第一章
第2話 地獄の在処
『地獄』――と聞いて一昔前の人は何を想像するのだろう。
――般若のように恐ろしく顔を歪めて、角を生やした鬼だろうか?
――それとも、臓物や血に塗れた凍えるような拷問器具だろうか?
僕が教えておげよう。その想像は正解だ。おめでとう。
事実、僕の目の前には、残念ながら想像とは僅かも乖離しない光景が広がっている。まさに悪夢。夢なら早く覚めて欲しい。
……そんな僕の願いとは裏腹に、鬼は僕をキッチリと視界に納めていた。子供の頃に、絵本で見たままの鬼の姿。だけど、理屈ではなく、あんなものは比べるまでもない恐ろしさ、畏怖で僕の足は震え、唇は意思を離れて痙攣する。
鬼は真っ赤だ。炎を纏っているかのように。虎柄のパンツを履き、角をはやしている。目眩がした。子供の頃は可愛らしい格好などと思っていた自分を殴ってやりたい。可愛さなんかどこにもないじゃないか。あるのはただひたすらに恐怖だけ。
そんな鬼が僕にゆっくりと手を伸ばす。僕は細身だが、それでも男だ。だというのに、僕なんか一捻りにされてしまいそうな程、筋骨隆々とした太い腕だった。
ああ……女の子ってこういう逞しい腕に抱かれたいのかな……。
そんな現実逃避じみた頭のおかしな事を考えられていたのも、この瞬間まで。
腕を伸ばす鬼がニッと笑うと、僕の理性ははじけ飛んだ。悪意に充ち満ちた、僕が一度たりとも目にしたことのない笑い。それは、僕のような世間知らずな餓鬼の心を粉砕する事など、赤子の手を捻るよりも簡単で、
「うあああああああああああああああっっ!」
叫んだ。恥も外聞もなく。力一杯に、心の底から。喉の奥が破けても良いと、本気で思った。もしこの悪夢から逃れられるのなら、僕はなんでもするだろう。世界が暗闇の飲まれていく。
このまま死ぬのか、僕がそう思った瞬間、ふいに世界が浮遊感に包まれた。
「はっ!?」
全身をばたつかせて、飛び起きた僕は、そこが柔らかな感触の上だとようやく気づく。
「え? ……は?」
自室のベットの上だった。ベットの上で、僕は汗まみれになり、息をぜぇぜぇ荒げていた。周囲を見渡してみる。
「…………」
漫画しか並べられていない本棚。物置と化している勉強机。男の部屋に似つかわしくない姉のお下がりのピンクのカーテン。間違いも疑いようもなく、僕の部屋だった。
「……はぁ……」
胸の底から、僕は息を吐き出す。心臓が爆音を鳴らして、眠気はどこかにすっ飛んでいっていた。全身を安堵が駆け抜けて、ようやく僕は脱力する。
「……夢……か」
そうだ。あれは夢だ。あんなのが現実に起こるはずがないじゃないか。鬼なんてものは所詮物語の中の登場人物でしかないんだ。あんな質量、質感を伴って、僕の人生に最大の恐怖を以て降臨するはずがない。
「は、ははは、はははははっ」
そんな当たり前のことに気づき、僕は笑い出す。本当に今日の僕はどうかしてる。こんなんじゃ両親にも頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
「顔でも洗うかな」
カーテンを見ると、うっすらと日差しが射している。起床時間はいつもより大分早いけど、二度寝する気分でもないし、起きた方がいいだろう。うん、そうだな。シャワーを浴びたりなんていいかもしれない。一年に一日くらいそういう日があってもいいだろう。
僕がそう考えてベッドから立ち上がると、同時に自室のドアが開いた。なんだろうと僕が視線を向けると、そこには両親が揃っていた。やけに深刻な表情の両親に、僕の方が心配になる。「どうしたの?」そう言うと、両親は顔を見合わせた。
「どうしたってお前……あんな大声出して……」
父さん――雅彦が言う。次いで母も、
「なにかあったんじゃないの?」
本当に心配そうだ。僕自身、心配される心当たりは大いにあったので、取り繕う。
「ああ、ごめん。悪い夢みちゃってさ」
悪夢。あれを悪夢と呼ぶのだろう。思い出したくもなかった。笑い話にできる悪夢など悪夢とは言わないのだ。
「そう……なの?」
母さん――洋子はまだ心配そうだ。僕は両親に近づき、その肩を叩いた。
「大丈夫だってば! 心配性なんだから」
両親は揃って僕に対して過保護だった。過去の出来事に原因があるんだろうけど、僕も両親の事は好きだから嫌じゃない。もちろん、口に出しては言わないけどね、恥ずかしいし。
両親の背中を押してリビングに誘導すると、両親も僕が大丈夫な事を分かってくれたのか、空気が柔らかくなる。うん、後一押しだな。
「母さん、今日は目玉焼き食べたいな」
童心に返って僕がそう言うと、母は微笑んでくれた。
「由宇がそんなこと言うなんていつぶりかしら」
「まぁ、たまにはね」
子供の頃、僕は母さんの作る目玉焼きが大好きだった。材料も作り方も、別に特別な物じゃなかったけど、なんとなく、僕がそれが大好きだったんだ。でも、最近は朝ご飯を食べる機会も少なくなってしまった。僕をまだまだ子供だと思っている母さんとしては、僕が昔のように目玉焼きをねだってくることが嬉しいらしいのだ。何かがあって家の空気が悪くなったり、言い争いになったりした時には、この一言があれば、一発で母さんの機嫌の直る裏技だった。
「おいおい。由宇はマザコンか?」
それを父さんも分かっていて、乗ってくる。父さんと母さんが喧嘩した時に、僕を利用して仲直りしようとした事もあるくらいだから当然だ。もちろん、僕は中立の立場を守ったけど。
「さぁ……どうでしょう」
マザコンと言われれば、否定はできない。僕は両親共に大好きだから。そう思えるだけの物を生まれてから十七年間で受け取ってきた。といっても、もう数年もしないうちに親離れしなくてはとも思っている。
「ほら、できたわよ」
父さんと言い合っている内に、目玉焼きができたらしい。机の上に三人分の目玉焼きと食パンが並ぶ。湯気を立てており、非常に美味しそうだ。
「いただきます」
「いただきまーす」
「はい、どうぞ」
手を合わせ、父さん、僕、母さんが三者三様の感謝を示し、パンに目玉焼きを乗っけて齧り付く。
父さんも同じようにパンを租借しながら、テレビをつけた。
そこには――鬼がいた。 真っ赤で、筋骨隆々で、虎柄のパンツを履いた冗談のような、それでも血が凍るほどに恐ろしい鬼が……いたんだ。
「昨日未明。M町G区にて殺人によるものと思われる遺体が発見されました。遺体は刃物などの傷で損壊が激しく、身元も今のところ不明との事です。警察は目撃情報を求めているとのことですので、お心当たりのあるお方は警察までご連絡をお願いします」
テレビの中でニュースキャスターが事件の概要を説明している。その事件も十分に恐ろしい物だ。家からそう離れておらず、犯人も捕まっていない。だけど、僕の心を捕らえて離さないのはその背後、環境映像のように流されている映像だった。
一言で言えば、残虐。それに尽きる。
恐ろしい鬼達がやせ細ってボロボロの身なりをした人間を痛めつけ、拷問にかけている。ある者は切り刻まれ、ある者は焼かれ、ある物はプレス器に挟まれて潰される。そういった映像が、二十四時間絶え間なく繰り返され、延々と流されているのだ。
「恐ろしいわね……」
「母さん、由宇、外出する時はできるだけ複数で、買い物なんかがあれば俺に言ってくれれば買ってくるよ」
「ええ、ありがとう、あなた」
何よりも恐ろしいのは、僕の両親があの映像をさも当然のもののように見ているこの現実だ。
「ああ、そうなんだよな」
そうだ。これは何もおかしい所のないただの現実だ。
この世に鬼は存在するのだ。
もちろん、現世を鬼が平然とうろついているという訳ではない。
ただ、――――地獄が存在する。
生きとし生けるもの誰もが生まれた瞬間から地獄の存在を知っている。罪を犯せば、否応なく地獄に落ちることを物心つく前から教育されているのだ。そして、その地獄の様子は現世からも簡単に覗くことができる。テレビを使って放送されている。どんな技術で、どこから送られてくるのか僕たちは知る由もないが、そういった世界があるという事は当たり前に認識されている。昔、地獄の存在が認知されて久しい頃には、誰も信じなかったらしいけど、それも地獄に自分のよく知る人間が現れるようになるまでの話。亡くなった自分の両親や息子、友人が地獄で拷問されていれば、誰だって信じざるえない。
そして、恐怖する。
罪を犯せば地獄に落ちる。それは事実だったのだ。ただの絵空事だと思っていたそれに、まずは囚人が発狂した。死ねばそれで終わりだと夢想して、余裕の表情すら浮かべていた死刑囚が泣いて許しを請うた。犯罪者達は遺族に、被害者に縋り付いた。
しかし、それでも罪は消えない。罪は何をしても購えないとばかりに、いずれその死刑囚や犯罪者達が地獄に現れ、そして今度は普通の人々が震え上がった。
それはそうだ。何故なら、地獄を避けたいなら、どんな事があっても罪を犯すことはできないからである。人の世には正当防衛という法はあるが、地獄には存在しない。人を殺すことは罪である――これが地獄における絶対の法だ。事故か故意かは地獄の鬼達には何の関係もない事なのだ。さらに、殺人だけではない。盗みや詐欺、差別や暴力らも、もちろん地獄行きの危険がある。
そうして完成したのが今の時代。
人が善良であることを強要された今の世の中だ。
――これが現実なんだよな……はぁ、夢であって欲しかった……。
十七年間も生きてきた世界で、現実逃避もあったものじゃないが、ここを生きる少年少女のストレスは半端じゃない。お互いに多感な年頃であっても地獄は容赦などしてはくれないのだ。
ニュースが終わると、テレビからキャスターの映像が消え、画面いっぱいを鬼の残虐な行為で埋め尽くす。この段階になって、父さんは無言でテレビを消した。
「…………」
父さんと母さんは何も言わずにパンを再び食べ始める。僕も習ってパンを囓った。あんな映像を見せられて、平然と食事ができるなんて、僕たちはどこかおかしいのかもしれない。きっとそういった事を僕だけじゃなく、世界の誰もが思いながら生きてきたんだろう。
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