」
まだ言い合っている蘇芳先生と、武田&鈴木さんコンビを尻目に、僕は問題集から目をそらして息を吐く。学生は勉強が本分。正しいのは蘇芳先生の方だ。テストもあるし、それなりに頑張ってやるしかないかな。
掃除を終え、放課後になった。僕が所属している部活動であるテニス部に向かおうと、ロッカーに入れてあるラケットを手に持ち、教室を出ようとする。教室の後ろ側にあるドアを開けると、僕の目の前に見知った顔があった。
凜とした切れ長の瞳。艶やかな黒髪を長く伸ばし、身長は女子の平均くらい。だが、胸が大きくて、腰はキュッと括れているのが制服の上からでも見て取れる。全体的に華奢で細身なのだが、幼い頃から武術を習っている事情もあり、独特の雰囲気のようなものを持ち合わせている。
「あ、先輩」
テニス部の先輩でもある市川千夏先輩だった。テニス部は男女揃って部員不足で、現在では一つに統合されている。僕が一年の時に廃部寸前だったテニス部を守るために奔走したのが千夏先輩であり、僕もすごくお世話になっている人だ。
「ああ、良かった。教室にいたんだ」
千夏先輩が僕を見つけて露骨にホッとする。
「どうしたんですか?」
何かあったんだろうか? 部活が休みなんだとしたら、メールをくれればそれでいいはずだ。
「ああ……いや、別になにもないよ。ただ、今日は部活お休みになったから」
首をかしげる僕に、千夏先輩は口を濁し、どう考えても嘘と分かる言葉を口にする。
「そうなん……ですか?」
かといって、嘘だと分かったからと、どうする事もできない。数年前の威勢だけだった僕は、時間の経過と共に威勢の良さすらも失いつつあった。
「何か心配させたみたいでごめん。 大丈夫だから、私がなんとかするから……」
「先輩そればっかり。僕も男なんですから頼ってくれてもいいんですよ?」
「ん、その時はお願い」
先輩は笑う。明らかに無理している笑顔だった。そもそも先輩の口癖である 「私がなんとかするから」は、火急な事態が起こっている証明みたいなものだ。廃部騒ぎの時も、繰り返し口にしていた。気になるのは、その時は明るい調子だったのに、今ではどこか暗く沈んでいる様子だという事。
「本当に大丈夫なんですか?」
僕は千夏先輩の目を見る。千夏先輩には本当にお世話になってきた。だから、できる限り力になりたい。
「うん」
千夏先輩は僕の目を見て、しっかりと頷いた。
「そうですか、なんかすみません」
「ううん、心配してくれてありがと」
そう言いながら、今度浮かべた笑顔は、いつもの先輩の笑顔だった。
「じゃあ、私急がないといけないから」
「はい、お気をつけて」
安心した僕は、先輩の後ろ姿を見送った。もしかして、身内に不幸でもあったんだろうか、などと邪推しつつ、先輩なら乗り越えられるし、誰にも知られたくない事の一つや二つあるなんてその時の僕は考えていた。
僕が……恩人と慕う千夏先輩の事を何も理解してあげれてないと気づくまでは……。
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