地獄の在処が確定された世界より

@natume11

プロローグ

第1話 幸福と地獄の狭間

 午後三時。私は爛々と冴えきった目をハッキリ開いた。周囲は闇に包まれているにも関わらず、それが私の視界に影響を及ぼすことはない。


「…………」


 私のために用意してくれた居間を見渡す。園田のおば様が敷いてくれたフカフカの布団に、私はそっと指を馳せる。そのどれもが、私の知らないモノだった。与えられることのなかったぬくもり、お日様の香り、そのすべてが私の胸に染みこみ、そして内から私を徐々に壊そうとする。


「っ!」


 それを私は頭を振って拒絶した。私の願いはただ一つ。そのために、他のすべての幸福を捨てて来た。もうすでに踏みとどまるべき足場はなく、私はどこまでも続く暗い底へと堕ちていくのみの人生。絶望し、私は嘆く。


「っ……! 一人は……いやぁ……」


 暗闇の中で私は呟き、覚悟を決めて立ち上がった。彼に人の温もり、その暖かさ、優しさを教えてもらった時から、進むべき場所は一つ。一人は嫌だ。もう耐えられない。だから、彼も一緒に連れていくしかない。


「…………」


 目を凝らし、暗闇の中を進む。そうして私が辿り着いたのは台所だった。私は台所の引き出しを開け、中を物色する。元々の予定では、家事を手伝いながら目的のモノの場所を探すつもりだったが、園田のおば様の厚意によって、それは阻まれた。しかし、だからといってそれを探すことはそれほど困難という訳でもない。


「……あっ」


 しばらく探して、私はそれを見つける。鋭い刃先を持ち、窓からうっすらと注ぐ月の光を怪しげにキラリと反射させるそれは、紛れない凶器。包丁だ。


「っ……うぅっ……」


 手が震えた。当初の計画では、もう少し時間をかけて実行するつもりだったために、心構えが完全にできているかと問われれば、ノーと首を振るしかない。


 ――だけど。

「だけどっ!」


 ことこの場に及んでは、今日、今この瞬間を置いて他にない。何故ならば、おじ様とおば様と数時間一緒に過ごしただけで、私はこんなにも躊躇を覚えている。カタカタと知らず知らず刃先が揺れ、今にも包丁を手から取りこぼしてしまいそうだった。きっと明日には、私は何もできない無力な女になってしまう。

 その瞬間、かつての私が脳裏にフラッシュバックする。


『お母さん……お父さん……痛いよ……助けてぇ……』


 父も母も鬼だった。少なくとも、私は両親の鬼のように怒った顔しか見た記憶はない。毎日が苦痛に彩られていて、常に死を意識していた。でも、私も所詮は鬼の子だったのだ。だから、私は……あんな許されない事を……。


「っ!」


 なんとか悲鳴は堪えた。あんな一瞬の記憶でも、私の瞳には涙が溢れていた。寂しい、痛い、辛い、そして――大好き。いろんな感情が頭の中で渦巻いている。経験はないけど、もしお酒に酔ったらこんな風になるのかもしれない。足下がおぼつかずに、フラフラと世界が揺れていた。

 その時――。


「……あら? 誰かいるの?」

「……ひっ! お、おば様!?」


 今日だけで聞き慣れてしまった穏やかな声。私が出会った、世界で二人目の母親という存在。それは傍にいるだけで、こんなにも心安まるのかと思うくらいに母性に溢れて、私の欠けた心に染み渡ってくる。


「もしかして南ちゃんなの?」


 だけど、その時の私には、そんな感傷に浸っている暇はなかった。私は振る向くと同時に、包丁を背中に隠す。心臓は煩いくらいに鼓動を鳴らし、つま先の先まで凍えるような寒さに見舞われる。


「ご、ごめんなさい」


 思わず、私は謝ってしまった。しかし、おば様はどうして私が謝っているのか分かっていないようで、首を傾げている。


 …………見つかって……ないの?


 おば様は警戒心の欠片も見せずに、私に近づいてくる。どうやら、私が包丁を握っている姿を目撃された訳ではないらしい。それはそうか。僅かに差し込む月夜はあるとはいえ、明かりのまったく灯っていない深夜だ。私のような存在でない限り、見える方がおかしいんだ。私はほっと息を吐くと、今の内に包丁を台所の流しの中にそっと置く。同時に、明かりが灯った。


「わっ、まぶし!」


 暗闇に慣れた目に、突然に明るい光は酷なのだろう。おば様は軽い悲鳴と同時に目を抑える。私もそれに倣って、眩しがる振りをした。


「いきなり電気つけてごめんなさいね……一言かければ良かったわ……」

「い、いえ、私は大丈夫です」


 おば様が微笑んで謝る。私はその顔に、無性に罪悪感に襲われた。私が悪いのに、どうしておば様は私なんかに優しくしてくれるんだろう……。本当の私を知ったら、おば様はどんな顔をするんだろう。

 見捨てられる恐怖。その恐怖は私にとって、地獄行きの恐怖に等しい。包丁まで準備しておきながら、私は挫けそうになっていた。


「もしかして眠れなかったかしら?」


 おば様の問いかけに、私は慌てて応える。


「そ、そうですね。少しだけ水でも頂こうかと……勝手なことしてごめんなさい」


 咄嗟の返答にしては、よくできたと自分でも思う。


「まぁ、そうなの……。でも気にする必要はないのよ? あ、そうよ! 女の子がこんな時間に冷たいもの飲むのも身体に毒だからホットココアでも作るわね!」


 そう言って、アレヨアレヨという間に鍋の用意を始めるおば様を私は必死に止める。


「あ、いえっ! そんな! 悪いですよっ!」

 しかし、おば様はニッコリと笑って言った。


「大丈夫よ。南ちゃんのはついで! 私が飲みたいだけだから」

「…………」


 そう言われてしまっては、私にはもう何も言えなかった。ただ、私はおば様が流しに置かれた包丁をいつ見つけるのか気が気じゃなかった。

 そしてついに、鍋に水を注ぐ段階になって、おば様が流しの包丁に目をとめる。


「あら?」


 私は思わず目を逸らした。緊張で手がぬめる。しかし、その緊張とは裏腹に、最悪の展開に向かいそうな気配はなかった。


「……私、包丁洗ったはずなのに……あら、あらら……? 由宇が夜食でも作ったのかしら。ねぇ、南ちゃんは知ってる?」


 問われて、私はブンブンと首を横に振った。すると、おば様はしばらく包丁を見つめた後「私……呆けたのかしら」などと呟きながら、包丁を流しに再び置く。


「後で鍋と一緒に洗えばいいわね。ごめんなさいね、変な事言い出して……」

「あ、あははははは……」


 私は乾いた笑みを浮かべながら、隠れてそっと息を吐いた。とりあえず、一先ずは安心だ。疑われずにすんだ。そして、私は途方に暮れる。何をしようとしていたのか。どうすればいいのかが、急に分からなくなった。曲がりなりにも形は維持してきたつもりの覚悟が、砂上の楼閣のごとく霧散していく。


「南ちゃん、そっちの棚にココアパウダーが入っているからとってくれるかしら?」

「あ、はい」


 流されるまま、私はおば様が指差した足下の棚を開けるためにしゃがむ。そして棚を開けて、中を探す。棚の中には、買い置きの調味料や油などが大量に保存されており、探すのに少しだけ苦労したけど、無事見つけることができた。


「これで……いいですか?」


 手にココアパウダーを持って、私はおば様を見上げる。


「ええ、ありがとう」


 おば様はふんわり微笑むと。ココアパウダーを受け取った。少しして、ココアのとてもいい香りが広がって、私の頬が緩む。


「そういえば聞いてなかったけど……南ちゃんココア好き?」


 おば様は以外とおっちょこちょいなのか、今更そんな事を聞いてくる。私はなんだかおかしくなって、口元を抑えて笑ってしまった。


「ふ、ふふふ、……大好きですよ」

「もうっ、笑わなくっていいじゃない」


 おば様は口元を尖らせた。拗ねるように可愛らしく横目で私を軽く睨む。


「ごめんなさい」

「はい、よろしい」


 そのやりとりに、今度は二人で笑った。もちろん、深夜だから声を殺して。同時に、私の中にあった殺意が急速に薄らいでいく。


 ……もう、やめようかな。


 胸中を弱気が満たしていく。このままここに、この家族の中に入れたらどれだけ幸せだろうと私は夢想する。冗談交じりに園田に「責任とって!」なんて言ったりもした。それが現実になったとしたら、どれだけ素晴らしいだろう。実現すれば、今後五十年ぐらいは園田家の家族の一員として生きていける。私にとって、それはとてつもなく価値のあるもののように思えた。想像するだけで、幸福感で空も飛べそうな気すらした。

 でも――。

 そうなるためのハードルは数え切れない程ある。その最たるものが相馬藍那の存在だ。園田の幼馴染みにして、初恋の女。相馬藍那は一つ上の先輩に恋をしているらしいが、それがいつまで続くか分かったものではない。あの甘えた女は直ぐさま、また園田にすり寄ってくるのだろう。そうなった時、どうなるか。


「……っ」


 奥歯がギリッと鳴る。

 確かに園田は少しづつだけど、私に心を開きつつある。距離を近づけるために同じクラスになってから毎日欠かさず言葉をかけるようにしてきた。そして、今日。私と園田の関係は飛躍的に進歩したと思う。一日で、ただのクラスメートから家に泊めてもらえる関係にさえなれた。

 だけど、まだなんだ。

 園田の気持ちは、未だに相馬藍那の方を向いている、その証拠に、園田は私と過ごしながらも、相馬藍那の事を考えているような素振りを見せていた。本来なら、それは好ましいとすら思える反応のはずだった。私から少しモーションをかけただけで、園田があっさりそれまでの好意を捨て去ってしまえるような男の子なら、私がこんなにも惹かれることはなかったと思うから。

 しかし、それが現状では足かせとなっているのも事実だった。進展が想定よりもかなり早いのも原因の一つであることも確かだ。私は何よりも保証が欲しい。生きている間、園田が私の傍にずっといてくれる保証。それさえあれば、きっと私は現状で満足できると思うから。幸せな記憶を抱いたまま、死ねると思うから。


「……ふ、ふふふ……」


 私は力なく笑った。園田家にとって、私がどう考えても害悪にしかならない存在だと改めて自覚する。自分の都合ばかり。分かっていながら止められない。


「ん? どうしたの?」


 私が陰気に笑っても、おば様は私に暴力をふるったりしない。怒鳴ったりしない。無視したりしない。


「ココア……楽しみだなって……」

「そうね! もうすぐできるからねっ!」 


 何よりも誤算だったのは、親という存在がこんなに暖かい存在だとは、私は予想もしていなかった。親というのは皆が酷くて、辛い事を強いてくる存在なのだと勝手に思っていた。殺すのに罪悪感を抱くなんて、夢にも思わなかった。


「はい。できたわよ」


 台所のカウンターの上に、カップに注がれ湯気が立ったココアが置かれる。先におば様が口をつけて目を細めた。


「んー。ココアなんて久しぶりに飲んだけど、美味しいわね。ほら、南ちゃんも飲んで、飲んで!」

「い、いただきます!」


 促されて、私はカップを手にする。口元に近づけると、ココアの香りと温かさにすごく癒やされた。そっと口をつける。


「あっつぃ……」


 思っていた以上に熱くて、私は舌を火傷してしまう。


「だ、大丈夫!?」


 慌てたおば様が水を差しだしてくれ、私は水を口に含んで冷ます。何度か繰り返して、ようやく痛みが引いた。おば様がすごく申し訳なさそうな顔をしているのに私は気づく。


「ごめんなさいね。こんな事なら調子に乗らずに初めから冷たい飲み物を飲ませてあげてれば……」


 全然おば様のせいではない。すべては私の不注意が原因だ。それでもおば様は自分のせいだと、私をすごく気遣ってくれる。


「ほんほに……らいじょうぶですから!」


 舌が回りきらない。でも、それ以上おば様に自分を責めて欲しくなくて、私は力瘤を作って見せる。すると、おば様は私の気持ちを酌んでくれたのか、私を心配しながらも、それ以上謝るのをやめてくれた。

 私はそんなおば様を見て、決意する。

 ――もう、やめよう……と。

 おば様は……いや、園田の家の人たちは、私の事を何も知らない。もしも知ったら、嫌われてしまうかもしれない。でも、それがなんだ。今、こうして私に優しくしてくれている人達がいた事がなくなってしまう訳じゃない。思いが叶わなくなったからといって、それまでの日々が無意味になる訳じゃない。実際に、私はここに至る過程で、素晴らしいモノを手に入れることができた。一人は嫌。絶対に嫌! だけど、それなら自分の力で勝ち取るべきなんじゃないの? 私はそう思った。時間をかけてでも、園田を私に振り向かせてみせる!

 だから、私は決意する。


「おば様……」


 私は真剣な声色で、おば様を呼ぶ。


「……どうしたの?」


 おば様は聡い人だった。たったそれだけで、何か大事な話があるという予感を感じ取ったのか、穏やかな表情を崩して、大人の顔を見せる。それは、もしかすると親の顔なのかもしれない。おじ様は、私はもう家族のようなものだと言ってくれた。勘違いならそれでも構わない。でも、たった一度だとしても、私に本当の母親を教えてくれたおば様に心から感謝します。


「お話が……あるんです」


 全部話す。何一つ隠さずに。ありのまま、話す。

 そして、話し終えた後、おば様は泣いていた。もう偽りの涙しか流せない私の代わりに泣いてくれていた。 


「辛かったのねっ」


 泣きながら、おば様は声をかけてくれる。何も変わらない、すべてを慈しむような母親の表情で。

 その時――。


「っ……うぇっ……ぇっ……っ」


 私の瞳からも自然と涙が零れた。嘘泣きじゃない涙なんて、何年ぶりだろうか。きっとあの日以来だ。


「いいのよ、泣いても……。私は……私達は南ちゃんの味方だから」

「うぇ……っ……ぅぃぁ……」


 嗚咽が止まらない。でも、嫌な気分じゃなかった。溜まり続けてきた心の澱みが流れていくような気がした。


「行く所がないなら家に来なさい。由宇の事は別にしても、ね?」

「ありがっ……っぇ……あり、がどうっ……」


 嬉しかった。救われた。

 そして――その時私がそんな身の丈に合わない思いを抱いたから、罰が下ったのかもしれない。

 私を抱きしめようとおば様が両手を伸ばす。私も、それを受け入れようと目を瞑った。暗闇。その暗闇の中に、お母さんがいた――。


『あんたなんか! あんたなんか生まなきゃよかったっ! あんたのせいで私はぁっ!!』

 ……痛い、苦しいよ。お母さん。

「南ちゃん?」


 お母さんの声が聞こえた。目を開けると、お母さんが私の首を絞めようと両手を差し出してきている。お母さんは死んだはずなのに、どうしてここにいるの? そんな疑問を抱く間もなく、私はかつてそうしたように、まったく同一の行動をとっていた。


「ひっ! いやああぁっ! こないでぇぇぇ!」


 金切り声を上げながら、私はその場から少しでも離れようと下がる。すぐに台所に突き当たって行き場がなくなった。脳裏を覆い尽くすのは、恐怖。それだけ・


「ど、どうしたの?」

 お母さんが追ってくる。今日こそ殺される! 嫌だ! 死にたくないよ!


 助けを求めるように腕を這わせていると、何かが指先にあたる。同時に、鋭い痛み。


「南ちゃん?」


 私はそれが何かを察すると同時に、お母さんの頭めがけて振り下ろした。


「……え?」


 お母さんは顔中に疑問を浮かべていた。何が起こっているのか分かっていない。お母さんは呆然とした声を上げると、呆気なく床に倒れ伏した。











「はぁ……はぁ……はぁ……」


 私は息を荒げて、膝をつく。今日も生き残った……私は死んでない……そんな興奮と共に、私はお母さんの顔を見る。そして愕然とした。


「……は?」


 そこに、お母さんはいなかった。代わりに、目を見開いたおば様がいた。額の中心に包丁を深々と突き立てられた無残な姿だった。


「い、いや……」


 全身が戦慄くように震えた。両手で自分を抱きしめるようにしていると、私の手に血がベットリと付着していることに気づく。


「や、やだよぉ……なんでっ」


 悪い夢なら、早く覚めて欲しかった。私が殺したのはお母さんのはずだ。おば様じゃない。でも、それならどうしておば様が死んでいるんだろう。

 急速に私の身体から体温が失われていく。ココアの暖かさ、おば様の優しさが失われていく感覚。ようやく手に入れたはずの足場がボロボロと崩れ落ちていく。


「お、おば様……? お、起きて……?」


 おば様の身体を揺する。私とは比べものにならないくらいに冷たい身体だった。額から血を流し、口元から泡だったピンクの唾液を零した。


「う、……嘘……嘘……私、またやったの?」


 殺した。殺した。殺した。私が殺してしまった。私を受け入れてくれた人だった。私のお母さんになってくれると言った人だった。私に救いを、生きる意味を与えてくれた二人目の人だったのに……。


「あ、あああ、ああああ……」


 世界がゆっくりと崩壊していく。その過程で、私は自分がどれほど素敵な世界に生きていたかを知った。一分前まで、私はそこの住人だった。でも、今はもう違う。ここは紛れもない地獄だった。その地獄を生み出したのは、他の誰でもなく私だった。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

あああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

 声の続く限り私は絶叫した。恥も外聞もなく子供のように喚き散らした。


「やだっ! やだっ! そんなっ……そんなつもりじゃっ!?」


 大きな足音と共に、すぐにそれはやってきた。


「ど、どうした!」


 おじ様が泡を食ったように駆けつけたのだ。おじ様が私を見る。


「南ちゃん……? どうし――洋子!?」


 そして、倒れたおば様を見つけた。頭に包丁を突き立てられ、変わり果てた姿になったおば様をおじ様は飛びかかるように抱き上げる。


「洋子! 洋子ぉっ!」


 私は耳をふさいだ。おじ様の悲痛な声をとても聞いてはいられなかった。


「どうして洋子がっ!? 一体……誰が……洋子! 洋子ぉぉぉっ!」


 呆然としたおじ様の声。その視線が私を向くのをなんとなく感じた。優しかったおじ様。彼からどんな言葉を投げかけられるのか、私は怯えて顔を上げることができない。

 しかし――。


「み、南ちゃん! 南ちゃんはどこも怪我はないかい? 何もされてないかい? 誰か怪しい人影を見たりしてないか?!」


 私はまだまだ子供だった。世の中には、憎しみを向けられた方が気が楽になる瞬間があるという事を理解していなかった。おじ様が私を疑うことはない。それどころか、私の心配すらしている。おば様を殺したのは、私だというのに!


「や、やめて……おじ様……やめて……許して……」


 譫言のように私は呟く。頭が割れるように痛かった。ギリギリと頭の中の血管に電気が流れているような錯覚すら覚える。


「……み、南ちゃん?」


 私の尋常ではない様子に、おじ様がそっとおば様を横たえると、近づいてくる。ああ、どうしてこの人達はこんなに善良なのだろうか。自分たちは私よりも遙かに痛いはずなのに、他人を気にかける余裕を持てるなんて。

 それは尊敬であり、同時に嫉妬でもあった。私にできなかった事を当たり前のようにこなす様に、私は自分の弱さを自覚する。昔なら、子供が弱いのは仕方ないと思われていた。でも、今は違う。地獄の存在が子供の弱さを否定している。人は皆、地獄の前に生まれたその瞬間から平等なのだ。


「南ちゃん! しっかり!」


 虚ろな視界が前後に揺れる。おじ様に揺さぶられているんだ。


「南ちゃん! 南ちゃん!」


 その声が私に届くことはもうなかった。

 子供がやっても大人がやっても、正義のためでも悪のためでも殺人は殺人。すべては自分の責任。人間は人間を裁けない。現実は犯罪者にとってのパラダイス。だから、どこかで歯止めをかけなければいけない。……昔出会った男が、そんな事を言っていたのを私は思い出した。確かに、その通りなのかも知れない。私が強ければ、少なくともおば様は死ぬことはなかった。


「でも、さぁ……?」

「えっ?」


 私が突然言葉を発し、おじ様が驚いた表情をする。


「意識あるかい? すぐに救急車を呼ぶから!」


 おじ様が私に背を向ける。私はその無防備な背中を思いっきり両手で押した。


「なっ!」


 ドガシャーーーーン!!

 おじ様の身体が吹っ飛び、食器棚に激突した。食器棚のガラス窓が割れ、並べられていた食器がおじ様めがけて崩れ落ちる。おじ様は頭を打ったのか、棚は背中に座り込んだままピクリとも動かない。


「っ……ぁ、ぁぁ……」


 ほんの僅かにうめき声が聞こえるから、死んではいないようだ。でも、頭を打ったなら早急に病院に行かなければまずい事になるだろう。


「でもさぁ……」


 私は繰り返す。繰り返しながら、おば様の頭に突き刺さっていた包丁を一息に引き抜いた。死んで時間が経過しているせいか、出血はあまりない。おば様の綺麗な顔がこれ以上汚れなくてすんで、私はホッとする。


「弱いなら……仕方ないですよね? そうですよね、おじ様……」


 弱さが罪でも、実際に弱い人間にはどうする事もできない。私は子供だった。力がなかった。環境もなかった。頼れる人もいなかった。


「本当に……どうしようもなかったんですよ!」


 おじ様に訴える。理解してもらえるように。私に残された救いの道は、もうたった一つしか残されていない。私を救ってくれる人は、この世にもうただ一人しかいない。

 そのためには、おじ様が生きていてはいけないんだ。


「おじ様……ごめんなさい……」


 勝手に涙が溢れてきた。自分の都合でおじ様を殺そうとしているのに、そのことに私は悲しんでいた。どうしようもない女だ。それでも一人は嫌だ。救われたい。幸せになりたい。

 おじ様の首筋に包丁の切っ先を添える。おじ様がポツリと言葉を漏らした。


「…………南ちゃん……大丈夫かい?」

「っ!?」


 きっとおじ様は自分がどうなっているかも、これからどうなるのかも分かっていない。それにも関わらず、最初に出てくるのは人の心配。私の心を抉り、グズグズに溶かそうとするその温もりを振り払うように、私は包丁を押し込んだ。


「うあああああああああっ!!」


 グチャッ!

 包丁は喉を貫通し、食器棚まで貫く。


「う……あっ……」


 私がそこから離れると、おじ様は手足をブランとさせて、食器棚に縫い止められるような格好になっていた。おば様の時とは違って、血が大量に溢れ、私の全身の至る所まで赤く染めている。


「……もう一度シャワー浴びないと……」


 幸せな笑顔で満ちていたリビングダイニングは、その日崩壊を迎えた……。

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