第3話 幼馴染みの女の子
朝食を綺麗に平らげた僕はゆっくりとシャワーを浴び、コーヒーを飲みながら学校へ行く時間を待った。こんなにゆったりと過ごした朝は久々で、いざ学校へ行く時間になってから眠気が襲ってたのには困った。だけど、学校をサボってもう一度眠る訳にもいかず、僕はネクタイを締め、ブレザーを羽織ると玄関に向かう。
「じゃあ行ってくるよ」
玄関からリビングに向かって声をかけると、バタバタと足音をさせながら母さんがやってくる。
「もう、一言かけてくれればいいのに」
「今かけたでしょ」
「もっと前よ!」
母さんは年甲斐もなく頬を膨らませる。その様子に僕は呆れながらも、軽く笑いながら言った。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
笑顔で母さんに見送られる。玄関から出て、ドアが閉まる直前、家の奥から父さんの声が聞こえた。
「気をつけてなー」
僕はクスリと笑ってネクタイを締め直す。
じゃあ、今日も頑張りますかね!
五月。春の暖かい空気は最高に心地が良い。地面のコンクリートの上には、大分前に散った桜の残りが転々としている。そんな陽気の中、家を出てしばらくすると、橙色の壁の大きな邸宅が見える。この辺りはそれなりに知られた高級住宅街ではあるが、その家はその中でも一際大きい。敷地面積は百五十平方メートル程で、三階建てに加えて地下もあり、二十坪以上の庭つきだ。
僕の家も大概広いけど、やっぱりここと比べると狭く見えるなーなどと思いつつ歩いていると、件の家の玄関前に人影があった。
「やっ」
右手を軽く振りながら挨拶してくる少女を僕はよく知っている。豪邸のお嬢様であらせられる相馬藍那だ。色素の薄い髪と瞳に、目鼻立ちのハッキリとした相貌。方々から清純そうと言われる要因となっている立ち居振る舞いの上品さ。どれをとっても、お嬢様、深窓の令嬢と呼ばれるのに違和感のない少女である。幸運なことに、両親の繋がりやご近所さんということもあり、僕とは生まれた時からの付き合いがある。
「今日は時間通りだね」
「いつも時間通りだろ」
「えー? いつもはもっとギリギリでしょ?」
今は二人っきりということもあって軽く言葉を交わしているけど、学校にいくとこうはいかない。藍那はその容姿からすごくモテるし、生徒副会長という職についていることもあって、学校ではあまり表情を崩すことが少ない。ただ、藍那が進んでそうしたいという訳ではなく、外交官という責任ある仕事をしている父を持つ藍那を周囲が勝手に色眼鏡で見て、勝手に藍那本人にも期待しているのだ。藍那自身も周囲の期待に応えたいと思っているらしく、学校ではあまりリラックスすることができずにいるみたいだ。
だから、こうして素の表情を見せてくれる朝の時間は、僕にとってすごく貴重な時間だった。
「今日はかなり早く目が覚めちゃってさ」
悪夢の事は伏せておく。余計な心配をかけるのは避けたい。
「ほー、珍しいこともあるもんだね」
「それだといつも僕が寝坊してるみたいじゃないか」
「実際そうでしょ? 由宇はギリギリまで寝るタイプじゃんか。男の子は楽でいいですねー」
「ははは、なんだよそれ」
素の藍那はけっこう剽軽というか、サバサバしている。そんな藍那でも、やっぱり女の子らしく朝の準備には時間をかけるのかと思うと、なんだか少しだけ面白かった。
「笑わないでよー。女の子の朝は大変なんだぞー?」
ビシッと僕を指さしながら、藍那は女子高生としての苦労を語り始める。登校二時間前に起きて、シャワーを浴びて、髪をセットしてメイクして……だいたいこんな感じ。
まぁ、そうだよな……家ならともかく、外で藍那のだらしない姿なんて僕は見たことないし。だからこそ、お嬢様キャラとして浸透しているんだろう。それが良いことか悪いことかは置いておいて。
「でも確かに女子ですっごい不潔! って感じの子はほとんどいないよな」
男子ならそれなりにいる。僕は断じて違うけど!
「まぁね。そんな子いたらすぐにハブられちゃうし」
「ああ、そっか」
男子ならある程度イジられる……というか、直接言うことができるけど、女子だとそうはいかないのかもしれない。
「女子ってはみ出した子が何よりも嫌いだかんね。皆一緒が大好きなのさっ」
「それはそれは、大変そうだ」
少なくとも、僕にはやっていけそうにない。でも、昔よりも遙かにましだろう。だって――。
「でもさ、実際にはもうハブとかないよな」
「うん、ないね」
藍那がキッパリ言い切る。そういうのは物語の中だけのお話。皆仲良くが当たり前が今の世界。……少なくとも、表面上はね。
「それでもビシッと清潔に?」
「当たり前。乙女ですから」
やっぱり僕は女として生きるのは絶対無理だ。
「ところでさ――――」
話題は変わり、藍那が切り出す。恐らくは、これが一番藍那が聞きたかったことで、ずっと機会を伺っていたのだろう。白磁の肌が僅かに赤みを宿している。
「村井先輩……なんて言ってた?」
「はぁ……」
複雑だ。実に複雑な気分だった。授業中、僕は頭を抱えていた。
「好きな人……か」
藍那に好きな人ができたと初めて聞いた時、僕の時間は止まっていたように思う。
「え、好きな人ができた?」
数年ぶりに僕の家へ遊びに来た藍那は、開口一番にそんな事を言った。
「……うん」
恥ずかしそうに俯き、顔を林檎のように真っ赤にした藍那の表情は、長年一緒にいた僕にとっても初めてみるものだった。
「へ、へぇ……だ、誰?」
声の震えを悟られぬように、必死で声を抑えて僕は問うた。
「由宇も知ってる人……その、村井先輩……」
「村井先輩……」
村井先輩って……あの村井先輩だよな? というよりも、僕の知っている村井先輩は一人しかいない。
村井先輩――村井裕也と言えば、僕達の一年先輩で、同じ中学にもいた人だ。成績優秀、眉目秀麗。完璧超人を体現したような人であり、少しばかり強引な性格ながら、リーダーシップというか人を引きつける不思議な魅力も持っている。ある意味で、藍那が好きになるのも当然といえた。すごくお似合いのカップルになりそうである。……僕の心情を無視すれば。
「由宇は村井先輩と仲良かったよね?」
「まぁ……悪くはないかな」
中学時代に体育祭実行委員に無理矢理任命された時に知り合い、いろいろと村井先輩にはよくしてもらった覚えがある。今でも、廊下なんかですれ違うと言葉を交わすこともよくあった。
「じゃ、じゃあ私の事も紹介してもらえないかな!?」
「お、おいおい!」
藍那が僕にのし掛かるようにして迫ってくる。いつの間にか豊満に実った胸が僅かに僕の胸の上で潰れている。一応男の部屋に来ているというのに、相変わらず危機感のないやつだ。僕が男として見られていないとかは気にしないようにしておく。
「お、お願い! こんな事由宇しか頼れる人いないんだよっ!」
僕としても頼られても困る。あー、だけど!
「由宇……」
藍那が潤んだ瞳で僕を見ている。距離の近さに、藍那の柑橘系に似た甘い体臭が香る。普段見せない藍那の女らしさに、僕が屈服するのは時間の問題だった。
「分かったよ……協力する」
僕は渋々頷く。
「ありがとう、由宇っ!」
その時藍那が見せた笑顔は、僕がここ数年見た中でも一際輝いていて、藍那が本当に村井先輩の事が好きなんだという何よりの証拠だった。
そんなこんながあって、僕は藍那を村井先輩に紹介した。村井先輩も藍那を気に入ったようで、僕を通じて何度か実際に会い、言葉を交わした。
そして、今日、とうとう藍那と村井先輩は二人っきりで会うことになっている。
『村井先輩……なんて言ってた?』
『藍那がいいなら、是非二人っきりで会いたいってさ』
『本当に!? わぁ、嬉しいっ!』
『良かったな……藍那』
『うんっ! これも全部由宇のおかげだよっ!』
「はぁ……」
僕は深々と溜息を吐く。現実問題、どうなんだろう。
「僕って藍那が好きだったのかな……」
分からない。一緒にいる事が当たり前すぎて、好きであることが当たり前すぎて、藍那への感情が恋と呼ばれるものかがよく分からなかった。分かるのはただ一つ。藍那に好きな人がいることにショックを受けていることだ。
ただ、藍那をなんとしてでも自分の物にしたいとまでは思わない。藍那が幸せそうに笑っていられるのなら、それはそれでいいんじゃないかと思う僕もいる。
「どうしたの?」
「ん?」
悩める僕に、横合いから声がかけられる。
あれ、授業中じゃなかったっけ?
時計を見る。時計はいつの間にかお昼の休み時間を指していた。
「ありゃ、もうこんな時間か」
「何言ってるのよ。もしかして寝不足?」
「あー、そうかも」
睡眠時間は普段と比べれば明らかに足りていない。
「
「園田ってばいつも眠そうだよね」
「育ち盛りなもんでね」
眠くならない人間が羨ましいものだ。僕なんて基本的にいつも眠いし、時間があれば惰眠を貪りたいくらいなのに。でもまぁ、地獄解放初期の人達に比べたら大分マシだけどね。あの頃の人達は地獄行きが恐ろしくて居眠りすらできなかったらしいし。今では少しの居眠りなら問題ないって知られてるけど。
「てか、南はどうしたんだ? いつもは友達と学食だろ?」
椅子に座ったまま、スラッとしたスタイルのいい少女を見上げる。ここ最近――進級してクラスが変わって知り合った女の子。南瑠璃子。僕の一体どこが気に入ったのか、よく話しかけてきてくれる。肩にギリギリ髪がかかるぐらいのショートカットに百六十五センチ(推定)という女子としては高めの身長。表情はいつも柔らかくて、美人よりも可愛さ、だけどどちらかといえばボーイッシュ。そんな矛盾した魅力を持つ中性的な美少女。
「いや、そうなんだけどね……園田が寂しそうかなって……」
言いながら、南は周囲を伺う。教室には何人かのクラスメイトがいるものの、一人の人間はいない。いや、一人だけいた。他でもない僕だ。
「……もしかして同情されちゃってる?」
苦笑を浮かべながら僕が言うと、南は慌てて首を横に振る。
「ち、違う! 違うってば! あぁ、もう! 白状します! 私が園田とお昼食べたかったの!」
「え?」
あまりの直接的な言い分に、僕は戸惑った。言った後で南も後悔しているのか、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「…………」
涙目で南は僕を見下ろしていた。また、それだけでなく、周囲から視線を感じる。教室にいるのは僕達だけではないのだ。
「こっちきて!」
その視線から逃れるように、僕は南の手を掴むと、教室から出た。僕達が教室から出ると、教室内から冷やかすような口笛が吹かれた。
まったく……いつの時代なんだか。
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