呼ばれる

杉背よい

第1話

 父は海で死んだ。

 父は、漁師でいかにも屈強な体をした男だった。漁のために家を空けることが多かったけれど、父の存在はいつも家の中に深い影を落としていた。夕食を食べる前に、母は必ず父の話をした。家族は父の無事を祈ったり、海の上で働く姿に思いを馳せたりした。とうちゃんが働いてくれるからごはんが食べられるんだよ、そんなふうに母は僕たちに言い聞かせた。

 体が大きく声が野太く、しかも躾に厳しい父の存在は、僕にとってつねに脅威だったが、不思議と父には人を惹きつける魅力があったように思う。

 漁から帰ってくると、父はよく外で深酒をして、知らない人と意気投合しては家に連れて来ていた。戸惑いながらも呆れたように微笑む母の顔は、まんざらでもなさそうで、ああ、母は父を愛しているんだなと思ったものだ。

 父が亡くなった今は、思い出そのものよりも、断片的に幼いころ太い腕につかまったときの感触や、日に焼けた顔に反射するように光る、大きくて白い歯を思い出す。

 僕は成長しても父のような男にはなれないだろう。体もそれほど頑丈ではないし、外で走り回ってもあまり日焼けをせず、太陽に晒していた部分がちりちりと火照って痛む。


 その日、父は漁のためではなく、一人で海へ出かけて行った。

「約束があるから」

 はにかむような顔をして玄関を出る父を、何故だか鮮明に覚えている。日に焼けた無骨な顔に、押さえきれない喜びが滲んでいた。

 そのまま二度と、父が家に戻ることはなかった。


──また、雨が降りそうだ。

 あたりは海の生臭い匂いに満ちていた。雨、それも強い風をともなった台風が近づいている。はだしの足裏にまとわりつくような湿気。それからたくさんの生き物の死骸が堆積し、腐臭を放ち、海から風に乗って匂いと熱気を運んでくる。

学校用の運動靴をつっかけて外に出た。弟のユウを保育園に迎えに行くのは僕の日課だった。

 ぽつぽつと雨が路面を叩き出し、やがて景色が煙ったように色合いを失っていく。

 自分に勢いをつけるようにして、僕は走って玄関を飛び出した。

 幼いユウは誰よりも自分を頼っている、と思うと落ち込んでいる暇はない。


 ユウは無口な子供だった。いちばん甘えたい盛りの年に母親を無くしたが、留守番をさせておいても、一人で大人しくいつまででも遊んでいる。誰かが話しかけても首を縦に振るか横に振るかで、たまに言葉を発しても短い語句が多く、ただ押し黙って黒目がちな濁りのない目でじっと見つめる。


「楽と言えば、こんなに育てるのが楽な子供もないねえ」

 明恵さんは、少し心配そうにそんなことを言う。

 保育園の庭で、黄色い合羽から絶えず雨滴を滴らせて立っている子供の姿を見つけて走り寄ると、案の定ユウだった。

「おにいちゃんがもうすぐ来るから、庭で待ってるって聞かなくて」

 困惑しながら微笑む先生にお礼を言って、ユウを引取ると、飛びつくように僕の手を握ってきた。ユウの小さな手は、冷たく固まっていた。

「今日はお菓子の日だよ、帰りに寄ろうな」

 一週間に一度、僕らは「お菓子の日」を決めて、その日だけは好きなお菓子を一つだけ買うことにしている。不慣れな暮らしも、来月施設に入るまでの辛抱だ。わかってはいるが、家を離れるのが寂しかった。

 僕の言葉に、ユウは少しだけ嬉しそうな顔をして微笑んだ。


 母は、海岸に程近い大きなヤマモモの木に首を吊った。

 父が亡くなってから二月経つか経たないかのことだった。海に打ち上げられた父の遺体は、別人のように変形していた。母は半狂乱になった。何故だか予感めいたものがあったからか、僕は比較的落ち着いていられた。あの日、父は家族を捨てて別のところへ行ったのだと、どこか冷めた思いが心の底に澱のように溜まっていた。父は、一人で遠いところへ行ってしまったのだ。

 この地域では、海で亡くなる人のことを「海に呼ばれる」と言う。

 漁を生業としていた父には、これまでにも幾度となく「呼ばれる」機会はあっただろう。海とともに生きる人々は、心のどこかでそれを覚悟している節がある。

 しかし、母は現実を受け止められないようだった。一日中縁側に座ってぼんやりと空を眺めていることが多くなり、気落ちしているだろうと代わる代わる訊ねて来てくれる人の姿も目に入らない様子だった。

「マチ、かあちゃんを病院に連れて行こう」

 近所の人の助言を受けて、僕が付き添って連れて行こうと決めた翌日だった。

 母は何の前触れもなく、死んだ。


 夜中ヤマモモの木にぶらさがって、闇の中で揺れていたそうだ。

 何かを恨みつくした果てに息絶えた、と言った恐ろしい形相だったとか、美しくて有名だった母の変わり果てた姿は、ある種凄味があったとか、様々な噂が流れては消えた。僕に面と向かって軽口を叩く人はいなかったけれど、周囲の同情の目と度重なった不幸に対する漠然とした恐怖感のようなものを痛いほど感じた。

 どうして夜中に家を出る母に気付かなかったのか。どうして、もっと早く病院に連れて行かなかったのか。

 どうして──。頭の中を、今となっては無意味な後悔ばかりが巡る。

 僕は、ヤマモモの木にぶら下がった母の姿を繰り返し思い浮かべた。眠れない夜には、必ず母のことを考えた。闇の中で起き上がり、一人でそっと家を出た母。何を見ていたのだろう。どんな気持ちだったのだろう。

 母が死んだ後、ヤマモモはたくさんの実をつけ、すぐに熟して地面に落ちた。落ちた実は路面に染み込んだ。潰れたヤマモモは、血のような色をしていた。


 明恵さんは、突然ひょっこりと僕たちの元を訊ねてきた。当惑している僕に、自分はこの家のおばあちゃんの親友だ、と名乗った。

「あたしで良かったら、いろいろ手伝わせてちょうだいね」

 そう言って明恵さんは、鮮やかに笑った。そして実際に母の葬儀から、親戚縁者への連絡、僕とユウの身の回りの世話まで引き受けてくれた。子供二人を引取ってくれる親戚を探したが、皆、同情はしても厄介事を背負い込みたくない心中が見え見えだった。一ヶ月ほど家々をたらい回しにされて、結局家に戻ってきた。それまで母に甘えていた僕に、家事や、生きていく上で必要な知識を教えてくれたのも明恵さんだ。親戚たちに愛想をつかした明恵さんは、知り合いを通じて施設まで探してくれた。


「マチ坊、明恵さんはね、あんたのばあちゃんの那美ちゃんとずっと一緒だったんだよ。ユウと同じくらいの頃からね。那美ちゃんはすらっとした美人で、明恵さんは太っちょだったけど、すごくうまが合ってね、いつも一緒にいたんだ。学校でも帰ってからも。お、今笑ったろ、太っちょってとこで。失礼しちゃう!謙遜よ」

「謙遜よ」のところで明恵さんが奇妙な科を作るので、僕はなおさら吹き出してしまった。

「・・・まあそれはいいんだけど、那美ちゃんが先に亡くなったときは、本当に悲しくてね。自分が半分死んじゃったみたいで。こうやって、那美ちゃんの孫の世話が出来るなら本望なんだよ」

 明恵さんは、僕の相槌が入る隙間がないくらいよく喋る。十二歳にもなる僕を「マチ坊」と呼び、自分を「明恵さん」と呼ぶ明恵さんのお喋りのスタイルには最初戸惑ったが、常に明るく振る舞う明恵さんを見ていると、自然と元気が出てくる。ずんぐりとした体形に甲高いよく通る声。面倒見がよく、彼女の作ってくれる料理は抜群にうまい。

 明恵さんがいなかったら僕とユウはどうなっていたのか。考えただけでもぞっとする。


「マチ坊、今年もオショロさまに出てくれる?」

 スーパーからの帰り道、ふいに立ち止まって明恵さんは僕の顔を覗き込んだ。買出しには必ず明恵さんが付き添って、必要な物を見繕ってくれる。膝が悪いのか、太っているためか、明恵さんは左右に揺れながらひどくゆっくりと歩く。僕は辛抱強く、そのスピードに合わせる。時間がかかる分、僕たちは買出しのたびにいろいろな話をする。

 僕は手にしたビニール袋に目を落として、口ごもりながら、曖昧に頷いた。途端に黒い影が心に広がる。

 小学校に上がりたてのお盆から、僕はオショロさまに参加し始めた。小学一年から中学三年までの男子がお盆の最後の朝に先祖の霊を乗せた船を泳いで先導するという、この地域に古くから伝わる年中行事だった。

 僕が暗い顔をして黙っていると、わざと畳み掛けるように明恵さんは言う。

「出てくれるの?よかった。この頃セイトッコの男の子が少なくなってきてるからね。もうしばらく頼むよ。お父さんに似て、泳ぎは得意でしょ?マチ坊」

──明恵さんが喜んでくれるなら、ちょっとの間の辛抱だ。

 そう、自分に言い聞かせ、明恵さんに笑い返そうとしたのだが、足が震え出して止まらない。

「本当はあんまりやりたくなさそうだね」

 明恵さんは、僕の心中を推し量るように優しく訊ねた。

「マチ坊、オショロさまで何か見たんじゃないのかい?」


 僕が見えないはずのものを見たのは、初めてのオショロさまのときからだった。

未経験な上に、泳ぎも未熟だった僕は、年長者に着いていくのがやっとだった。行くべき方向も見定められず、目の前で水をかく先導者の「大将」の足を追いかける。あとどのくらいで帰れるのだろう、そんなことをくり返し考えながら必死に泳ぎ進めていくと、ぽっかりと何かが浮んでいるのが見えた。オショロ船も先導者の目指す先も、間違いなく何かが浮かんでいる場所と同方向だった。

──ブイかな。

 不思議に思ったが、黒くて丸いものは浮いたり沈んだりを繰り返す。このまま進んでいくと、確実にぶつかってしまうが、そう大きいものでもないようだ。さらに泳ぎを進めると、黒い丸いものがしだいにはっきり見えてきた。濡れた海草のようなものが、ぺったりと球体を包んでいる。海草は長く、水面に垂れて広がっている。

──海草、じゃない。

 思わず、はっと息を呑んだ。同時に体が強張り、うまく泳ぎ進めることができなくなった。

「人の頭だ」

 そう判断した途端、水面に浮んでいる球体の姿がはっきりと映し出された。

 近付きたくない、と強烈に思ったが、僕以外には誰にも見えないのか、どんどん頭のあるほうへ船もセイトッコたちも進んでいく。少しずつ少しずつ、頭に近付いていく。

 水面に浮んだ頭には胴体がなく、長い髪が水面に漂って揺れていた。目のあるべき場所は空洞で、開いた口の中にも歯が一本もない。口の中は、付着した苔のようなものが盛り上がって生えているのが見えた。

 かつて口であった場所は、何かを伝えようとしているのか小刻みに動いている。

 ぽっかりと一つ、浮かんでいるのは見知らぬ女の顔だった。

……皆には見えないのか?

 背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。

 恐ろしさの余り、僕は一人で方向転換しようとしたが、隣を泳ぐ一つ年上の少年に肩を叩かれた。輪を乱すことは許されなかった。

──近付くな。近付くな。

 観念して目を閉じ、潮の流れに身を任せる。顔のすぐ近くに、女の首の気配を感じた。

 ぺちょり、と何かが触れる感触。女の濡れた髪が束のまま頬に触れた瞬間だった。


「戻るぞ」

 どのぐらいの時間だったのだろう。しばらくの間、気を失っていたような気がするが、上級生に二の腕を強く掴まれて、僕は我に返った。

 はっとして相手を凝視すると、上級生も驚いたように僕を見返した。凝視した僕の顔色も、尋常ではなかったのかもしれない。

「足が攣ったのか?」と上級生が心配してくれたが、僕はやっとの思いで短い返事をしただけだった。

「大丈夫か?もうすぐ浜だからな」

 上級生は優しく励ましてくれる。はい、と返事をしようとして上下の歯並みが合わず、かちかちと小さく音を立てた。

 そのまま青ざめた顔で浜に上がってくると、楽しみにしていた御馳走もあまり喉を通らなかった。汁物の椀に少し手を付けては箸を置くことを繰り返していると、御馳走の準備を手伝っていた母がいち早く気が付いて声をかけてきた。

「疲れたの?」

 言いながら母が僕の肩に触れた。恐怖から解き放たれた途端、思わず母に縋りつきたくなったけれど、同年代の少年たちが大騒ぎで食事をしている現実に立ち戻ってどうにかこらえた。

「帰ったら何か食べやすいものを作ってあげるから」

 いつも口やかましい働き者の母だったが、そのときはとても優しかった。

 優しくされることが嬉しかったので、僕は逃げ出したいのをこらえていた。


 それから首は毎年、僕の前に現れる。最初の年に一つ、次は二つに増えていた。波間を漂いながら、僕を呼ぶように長い髪が水面に靡き、苔に埋もれたおぞましい口が微笑みを作る。

 僕は頭の中にくっきりと浮かぶ言葉を、必死に振り払おうとする。

「呼バレル」


「──お前はとうちゃん、かあちゃんに似て色男だから、おかしなものたちに魅入られるかもしれないね」

 明恵さんは、それ以上は深く問い正さなかった。何も言わない僕を元気付けようとしてか、自分のスーパーの袋の中から板チョコを取り出して、僕の袋に入れてくれた。お礼を言うと、明恵さんは微笑んだ。

「マチ、オショロさまはずっとずっと昔から続いている大切な行事なんだ」

 再び歩みを止め、明恵さんは僕の手をぎゅっと握った。びっくりして明恵さんの顔を見ると、いつになく真剣な表情をしていた。

「お前のとうちゃんも、セイトッコの大将をつとめたんだよ。それは泳ぎがうまくてねえ。今でも思い出すよ・・・・・・。セイトッコはね、ご先祖様の御霊を西方浄土までお送りする、言わば神様のお使いなんだ。誰でもができるわけじゃないんだよ。見えるお前には恐ろしいことかもしれないけれど、輪を離れなければ大丈夫だ。大将も皆もお前を守ってくれる」

 それから、と言って明恵さんは、僕の目をじっと見つめた。

「お前はまだ、海に呼ばれるのは早すぎる」

 明恵さんの口調は、すべてを見通しているように静かだった。温かい手が、弱った僕を導くように、さらに力を込めて重ねられる。少しずつ震えがおさまっていくのを感じた。

「おかしなものに惑わされるんじゃないよ」


 なーみーちゃーん。

 まだ、小学校に上がる前だっただろうか。

 夜明け前の、空が薄明るい時刻に、頭のすぐ上で女の子の声がする。小さな子供の、甲高い笑い声。

 こんな時刻に、遊んでいる子がいるのだろうか。

 きゃははは、とはしゃぎ笑い合う声と、石と石がぶつかり合う音がしていた。恐る恐る蒲団を出て、そっと障子を開く。傍らの蒲団の母は、眠りが深く、まったく気付いていないようだ。

 開いた障子の隙間から見えたのは、半分透けてはいるが、白い光に縁取られた小さな女の子らしき影と、おばあさんが廊下で石蹴りをしている姿だった。おばあさんは皺だらけで腰も曲がっていたが、機敏な動きで足を差し出し、器用に石を蹴っていた。おばあさんが足を上げると、黒い影がひしゃげたように伸びて天井を覆った。

 こわい、とは思わなかった。ただ、人間ではないのだ、ということだけははっきりとわかった。僕の住んでいる世界とは別の、もうひとつの世界があるのだということを感覚的に知った。

 いつ蒲団に戻ったのかは覚えていない。が、目覚めると朝だった。

 なみちゃん、という名前が祖母の名前と同じだということに、ずいぶん後で気付いた。


 目眩を起こしそうな真昼の日差しがゆるやかにおさまり、少しずつ陰ってきた。

 日暮れは一瞬にして訪れるので、そのときを逃してはならないと、迎え火の準備を始める。

 明恵さんに教えてもらいながら、僕とユウでお盆の支度をした。両親のお墓に行って丁寧に掃除をし、お供え物をした。家に帰ると仏壇を拭き清めて、きゅうりで馬を、茄子で牛を作ってお供えした。大きな葉に、きゅうりと茄子を賽の目状に刻んだものも一緒に供える。

 ユウは、馬と牛が気に入ったのか、何度もつるつるとその背を撫でた。

「ご先祖様があの世から戻ってくるときに、使う乗り物なんだよ。行きは馬に乗ってできるだけ早く、帰りは牛に乗ってできるだけゆっくりお帰りください、という意味があるのさ」

 昨年までは母と共に作ったオショロさまを今年は明恵さんと一緒に作る。オショロさまは、麦わらの人形だが、人形、と言っても顔はなく、円筒型にした麦わらに、三角形の色紙でつくった飾りをつける。作り慣れている明恵さんは、母の三倍ぐらい手際がいい。短くふっくらした指で、何でも器用にこなす。明恵さんが作ってくれたオショロさまを、僕とユウはきゅうりと茄子の上に乗せた。

 縁側に吊るした提灯にも火を灯す。仏壇の両脇には、回り灯籠が音もなく回って青と白の光を畳に映し出す。

「そろそろ迎え火を焚こうかね」

 僕は頷いた。三人で火のそばにしゃがみ、立ち上る煙を見つめる。

 しばらくすると、煙の向こうに、大きな人影が現れ、ふらふらと左右に揺れながらこちらに向かって歩いてくるように見えた。

 あ、と明恵さんが顔を上げて低く呟く。

「……来たな」


 影は、ゆらりと辺りを包みこむほどに大きくなり、影自体が津波のように静かに近付いてくる。黒い影に飲み込まれそうになり、思わず立ちすくむ。

 ふわり、と嗅ぎ慣れた海の匂いがした。

「とうちゃん」

 僕は思わず叫び声を上げた。しかし、父を呼んだことに自分で驚く。

 何故だろう。黒いかたまりをどうして父だと思ったのか。かたまりは色を濃くしたり薄くしたりしながら、一定の距離まで来ると、そこに留まったまま、足踏みをするように揺れている。僕はもう一度、自分に問いかけた。

──まったく嬉しくないのは、何故だろう?

「大丈夫だ。新盆だから、テルオはまだこっちに来られない」

明恵さんがさらに声を低めた。テルオ、という父の名を、忌まわしいもののように呼ぶ。

 あいつには、まだ形さえない。

 明恵さんの声は、怒気を含んでいた。


 父の紫色に腫れあがった皮膚や、爪がすべて剥がれてしまって、ぱんぱんにむくんだ手足を思い出す。それからあちこち魚に食いちぎられたような跡。玄関を出るときの、華やいだ父の顔と、あまりにも落差があった。海で死ぬと、こんなふうになるのか──僕の中の冷静な部分が、一瞬そんな判断を下す。

とうちゃんは、海に呼ばれたのか?

 影が震え、嘔吐のような呻き声とともに、空気が振動する。

「ユウ、聞くな!」傍らのユウの耳を塞がせようとしたが、きょとんとした顔をしている。声は直接頭の中に響いてきた。

 頭の中に、直接、文字が刻まれていくような感覚。

 かあちゃんが、

 かあちゃんが、

 かあちゃんが、

 行くなって止めたのに、

 おれ、ヤクソクがあるからって、

 かあちゃんが、

 泣いて止めたのに、


 僕は大声を上げようとして、体が動かないことに気付く。

 帰れ!ユウから離れろ!

 僕は念のようなものを体の中に溜め込んで、必死に祈った。いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。

「マチ、ユウ、もう家に入ろう」

 明恵さんに両肩を掴まれて我に返った。黒いかたまりは、いつの間にか消えていた。

 すっかり燃え尽きて灰になっている迎え火の後始末をすると、明恵さんは僕とユウの頭を撫でた。

 

 いつもと変わらぬ朝だった。

 早起きして集会場に集まると、同じ地域の仲間と墓地を回ってお供物を集めた。朝七時前には海に辿り着いた。浜には経を読む坊さんと、ご詠歌を歌うおばあさんたちが集まっていた。明恵さんの姿もあった。皆、数珠を手にして、火を点した線香を炊いていた。明恵さんは僕に気付くと大きく手を振って笑い、唇を動かして「がんばりな」と応援してくれた。セイトッコたちがお供物を集めている間に、大人たちはヤドでオショロ船を作って待っている。用意したオショロ船にはお墓と仏壇から下ろしてきたお供物と、「オショロさま」を乗せる。

 普段馴染んでいるはずのこの土地の、秘密めいた一面を見たようで、怖いような、わくわくするような落ち着かない気持ちがする。毎年のことなのに、心持ちは慣れない。

 セイトッコの子どもたちは泳いで船を沖に流し、再び浜に上がった後は、「オミシメサマ」という神様を新湯に入れるという最後の仕事がある。ここまで終えればお役目は終了で、集会場に用意された御馳走やお菓子を好きなだけ食べさせてもらって家に帰れる。皆の前で白いふんどし姿になるのも恥ずかしいし、朝の冷たい海に入るのはきついが、セイトッコをつとめることは、誇らしいことでもあった。父も、祖父も、セイトッコをつとめながら大人になってきたのだ──昨年までは無邪気にそう思っていた。


 僕は、いつの間にかセイトッコの中でも熟練の位置になっていた。先導を手伝いながら小さい新米たちの様子も見なければならない。怖いものが視えるからと言って、自分ばかり取り乱してはいられない。

 大きく息を吸い込んで覚悟を決める。冷たい海水の中に体を浸し、皆、無言で泳ぎ始める。頭の中で奇妙な音楽が鳴り響く。シンバルのような、銅鑼のような、金属を打ち鳴らす音が高く、長く途切れずに続く。

 そうしてどのくらいの距離を泳いだのだろう。沖合いに近付いてきただろうか?緊張のために体が強張り、判断力が鈍っていることを感じた。背筋を撫でる嫌な予感。首だ。

 僕は息を呑んだ。

──首が近くにいる。


 初めて見るわけではない。それなのに、僕の体はすくんで、前に動けなくなる。

 初めて見たときは、女の首が一つだけ浮かんでいた。しかし、年を追うごとに首の数が増えていた。一つの首を根城に、いくつもの顔がくっつき合い、大きなどす黒い塊となって漂っていた。

──きっと、海で命を落とした人々なのだろう。

 父もその一人だ、と考えると身震いがした。

 明らかにこの世のものではない、苦痛に歪んだいくつもの恐ろしい顔が貼りついて一つの首を形成している。体全体を絞られるような嫌悪感と恐怖感。


 首は今や、小さな船ほどの大きさになって、目の前に迫っていた。

 くびを

 音楽と重なり合うように、頭の中に言葉が刻まれる。まただ。

 くびをふねに

 恐怖でうまく回らない頭が、遅れて先程の言葉を変換する。

──首を船に?

「乗せるんだよマチ坊」

 ふいに、首の一つが口を開けた。真っ赤に濡れた舌先が見えた。肉づきがよく、頬骨の高い、それは明恵さんの顔をしていた。

 おおおおおお、と巨大な首の塊がうなり声を上げる。女のすすり泣きのような声も聞こえた。ゆっくりと恐怖心が落ち着くのを待ち、自分にくり返し言い聞かせる。首を船に乗せる。

 首を船に。そう、

「それはおまえにしかできない」

 僕は無我夢中で首に縋りつき、力任せにそれを持ち上げた。ぶよぶよした肉の塊に指が触れると、爪が薄い皮膚を簡単に突き破った。腐肉の断面が柘榴を連想させた。

 とうちゃんの死体と、そっくりだ。

 気を失いそうになったが、どうにか力を振り絞る。

 僕は、一抱えもある大きな首をオショロ船に放り込んだ。どーんという音とともに船が大きく揺れたが、沈むことはなかった。巨大な首の塊には、重量がないようだ。船はやがてゆるやかに潮の流れに乗った。

 まだ船の上で、首の塊が声を上げているのが聞こえる。

 おおおおおおおおおおお。

 僕は耳を塞いだ。緊張の糸は今にも切れそうだ。

 舟が沖へと流れていくと、僕は手を合わせてそれを見送った。


 浜では、たくさんの見物客とセイトッコの家族、世話役の人々が迎えてくれた。 少し離れた場所に、ユウを連れた明恵さんの姿が見えた。二人は寄り添うようにして、しかし見物客の群衆からは距離を置いて、ぽつんと立っていた。

 海から上がってきて、水をしたたらせながら浜を歩く僕を、ユウが見つけて走り寄ってきた。明恵さんも小走りに近付き、何も言わずに僕を抱きしめた。

「ごくろうさん、ありがとう」

 明恵さんの声は、しわがれて、かすかに震えていた。

「海で明恵さんに会ったよ」

 僕が言うと、明恵さんは曖昧に笑った。どこか寂しそうな笑顔だった。


 その年を最後に、僕はセイトッコをやめた。

 隣の街の施設に入ったことをきっかけに、生まれ育った地域を離れたのだ。

 施設では、職員の人も友達も、誰もが皆、親切にしてくれる。気ままな自宅での生活とは違い、施設にはたくさんのルールがあるが、決まり事を遂行するのは楽なことだ。何も考えず、大人によって正しいと判断されていることをやる。食事も寝床も用意された安全で健全な日々。

 ユウとはやがて生活する階が離れたが、友達もでき、口数が少ないながらも何とかやっているようだ。ユウにはユウの、新しい生活が出来つつある──。

 今まで世話を焼いてきた僕にとっては、寂しいような、嬉しいような複雑な気持ちだ。

 施設から海の方向を眺める。海を離れてから、海への思いがどんどん強くなるのを感じる。海水に触れたい。潮風を吸い込みたい。水に体を入れたときの感触と、ぬるい水を掻いて進むときの快感。

 いつの間にか海を思い浮かべて陶然としていると、ひやりと何かが僕の首筋を撫でる。僕は後ろを振り返った。

 僕もまた、海に呼ばれるのだろうか。

 呼ばれた先には何があるのだろう、と思いかけて、その不吉な予感を追い払うように左右に頭を振る。

「ごめんね、明恵さん」

 返答をするように、風が吹き抜けて僕の前髪を揺らした。


 明恵さんは、僕たちが施設に入ってすぐの頃から、定期的に会いに来てくれた。月に一度、手作りのお菓子を持って訊ねて来てくれていたが、翌年になるとふっつりと訪問が途絶えた。

 僕が最後のセイトッコをつとめた、ちょうど一年後に明恵さんは亡くなった。

 今でも彼女がこの世にいないなんて信じられなかった。

 いつも冗談ばかりだったけど、家族以上に僕たちを愛し、守ってくれた明恵さん。

 明恵さんは眠るように、静かに息を引き取ったと聞いた。彼女の全身を癌が蝕んでいたことを、僕は知らなかった。

 僕はセイトッコの大将をつとめることもなく、明恵さんをお盆に迎えることも出来ないんだ。

 押し殺していた感情を取り戻したように、突然涙がこぼれた。


 ユウが生まれる少し前だったかね。

 死んだはずの那美ちゃんがあたしに会いに来てくれたんだ。

 那美ちゃんは、着物姿だった。何だかきちんとした居住いでね、こっちも少し緊張したけど、「これはあたしの親友の那美ちゃんだから怖くないんだ」って自分に言い聞かせてた。

 あたしは那美ちゃんを、遊びに誘った。

「ゴムだんだんとか、石けりとかさ、やろうよ。昔みたいにさ」

 那美ちゃんの顔がぱっと明るくなってね。でも、いざやりだすと、急に那美ちゃん、動けなくなっちゃって。ハハハハッて笑いだした。そしていたずらっぽい顔で言った。

「あたし、死んだんだった。ノーコーソクで」

 昔通りの飾り気のない那美ちゃんだった。嬉しくてなつかしくて、涙が出たよ。那美ちゃんは、体が麻痺して動けないんだ、って身振り手振りでおしえてくれた。けど、ちっとも辛そうじゃなかったよ。

「あたしも同じだよ、那美ちゃん。もう体がダメなんだ」

 あたしも那美ちゃんに正直に言った。

 もうすぐ那美ちゃんのとこ、行くと思うから。

 そうしたら那美ちゃん、泣きそうな顔になってね。

「もう少しだけ頑張って。あたしの家を助けて」

 那美ちゃんの泣きそうな顔なんて子供のころ以来だ。

 喧嘩して、よくこの顔見たっけ。あたしは、何だかおかしくて笑ってしまった。悲しくて仕方がないのに、自然に笑顔になっていた。

 大丈夫だよ。すぐにでも行くよ。

 あたしはそう、那美ちゃんと約束した。

 あたしもね、マチ坊、見えないものが見えたんだ。

 

 僕は今でも、生まれた家の夢ばかり見る。

 誰も住んでいない、空っぽの家。ひんやりとした暗い玄関を入ると、日の差さない長い板張りの廊下がある。廊下を二、三歩進むと、足の裏に湿り気を感じる。

 足音がして振り返ると、まだほんの小さな頃のユウが小走りに廊下を駆けてこちらに寄ってくる。おばあさんに手を引かれている。僕は、何かを言おうと口を開く。幼い頃に死に別れた祖母だ、と気付いたのはしばらく経ってからだ。

 と、玄関の引き戸が乱暴に揺すられる。僕とユウは怯えて肩をすくめるが、おばあさんは鷹揚に笑って、ゆっくりと玄関の鍵を開ける。

 かちゃり、と掛け金の外れる音がする。

「とうちゃん!」ユウが叫ぶ。久しぶりにはしゃいだ声のユウを、おばあさんが慈しむように見ている。父は笑っている。ああそうだ、父はこんなふうだった。がっしりとした厚い肩、無骨な笑顔。父は仏頂面を急に崩して、満面の笑みをつくる。

 僕は父にしがみついた。父のごつごつした手が、僕の体を受け止めた。

 母だけがいない。

 僕は見えない母に呼びかける。

「とうちゃんが帰ってきたよ」


 皆が寝静まった部屋の中で、僕は目を覚ます。あの日、母は裸足で外に出た。灯りが消えた家並みを、母は一つ一つ、見るともなく見ていた。頭の中に薄い膜が張ったようで、何も考えられず、目に映るものは心に届かない。母は抜けがらだった。母が辿った道を、同じように僕も歩く。お地蔵さんが二体、細い道の角に立っている。赤い前掛けと、誰かが絶えず置いておくお供え物。足元に小さな白い花が供えられ、夜の中で淡く光る。

 砂利道を歩き続け、やがてアスファルトの道に出ると、目指すヤマモモの大木が見えてきた。一台の車が僕を追い越し、小さくなっていく後姿を目で追う。

 母の歩みは止まらなかった。

 かあちゃん、と僕は母を呼んだ。

 母は一瞬、振り返りはしなかったか。


 ヤマモモの木にぶらさがると、わずかだが、僕たちの家の屋根が見えた。

 母は、灯りの消えた部屋に眠る家族を思い、最後に微笑んだ。

 僕は暗闇の中で手を伸ばし、いつまでも母を呼び続けた。


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