真実

 ここに来るのはいつぶりだろう。


 見覚えのある保育園を横目に住宅街を歩く。


 心臓が静かに脈打つ音が頭に響く。


 握りしめた手には汗が滲み、時折吐き気が込み上げてくる。


 それでも、俺は歩いた。


 やがて、古びた木造アパートが見えてきた。


 そこで足を止めると、かつての俺が暮らしていた2階の角部屋を仰ぎ見る。


 とてもよく晴れた秋の空を背景に、洗濯物が揺れていた。


 何故、ここへ来てしまったのか。


 もう“友梨”はいないかもしれないのに。


 いたとしても会ってどうするのだ。


 自問自答し、俺は苦笑した。それから踵を返そうとした時、アパートの階段から1人の中学生くらいの少女が降りてきた。


 思わず、その少女を見つめていると、すぐ後ろから中年女性が追いかけてきた。


「友梨! ひとりで行っちゃダメって言ってるでしょう!」


 友梨、と呼ばれた少女は虚無の眼差しを女性へ向けた。


「……お母さん……」


 俺は呟いた。


 その声は2人に届くはずもない程の小さなものだったが、友梨はゆっくりと振り向き、こちらへ顔を向けた。


 空っぽだった。


 友梨の瞳には一切の光はなく、あるのは空虚のみだった。


 自分が知るよりも成長した友梨と母・友佳里ゆかりの姿。面影こそあったが、記憶にあるものとは大きく違っていた。


 母と手を繋いだ記憶など無かったが、目の前の2人は手を繋ぎ階段を降りている。


 あの頃。一緒にいても自分を見ることがなかった母が、友梨を優しく見つめ話しかけている。


 そんな光景を固唾を飲んで見守っていると、友梨がこちらへ歩いて来た。


「え、友梨、どこへ行くの?」


 友梨に手を引かれて2人が目の前まで歩いてくる。


「あの……この子の知り合いか何か?」


 母が怪訝な表情で問いかけてきた。

 俺は無言でゴクリと唾を飲む。


「……ごめんなさい。そんなわけないわよね。この子は5歳の頃に記憶も言葉も――感情すら無くしてしまったのだから……」


 あれから8年。

 母はまだ32歳くらいのはずなのに、どう見てもそれよりも5歳は老けて見える。それに随分と痩せた。


「お……思い出しました。僕は昔この辺りに住んでいて彼女と公園で遊んだことがある……と思います」


 何故かそんな言葉が口から出た。


 母の目が大きく開かれるが、友梨は変わらず瞬きもせず、こちらを向いている。


「お願い……! 何でもいいの……! 一体この子に何があったの!?」


 両肩を捕まれ、鬼気迫る勢いの母に思わずたじろいた。


「ごめん……なさい……。何があったなんて……私達親がこの子ときちんと向き合ってなかったからなのに……」


 そう言って俺の肩から手を下ろすと、今度は涙を流した。


「話を……聞かせてもらってもいいですか?」


 頷く母と、友梨、そして俺の3人は近くの公園に来た。


 休日の公園には父親と一緒に遊びに来ている子どもの姿が多く見えた。


 空いていたベンチへ3人で座ると、母が少し遠くの砂場を見ながら静かに話し始めた。


「お恥ずかしい話なんですけどね。この子は所謂できちゃった婚で生まれた子なんです」


 友梨も砂場の方を向いているようだが、果たして見ているのかは分からない。


「主人も私もまだ若くて……当然親からは結婚を反対されてね。それでも産みたかったから産んだの。でも、主人のお給料は微々たるもので、あの古いアパートの家賃と、毎日ご飯を食べるだけでいっぱいいっぱいでね、この子が0歳の時に保育園に入れて私も働き出した……」


 俺が黙っていると母は話を続けた。


「家族のために、この子のために、そう思ってがむしゃらに働いていたけど、いつしかいちばん大切な事が見えなくなってた」


 そう言って唇を噛む。


「この子がこうなってしまったのは、私たちのせいなの。やっと主人だけの稼ぎで食べていけるようになったから、こうしてこの子の傍に居られるようになって本当によかった……」


 母は表情のない友梨の頭を愛おしそうに撫でた。


「ごめんなさい……。あなたにこんな話をしてしまって。でも、ずっと……私もこの子も孤独だったから誰かに聞いて欲しかったのかもしれない」


 俺の頬には幾筋もの涙が伝い、顎の先から水滴がとめどなく落ちていた。


「……愛しているんですか?」


 俺が絞り出した声に、母は笑って頷いた。


「愛しているわ。この子が例えこの先ずっと私のことを目に映してくれなくても……友梨は友梨だもの。何にも変えられないの」


 頭を思い切り殴られたような衝撃を感じた。


 人が羨むものを何も持っていない、人形でしかない友梨自分に俺は――嫉妬した。


 そうだ。


 【私】は、いつも愛されたかったのだ。


「……妬けますね……こんなに友梨ちゃんはお母さんに愛されて……」


 戻りたい。初めてそう思った。


 こんな能力ちからさえ無ければ。


 亜美も、榎本の人生も私が狂わせてしまった。


「珍しい人ね。この子に妬いてくれるなんて……でも、ありがとう」


 人は自分が欲しいと思うものが手に入らないと、それを持っている人間に嫉妬する。


 だったら、努力してみればいい。


 足掻いてみればいい。


 嫉妬を覚えることは、未来の自分を変えるチャンスなのだから。

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