第5話 明晰夢

 午後の授業中、僕は夢の世界に旅立っていた。地獄が認知されて以来、学生ができる最大の悪行が居眠りだ。物語の中で見る不良と呼ばれる存在はもうほとんど存在しない。誰もが人の目で見れる範囲では善良な人間。もちろん、極少数に地獄の存在など意にも介さない逸脱者は存在する。僕はそんな恐るべき逸脱者を知っていた。



 三年くらい前だろうか。中学時代。いつもの学校の帰り道。僕は刃物を持った男に遭遇していた。いや、正確には、刃物を小柄な女の子に向ける暴漢の犯行現場に偶然にも遭遇してしまったのだ。

 川のせせらぎが聞こえる河川敷。放課後の夕闇に包まれた世界。不気味な程静かで、カエルの鳴き声が二、三度聞こえていた。足を踏み出すほどに砂利のこすれる音が嫌に響く。僕は声を殺して、様子を物陰から伺っていた。


「…………」

「まったく、何だよお前……その目は……」


 驚くべきことに、刃物を向けられた女の子は、僅かも暴漢を恐れるような態度を表に出すことはなかった。小柄な体躯と顔を覆うような長い髪の隙間から覗く視線は、逆に暴漢の動きを止めるほどに鋭い。


「まぁいい。おら、こっちこい!」


 しかし、暴漢もここまで来て引くことなどできるはずもない。まだ直接的な被害は出してはいないものの、他人にナイフを向ける行為はもちろん犯罪行為であり、地獄の基準においても、限りなく黒に近いグレーゾーンだ。このまま大人しく帰った所で、死後の平穏はわずかも保証されはしない。そもそも、後になって聞いた話によると、暴漢の男――以後Aとする――は初犯ではなかったらしい。過去に一度、警察のお世話になっており、更正施設を出ていたというのだ。とにかく、Aには何も失うものはなかった。


「…………」


 僕は何もできずに震え上がっていた。死後の罰が約束された世界では、失うもののない人間ほど恐ろしいものはない。人はすべての行動を『正しい』か『正しくない』かを過去の例に基づいて考えながら生きている。正当防衛すら地獄ではただの殺人として処理されるのだ。助けようと勇んで出て行き、返り討ちに遭うのも最悪だし、女の子を助けられたとしても今度は自分自身が地獄落ちの危機に陥る可能性が大いにある。世間で推奨されているこんな状況の『正解』は見なかったことにして逃げる。逃げた後に警察に通報する。


「……でもっ」


 僕もそのおぞましい『正解』を知っていた。理解してもいた。だが、僕の足はその場を一歩も動こうとはしなかった。 


「来いっ!」

「…………」


 そうこうしている間に、Aは女の子の腕を掴んで連れて行こうとする。女の子は相変わらず鋭い視線でAを睨み付けるものの、それ以外の抵抗を見せずに歩きだした。


「へへっ……それでいいんだよ。それでな」


 男は下卑た笑いを浮かべながら、満足そうに歩き出す。僕を焦りながら、周囲を伺った。下校時刻という事もあり、普段ならばそれなりに人通りのある場所のはずだった。しかし、その日に限って人っ子一人見当たらない。


「なんでっ!?」


 絶望的な間の悪さ。女の子を助けられるのは僕しかいない。そう――――僕しかいない。このままでは女の子には悲痛な未来が待っている。当時中学生のまだまだ子供の僕だけど、女の子がどういう目に遭うかぐらいは想像できる。僕の脳裏には打算が渦巻いていた。


 ――果たして、女の子を見捨てた僕は天国に行けるのかどうか。


 故意ではなくとも、地獄行きには何の関係もないのは歴史が実証済みだ。ならば、人を見捨てるという行為はどうなのだろう。過去に、人を見捨てたことを公言して、かつ地獄行きを免れた人間が存在しない限り、僕の安心は保証されることはない。しかし、現代社会でわざわざ人を見捨てたなどと公言する人間がいるとは思えず、この仮定は成立しない。つまり――社会の『正解』がそのまま僕の将来の安息に繋がる訳ではないということだ。ではなんのための『正解』かという話にもなるが、それは心身の保存だろう。そもそも、『正解』は存在せず、しかし見捨てる罪悪感を拭い去りたい。そういった状況においての安全弁。皆がそうするから大丈夫という日本的な価値観に基づいているのかもしれない。まぁ、そんなどうでもいい覚え立ての知識を並べて、こんな緊急時に僕が考えていた理由はただ一つしかない。 

 結論なんて初めから出ていた。

 僕は女の子を助けたいんだ。でも、大きなリスクがあるから、僕は自分を納得させるために理由付けをしていたに過ぎない。


「よし!」


 声を出すと、身体が軽くなった気がした。


「ま、待て!」


 勢いのまま、Aと少女の背後に飛び出す。すると、二人は同時に振り返った。


「…………」

「あん?」


 少女は僅かに目を見開き、男は表情を剣呑に歪める。


「なんだ? ……お前は」


 Aは犯行現場を目撃されたというのに、まったく焦る様子を見せなかった。僕が子供というのもあるが、すでに最低最悪の覚悟を決めてしまっているらしい。


「そ、その子を……は、離せ!」


 応対する僕の声は誰が聞いても分かるくらい明確に震えていた。全身からダラッと粘ついた冷や汗が流れ出し、緊張で平衡感覚が失われていく。どうして僕がこんな事をしなければならないのか、理不尽に対する怒りと後悔、少女を守らなければという正義感が交錯する。


「なんだ、こいつ知り合いか?」


 Aが少女に問いかける。少女はやはり無言で首を横に振った。


「じゃあこいつはこのご時世に……知らない奴を助けようとしてるってのか……」


 Aが呆れたように言うと、ガシガシと乱暴に頭を掻きむしる。掻きむしって――。


「は、はははっ……ははははははははっ! なんだそりゃ! 餓鬼のくせにすげぇ勇気あるじゃねぇか!」


 膝を叩きながらAは笑い出す。相変わらず目撃者の存在など意に介す様子もない豪快な笑い。


「……なっ」


 僕にはAが理解できなかった。どうして笑うのか、どうして楽しそうなのか、ほんの少しも分からない。分かるのはただ一つ。男の目が爛々と輝きを増したこと。何か、探していたものを見つけたとでもいいたげに、男は歓喜と共に僕を見た。


「まさかこの糞つまんねぇ世の中にまだお前みたいな奴がいるとはな……」


 僕を歓迎するような言い様に、僕は反射的に言葉を返す。


「つ、つまらないのはお前だ! その子を離せ!」


 後になって考えれば、言い返す必要などなかった。ただ、僕は男の言葉に生理的な嫌悪感を覚え、気づくと口を開いていた。


「つまんないのは俺か……まぁ、間違っちゃいねぇわな」


 Aは激高するかと思いきや、以外にも自嘲するように口元を尖らせる。


「表向きだけだとしても、平和になって喜んでる人間の方が多いのは知ってる。元々、日本にはそうなる下地はあったしな」


 僕にも、今なら分かる。地獄の存在の認知によって世界は宗教的な大混乱に一時期陥った。仏教、キリスト教、イスラム教、北欧神話。地獄やそれに類する世界観は多くの宗教に存在するが、それを強引に擦り合わせるような事象が簡単にまとまるはずもない。世界には今でも地獄の実在を見せつけられつつも頑として認めようとしない国が多々ある。その中でも、容易とはいかないまでも、最終的にはあるがまま地獄を受け入れた日本という国は希少だ。

 でも、当時の僕には男が何を言っているのかが、ほとんど理解することができなかった。まぁ、何故Aがこの状況でそんな事を言い出したかは、今になっても分からじまいだけど。


「訳の分からないことを言うな! 女の子を離せ!」


 僕には繰り返しそう言うことしかできない。Aは威勢だけはいい僕を眺めて、楽しそうに目を細めた。


「ほぅ? 離さなかったらどうなるんだ?」


 Aが少女の手を掴み、高く掲げる。そのまま軽く捻りあげると、少女が僅かに苦悶の表情を浮かべた。


「や、やめろ!」

「口先だけかぁ?」


 Aの言うとおりだった。僕は口だけは威勢がよくて、何ら行動を起こすことができないでいた。僕が生まれた瞬間から世界は機械的な安穏に満ちており、記憶にある限りでは暴力など振るったこともない。むしろ、暴力を振るったり、罪を犯す事に異常なまでの恐怖心が心の奥底まで根付いている。


「っ!」


 何もできない。そんな僕を哀れむようにAは笑った。


「ははははっ! そうだろ! 何もできないだろ!? 目の前で無力な女の子が襲われてるっていうのに見ているだけ! それで平和とかぬかすんだから本当に笑えるぜ!」


 Aは腹を抱えて、息が切れてむせるまで笑った。笑い尽くしてAは僕に言う。


「お前はまだ普通の人間になれる。俺と一緒に来ないか?」


 Aは楽しそうに、気軽に、友人に語らうように僕を誘う。


「は?」


 その瞬間、僕を脳裏を埋め尽くしたのは疑問の嵐。そして怒り。


「ぼ、僕をお前と一緒にするな!」


 口をついて出たのは、またしても威勢だけの言葉だった。僕は情けなくて涙が出そうになった。しかし、Aは僕の言葉にまた違った『何か』を受け取ったようで――。


「ほらよ!」


 満足そうにニカッと笑うと、手に持っていたナイフを僕に投げつけてくる。


「ひっ! わ、わっ!」


 慌てて僕がナイフを避けると、その避けた先で全身に大きな衝撃が加わる。


「ぐふっ!」


 想像よりも遙かに柔らかな重み。バニラを思わせるような瑞々しい香気が鼻腔を埋め尽くした。


「な、何?」


 そのぶつかってきた正体を確かめようと顔を上げ、押し返すと、両手にフニャンとしたとてつもなく柔らかい感触。そして、視線の先には驚くほど整った少女の顔があった。


「え? あ?」


 混乱する。そのひょうしに、両手に力が入ってしまい、握りしめるようにしていたソレを潰してしまう。マシュマロのように弾力があって、どこまでも指先が沈んでしまいそうなソレの正体は――。


「~~~~~っ!?」


 胸だった。同年代くらいの女の子。それもけっこう大きかった。


「んっ」


 顔の大半を髪で覆われた少女が頬を赤らめ、自分の髪を少し食みながら色っぽい吐息を零した。


「ご、ごめん! ごめんね!」


 僕も燃えるように体温を上げ、真っ赤になりながら慌てて少女の胸から手をどける。同時に少女を横にどかした。


「ご、ごめん……」


 少し距離をとって、もう一度謝る。胸の鼓動がうるさいくらいに頭の中で響いていた。思春期真っ只中であり、そういう事に当然興味もあった。でも、当時にそういう事に対する恐怖心にも似た抵抗もあった。


「あの……大丈夫?」


 とにかく今は落ち着いて、女の子をどうにかするのが先決と判断した僕は、なる

べく優しく声をかける。


「警察とか呼んだ方がいいよね?」


 警察が元の体を成さなくなってから久しいとはいえ、犯罪者や被害者の更正、扶助施設としての設備は整っている。

 しかし、少女は無言で首を横に振るばかり。


「えっと……」


 そうなると、僕にはもうできる事はない。少女の隣で立ち尽くす僕は、とてつもなく重要な事を思い出す。


「そうだ! あの男!?」


 女の子を取り戻せたことで気を抜いてしまっていた。Aを野放しにしておくことは、第二第三の被害者が出ることに繋がるかもしれない。僕が必死に周囲を伺うも、すでのAの姿はどこにも見当たらなかった。ただ、


「これは……」


 さっきまでAが立っていた場所には、一枚のメモ用紙が残されている。そこには、予想外に達筆な文字で、こう書かれていた。


『これから大変だと思うけど頑張れよ』


 一体何を頑張ればいいのか、僕は検討もつかなかった。何よりも、あんな卑劣な犯罪者に応援されるというだけで、なんだか嫌なモヤモヤが募る。


「……なんなんだよ、もう」


 訳の分からないことばかりだ。でも……女の子を助けられたんだからいいかな。最初の目的は達成した。少なくとも、そのことに対する達成感のようなものを感じることができた。


「ん?」


 一人で満足する僕の袖がクイクイと引かれる。見てみると、助けた女の子だった。


「どうしたの?」


 問いかける。しばらく女の子の反応を待った。


「…………ぅ」

「えっ?」


 聞き取れない。だけど、女の子が何か言おうとしている事は分かった。僕はじっと耳を澄ます。


「……とぅ」

「…………」

「あ……とぅ」

「…………」

「……ありがとう……」


 何度目かで、女の子の言葉がしっかりと耳に届いた。顔を髪で隠した女の子は、たぶん今も無表情だろうけど、そんなことはどうでも良かった。いろいろと戸惑ったり、イライラしたりもしたけど、女の子の『ありがとう』の一言で全部報われた気がした。


「いいよ。君が無事で良かった」


 僅かに自分が誇らしくなりながら、そう言った。だけど、すぐに恥ずかしくもなる。藍那以外の女の子に接する機会なんてほとんどないし、何よりも僕は威勢の良いことを捲し立てていただけだ。思い返してみれば、Aに翻弄されるばかりで、格好の良い所なんて一つもなかったじゃないか。まぁそれでも、僕は顔を赤らめながら――。


「うん。無事で良かった」

 

 笑った。格好悪くてもいい。女の子が無事だったことがすべてだ。


「ありがとう」

 すると、女の子はもう一度そう言った。今度は一度で、聞こえた。髪の合間から覗く女の子の強い視線が僕を射貫く。


「忘れないよ」


 最後にそう言い残し、女の子は突然僕に背を向けてダァッと走り去る。


「あ! ちょっと!」


 あまりに突然のことで、呆気にとられた僕はすぐには動けなかった。女の子の動きも予想以上に速くて、僕は追いかけようとしたけど、角を曲がった所で振り切られてしまった。


「……大丈夫かな」


 不安だった。Aはまだすぐ近くにいるかもしれないんだ。


「仕方ない。僕だけでも警察に行こう」


 警察に伝えておくだけでも、価値はあるだろう。僕はそう思い、今日あったことを伝えるために警察署の方へと向かうのだった。

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