帰って来たよ。

小高まあな

第1話

 ジリジリと、太陽が肌を焦がす。セミの鳴き声が、鬱陶しい。ジージーと鳴くソレは、ミンミンという都会のものとは違っていて、どこか懐かしい。

 一年ぶりに帰って来た田舎は、何も変わっていなかった。

 畑の横を通って、実家に向かう。

「ただいまー」

 このご時世にも、昔と変わらず鍵をかけない玄関をあける。靴がずらりと並んでいた。

 三年前、東京の大学に進学して、はじめてお盆に帰省したときは、この光景に驚いた。お盆に親戚が集まるのは子どものころから当たり前のことだったけれども、玄関に並ぶ靴を入り口から見たのは初めてだったからだ。

 自分の靴は隅に寄せて、あがる。

 中からは健次郎叔父さんの笑い声がする。独特の引き笑い。変わらないなー。

 一旦、二階の自室に向かう。私の部屋は、昔と変わらず、そのままにしてあった。母は定期的に掃除してくれているみたいだ。

「ただいま」

 ベッドの上に並んでいる、お気に入りのウサギのぬいぐるみに笑いかけた。ほんの少し感傷に浸ってから、一階に降りる。

 いつもみんなが集まる和室に向かうと、案の定、親戚が揃っていた。総勢二十八人。赤ん坊もいれて、だけど。

 適当に挨拶しながら、末席に腰をおろす。

 みんな元気そうで何よりだ。

 斜め前には、従兄の宗一兄ちゃんがいた。引きこもりがちなニートの宗一兄ちゃんは、親戚中の懸案事項だが、今年は来たらしい。去年のお盆には、来なかったのに。

 来なかった、ということになっているのに。

 宗一兄ちゃんは、周りの喧噪に顔を背けて、俯いて、一人でちびちびとビールを舐めるようにして飲んでいる。

「宗一くんは、最近どうなんだい?」

 誰かの質問にも宗一兄ちゃんは答えない。何しに来たんだか。

「ちょっと、宗一」

 美里叔母さんが宗一兄ちゃんを軽くつっつくが、やっぱり宗一兄ちゃんは俯いたまま。

 部屋の中の空気が、ちょっと凍った。

「ごめんなさいねー、この子は本当に」

「……いやいや」

「こうやってここに来るようになった分、進歩じゃないか。なあ」

「そうだなー」

 大人達が空気のリカバーに走る。フォローしきれているのかは、甚だ疑問だが。

「千尋ちゃんの新盆だからね」

 しかし、美里叔母さんの言葉に、再び部屋の中が凍った。

 私は人知れず、そっとため息をついた。

 みんな、それはわかっているけれども、口にしないように避けていたのに。美里叔母さんは、やっぱり宗一兄ちゃんの母親だ。どこかずれている。

「千尋ちゃんも、可哀想よねぇ」

 美里叔母さんは、そんな空気に気づくことなく続ける。

「あんなに気をつけていたのに、なんでピーナッツが入ってるものなんて、食べちゃったのかしらねぇー。もう、大人だったのにねぇ」

 美里叔母さんの言葉は、ぽんっとテーブルの上に置かれた。放り投げられたそれを、誰もがどう手をつけていいのかわからず、黙りこくる。

 仁科千里は、去年の八月、お盆過ぎ、亡くなった。この家で。

 もともと、ピーナッツアレルギーを持っていた仁科千里は、ピーナッツの入ったクッキーを誤って口にして、死んだ。

「……そうねぇ。そうなのよねぇ」

 最初に呟いたのは、仁科千里の母だった。

「どうして、なのかしらね」

 それだけ呟くと、彼女はゆっくりと席を立ち、どこかに消えて行った。

 追いかけようかと、腰を浮かしかけたが、思いとどまる。私が行って、何になるというのだ。

 美里叔母さんが、旦那さんである佑助叔父さんに叱られている。空気を読めと。叔母さんは、でもでもだって事実じゃない、とよく分からない言い訳を繰り広げている。

 そういうところは、本当に宗一兄ちゃんとよく似ている。

 どうして仁科千尋は、アレルゲン物質を口にしてしまったのか。私はそれを知っている。

 知っているのは、私だけじゃない。

 相変わらず俯いて、我関せずとでも言いたげに、ビールを舐めている宗一兄ちゃん。

 何も変わらないように見えるけれども、その手が小刻みに震えている。

 私は知っているよ、宗一兄ちゃん。一年前、宗一兄ちゃんが何をしたのかを。

 私はね、宗一兄ちゃん。

 テーブルの上に片手をつくと、身をのりだし、俯いたままの宗一兄ちゃんに顔を近づける。

「断罪しに帰って来たんだよ」

 叔父さんの声に紛れるようにして呟く。宗一兄ちゃんにだけ聞こえるように。

 弾かれたように、宗一兄ちゃんが顔をあげた。長い前髪の隙間から、青白い顔が見える。大きく見開かれた目。

 怯えたように辺りを見回す。

 私は何事もなかったかのように、元の位置に座った。

「……宗一?」

 突然の宗一兄ちゃんの行動に、怒られていた叔母さんも、怒っていた叔父さんも、みんなの視線が宗一兄ちゃんに集まる。

「どうしたの? そんな、幽霊でも見たような顔をして」

 死者の話をしていた中、洒落にならない叔母さんの言葉に、

「だからお前は!」

 叔父さんがまた声を荒げる。

「……なんでもない」

 宗一兄ちゃんは絞りだすようにしてそう言うと、また俯いた。

 かたかたと、わかりやすいぐらい手が震えている。ビールの表面が波立っている。

 私は知っているよ、宗一兄ちゃん。宗一兄ちゃんが珍しく、ここに来た理由。暴かれることが、怖かったんだよね。

 自分が居ない間に、仁科千尋の死因について、誰かがに暴かれるのが怖かったんだよね。

 大丈夫だよ、心配しないで。

「私がちゃんと暴いてあげるから」

 そのために私は、帰って来たのだから。


 仁科千尋は、本当に気を使っていた。

 ナッツ類を口にしないように。

 幼い頃、初めてピーナッツを食べた時、仁科千尋は病院に搬送されたという。

 顔を真っ赤にして、ぜぇぜぇと息をする幼い娘が、今にでも死んでしまうのではないかと思った、と、仁科千尋の母親は何度も彼女に言って聞かせた。

 だから、ナッツ類は決して口にしないように、と。あのときは運良く助かったけれども、次もそうだとは限らないから、と。

 なのに、仁科千尋は、ピーナッツを食べて、アナフィラキシーショックを起こし、死んだ。

 この家の二階の部屋で、人知れず倒れ、発見されたときには手遅れだった。一人で、誰にも看取られず、ぜぇぜぇと喘いで、死んだ。

 みんな、そう思っている。

 でも、それは違う。

 一人、見ていた人がいる。仁科千尋が苦しんでいる時、救急車も、誰の助けも呼ばず、手も差し伸べず、ただ見ていた人が居る。

 そんな人がよく、しれっとこの場所にいることができるね。仁科千尋の新盆に、よくのこのこやってきたよね。

 ねぇ、宗一兄ちゃん、そうは思わない?


 私が帰って来た翌日、お坊さんを招いて、読経してもらう。昨日は来ていなかった親戚も、集まって来た。

 毎年恒例のことだが、今年は少し意味合いが違う。仁科千尋の新盆だから。親戚間で若くして亡くなったのは、仁科千尋が久々だから。

 若い人が亡くなるのは、未来ある若者が亡くなるのは、老人が亡くなるのとは、やはり少し、勝手が違う。

 だからいつもよりも、真面目にやろう。いつもなあなあの儀式と化しているけれども、今年は少し真面目にやろう。

 みんな、そう思っているのだ。

 私は一番後ろに座り、宗一兄ちゃんの後頭部を見つめる。

 俯いたその顔は、閉じられた瞳は、あわせられた手は、仁科千尋の魂の安寧の祈りのためではない。

 いや、ある意味誰よりも、仁科千尋の魂の行く末を憂いているのは彼だろう。

 誰よりも、仁科千尋の魂に、安らかに眠りについていて欲しいのは彼だろう。

 恨まれているのじゃないか、呪われているのじゃないか。そんなことあるわけないと思いつつ、彼はきっとそう思っている。

 だから誰よりもきつく目を閉じて、手を合わせて、宗一兄ちゃんは頭をたれていた。


 こまごまとした儀式が終わり、大人達はまは何か思い出話をはじめている。小さな子ども達は、わいわいトランプに興じている。

 そのどちらの輪にも入れず、宗一兄ちゃんは縁側に座っていた。ぼーっと外を見ている。

 彼の横には、子ども達が作った胡瓜の馬と茄子の牛が置いてある。

 ご先祖様は、胡瓜の馬に乗ってこちらに帰ってきて、茄子の牛に乗って帰って行くのだという。

 そう、今はお盆なのだ。死者の魂は、帰ってくる。

「宗一兄ちゃん」

 隣に腰をおろし、外を見ている宗一兄ちゃんの耳元に、そっと囁いた。

「仁科千尋だって、帰ってくるよ。胡瓜の馬に乗って帰って来て、全てを、暴くよ」

 囁き終わると、ぎょっとしたような顔をして、宗一お兄ちゃんはこちらを見た。私は微笑む。

「なんでっ」

 悲鳴のようにあげかけられた言葉は、

「そーいちにーちゃん?」

 大きな声に驚いた、ちびっ子達の不思議そうな声に飲み込まれた。

 なんでもないと言いたげに、また庭に視線を移す。

 臆病な彼は、これぐらいじゃ何も言わない。誰かに文句を言ったりしない。下手なことを言って墓穴を掘ったら怖いから、私のことを誰かにちくったりしない。

 私はそれがわかっているから、思う存分、呪いの言葉を吐き出せる。

「そうだよね、悲鳴なんてあげられないよね。聞かれたら困っちゃうもんね。どうしたの? って聞かれても本当のこと言えないよね」

 宗一兄ちゃんは、もうこちらを見ない。

 ただ、睨むように庭のサルスベリの木を見ている。それは、けっしてこちらを向くまい、という強い意志のあらわれ。

 太ももの上で握りしめられた拳が、ぷるぷると震えている。

 そっと、それに自分の右手を重ねる。

 一瞬、ぴくりと宗一兄ちゃんの肩が動いた。怯えるように。

 でも、やっぱり、彼はそれを無視した。何事もなかったかのように視線を前に向け続けていた。

「なんでもなかったら、こんなに怯えないものね。怯えるっていうことは、やましいことがあるってことだものね。言えないよね」

 甘く甘く、囁く。

 私はこのために、帰って来たの。

 宗一兄ちゃんを断罪するために、帰って来たのだ。

「自分が仁科千尋を殺したなんて、言えないよね」

 真っ青になった宗一兄ちゃんが、ぎゅっと瞳を閉じた。

 この世の全てから、関わりを断ちたいとでも言いたげに。

 私がさらに言葉を重ねようとしたとき、

「そーいちー、ちょっと手伝ってー」

 叔母さんの声がそれを遮った。

「今行く」

 宗一兄ちゃんは早口で言うと、逃げるように立ち上がり、奥に向かう。いつにない俊敏な動きだ。

「あら、あんた素直じゃない。珍しい」

 叔母さんの声がする。

 私はそれを聞きながら、小さく微笑んだ。

 宗一兄ちゃんが蹴飛ばしていった、胡瓜の馬をきちんと立たせる。

 お盆はあと二日。それが終わったら、ご先祖様は茄子の牛に乗って帰って行くという。

 それまでに、片を付けよう。


 宗一兄ちゃんが、仁科千尋を殺したという証拠はない。あれば、話が早かったんだけれども。

 だから、私にできるのはただ宗一兄ちゃんを追い詰めるだけ。言葉で追い詰めるだけ。

 私は知っているのだと、仁科千尋の死因を知っているのだと、それが誰のせいか知っているのだと、ただ宣言しながら追い詰めるだけしかできない。

 タイミングを見計らって、何度も。何度も。

 みんなの目を盗み、隙を見ては耳元で囁く。何度も、何度も。

「ねぇ、宗一兄ちゃん。仁科千尋は、帰って来るよ。お盆だもの」

 私が告げると、宗一兄ちゃんはぐっと拳を握った。返事はない。

 視線はどこか余所に向けられている。決して声の方向を見ないぞ、という強い意志が、握られた拳にあらわれている。

 意外と頑固だから困る。

 仕方なく、私は宗一兄ちゃんの前に回り込んだ。

「ねぇ、宗一兄ちゃん」

 正面から目を見つめる。

 宗一兄ちゃんの、驚いたような顔。見開いた、瞳。

 じっと、私の顔に向けられている。

 ああ、ようやく、目があった。

 ようやく、私を見てくれた。

 ようやく、ここまできた。

「ひっ!」

 一拍置いて、宗一兄ちゃんは悲鳴のような声をあげて、後ろに飛び退いた。

 がっしゃん。

 宗一兄ちゃんの後ろにあった棚に、派手にぶつかる。

 飾ってあった小物が、落ちた。

「ちょっと、宗一」

 叔母さんが呆れたような声を出す。

「何しているの、あなた」

 言いながら、叔母さんが小物を拾い上げる。

 宗一兄ちゃんは、棚にへばりつくように背中を預けたまま、目がそらせないかのように私をまっすぐ見ていた。

 目をそらして、その隙にどこかに行ってしまったら困る、とでも言いたげに。

「わかるよ、宗一兄ちゃん。私もゴキブリがでたとき、怖いけど見てなくちゃいけない気分になるもの」

 ふざけたように答えると、宗一兄ちゃんは泣きそうな顔をした。

 せっかく私が、おどけてあげたのに……。

「宗一くん? どうしたの?」

明らかに様子のおかしい宗一兄ちゃんを見て、親戚が集まってくる。

「宗一?」

「い……、いるんだ!」

 宗一兄ちゃんが、私の方を指さしながら叫ぶ。

「いるんだ! いるんだよ! 千尋がいるんだっ!」

 その言葉に、周りが一瞬静まる。

「宗一? 何を言っているの?」

叔母さんの困惑した声。

「やっぱり、何かやってるんじゃ」

 そんな無責任な内緒話も聞こえる。何かって、薬? 宗一兄ちゃんってば、そんな噂されていたんだ。でもまあ、いつも無口で青白い顔をしているから、そう思うのも無理もないかもしれない。

「本当にいるんだ、いるんだよっ! 最初は声だけだったんだ! ここに来たときは、ちょっと声が聞こえるだけだったんだ! だけど、今はもう、姿が見えるんだ! そこにいるんだ! いるんだよ! なあ、母さん、見えるだろっ!」

 そこにっ! と宗一兄ちゃんは叫び、私を指さす。

 叔母さんも母も、みんなが怪訝そうに宗一兄ちゃんの指先を追い、

「……何もいないじゃない」

 呆れたように、心配したように呟いた。

 私は、仁科千尋は、それに、小さく笑う。

「いるじゃないか! ほらっ! 笑ってるっ!」

「宗一、いい加減にしなさい。冗談言っている場合じゃないのよ」

 怒ったような叔母さんの言葉を、遮るように、

「ねぇ、本当なの?」

 二人の間に体を滑り込ませる人物がいた。母だ。私の、仁科千尋の。

「本当に、千尋がいるのっ?」

 お母さんが、宗一兄ちゃんの肩を揺さぶる。宗一兄ちゃんは、バカみたいに何度も何度も頷く。

「そんな……」

 お母さんは泣きそうな顔で言葉に詰まり、

「千尋っ!」

 お母さんが叫ぶ。

「いるのっ!?」

 辺りを見回す。

 だけど、お母さん、ごめんね。お母さんには、仁科千尋は見えない。

 私の姿は見えない。

「あのね、宗一兄ちゃん。私の声が聞こえるのも、姿が見えるのも、宗一兄ちゃんだけなんだよ」

 お母さんの横をすっとすり抜けて、宗一兄ちゃんの目の前に立つ。

 ひっと宗一兄ちゃんが悲鳴をあげた。

「一人だけって言われたの。こちらに戻ってくる時に、姿を見せてもいいのは一人だけって。誰にするのか決めなさいって。私、迷わず、宗一兄ちゃんに決めたよ」

「だっ、なんでっ」

「なんでだか、宗一兄ちゃんならわかるよね?」

 私はにっこりと微笑んだ。

「俺がっ」

 宗一兄ちゃんが後ろに逃げようとする。でもダメだよ、すぐ後ろに棚があるじゃない? それもわからなくなっちゃった?

「わかるよね?」

「違うっ」

「何が違うの?」

 私は距離をつめていく。

 顔がぶつかりそうなぐらい近くに。キスでもするかのように。

「わかるよね、宗一兄ちゃん」

 わかるって言うまで、ここからどいてあげない。

 だって私は、そのために帰って来たのだもの。

 宗一兄ちゃんは、怯えたように私を見て、いやいやをする子どものように首を横にふった。何度も何度も。

「違う違う違う」

「何が違うの、ちゃんと言って」

 宗一兄ちゃんの頬に手をあて、優しく微笑んでみせる。

 恐怖で歪んだ汚い顔で、

「死ぬなんて思ってなかったんだ! 本当にっ!」

 叫ぶようにして、宗一兄ちゃんは答えた。

「宗一?」

「宗一くん?」

 まわりの親戚の、困惑した表情。

「だって、アレルギーだなんて、そんなの、嘘だって。死ぬなんて、思わなくって。だって、ちょっと赤くなるぐらいかなって思って。だって、みんなそうだったから。子どものころの友達。甘えてるって、甘やかされてるって。ずるいって。千尋はずるいって、ずっと思ってて。小さいころからずっと、千尋は優秀だって言われてて。比べられて。今だって、東京の大学行って、俺は中退したのに。みんなにニートって言われているのに。役立たずって言われるのに。なのに千尋は、将来有望だって言われて、ずるいって。ずるいから。ちょっと困らせてやれって。本当にそれだけで」

 宗一兄ちゃんは、高い声で、早口でそこまで言ったあと、

「死ぬなんて思ってなかったんだよっ!」

 もう一度、叫んだ。

 そのまま、うわぁぁと叫び、しゃがみ込むと、泣き出した。

「泣きたいのは、私の方なんだけど」

 そんな理由で、殺されて。

「私が、どれだけ苦しかったわかってるの? ねぇ、宗一兄ちゃん。わかっているよね。見ていたもんね。私が苦しんでいるところ、ずっと」

 私もしゃがみこむと、宗一兄ちゃんの前で延々と呪詛の言葉を吐き出す。

「助けを呼んでくれてもよかったのに。自分がやったことがバレるのが怖くて、見ないふりをして、逃げた」

 息が出来なくて、苦しくて。

 逃げて行く宗一兄ちゃんの後ろ姿に、絶望した。

「あの時、すぐに助けを呼んでくれたら、宗一兄ちゃんに食べさせられたこと、黙っていてあげてもよかったのに」

 聞いているのか、聞いていないのか、宗一兄ちゃんはずっと泣いている。子どもみたいに。

 宗一兄ちゃんの告白のあと、しーんと静まりかえっていた大人達は、ようやく事態が理解できたらしい。宗一兄ちゃんの言葉の意味が、浸透したようだ。

「ちょ、ちょっとまって、宗一!」

 最初に我に返った叔母さんが、慌てたように息子の隣にしゃがみ込む。

「それじゃあ、あんたがまるで、千尋ちゃんを殺したみたいじゃないのっ」

「みたいじゃなくって、事実そうなんだよ、叔母さん」

 鈍い叔母さんに呆れて、私は呟く。私の声は届かないけれども。

 宗一兄ちゃんの嗚咽がより、大きくなった。

「泣いてないで、ちゃんと言いなさい! 宗一!」

 叔母さんが怒鳴ると、

「お、おれが……」

 宗一兄ちゃんは怯えながら、泣きながら、つっかえつっかえになりながらも、罪を告白した。

「俺が、千尋に、食べさせた、クッキー」

 ひっと誰かが悲鳴のような声をあげた。

「よく言えました」

 みんなが宗一兄ちゃんを責めるから、私だけは、宗一兄ちゃんを褒めてあげることにした。手を伸ばし、頭を撫でる。

 よく、自分から言えました。

 せっかく褒めてあげたのに、宗一兄ちゃんは、私を見て怯えた顔をして、また泣き出した。失礼な。

「そんな、どうして……」

 叔母さんが力なく呟く。

 大体、仁科千尋が、私が、自分からピーナッツの入ったクッキーなんて、食べるわけがないのだ。

 みんな、どうしてどうして、と呟くけれども、誰もそこは疑っていないかったことが、私には不愉快だ。自分から食べるわけがないと、誰か一人ぐらい言ってくれてもいいじゃないか。

 そうして疑問に思ってくれたら、私がわざわざ断罪しに戻ってくることもなかったのに。

 私は、自分からピーナッツの入ったクッキーを食べたんじゃない。

 食べさせられたのだ。

 宗一兄ちゃんに。


 一年前のあの日、酔っぱらった親戚の大人達が寝静まったころ。自分の部屋で本を読んでいた私のところに宗一兄ちゃんはやってきた。

「千尋」

「宗一兄ちゃん? どうしたの?」

 昼間はいなかったのに、なんでこんな時間に来たのか。家でひきこもっていたんじゃなかったのか。

「法事とか、ちゃんとでないと。また叔母さん嫌味言われてたよ」

 宗一兄ちゃんは私の言葉を無視して、

「これ、食べなよ」

 差し出されたのはクッキー。見るからにピーナッツが入っている。

「……いいよ、だってそれ、ピーナッツはいっているでしょう?」

「食べなよ」

 私の返事なんて無視して、宗一兄ちゃんはクッキーを突き出してくる。

 なんでこの人は、親戚の行事を無視したくせに、こんな時間にピーナッツの入ったクッキーなんか持って来るのか。意味がわからん。

 そう思ってみると、宗一兄ちゃんの顔は赤かった。

「お酒飲んでるの? 叔母さんたちなら、客間で寝てるよ」

 どうしようもないなーと思いながら続ける。

「千尋」

 それを宗一兄ちゃんが遮った。

 なんだか嫌に、真面目な顔をしていた。

「……なんなの」

 なんだか怖くなって、椅子から立ち上がろうとしたところを、

「千尋っ!」

 がっと腕を掴まれ、肩を押され、椅子に座らされた。

 これは本当に酔っている。

 やばい、誰か呼ばなくっちゃ。大声をあげようと口を開いたところ、

「んぐっ」

 口に何かを押し込まれた。

 ほのかに甘い。

 やばい、さっきのクッキーだ。

 吐き出そうとしたところを、更に何枚か押し込まれる。さらに、大きな手で口と鼻を塞がれた。

 なんでっ。

 宗一兄ちゃんは真顔だった。

「甘えてるから、千尋が」

 息が出来ない。

 ?みこんじゃいけない。吐き出さないと。

 そう思うのに、口がふさがれていて、息ができなくて、詰まっているものをどうにかしようと、体は勝手にクッキーを飲み込もうとする。

 やばい。

 ある程度?みこんでしまったところで、宗一兄ちゃんはようやく手を離してくれた。

 慌てて、クッキーを吐き出す。

「なん、で」

 言おうとした矢先に、ぐっと気道がふさがれる感覚。

 吐き気。

「うっ……」

 息ができない。

 苦しい。

 座ってられなくて、床に倒れこむ。

 ぐしゃり、と私が吐き出したクッキーが体の下で潰れた。

 宗一兄ちゃんに、手を伸ばす。

「たす……」

 助けて。

 だけど宗一兄ちゃんは、真っ青な顔をして、さっきまで真っ赤だったのに、今は真っ青な顔をして、私を呆然と見ているだけ。

 役立たず。

 ぜえぜえと喘ぐ私を見下ろしていた宗一兄ちゃんは、

「お、俺じゃない……」

 そんな謎の言葉を残して、くるりと後ろを向くと、部屋から出て行った。

 あ、本当にこの人だめだ。

 そう思って、私の意識は途絶えた。


 宗一兄ちゃんの、途切れ途切れの告白を聞いて、親戚のみんなは固まっていた。

「どうして……」

 お母さんが小さく呟き、

「どうしてよっ!!!」

 宗一兄ちゃんの肩を激しく揺さぶる。

「あんたがっ!」

 手を挙げようとしたお母さんを、

「わっ、ちょっ!」

 慌てて親戚のみんなが引き止める。

「ま、気持ちはわかるけど」

「ちょっと待って!」

 口々にそう言う。

 お母さんは両手で顔を覆うと、そのまま座りこんでしまった。

「千尋っ、千尋千尋千尋っ」

 ああ、ごめんね。お母さん。お母さんを、悲しませたいわけじゃなかったの。

 ただ、はっきりさせたかった。

「俺じゃない、俺じゃ……、俺は悪くない」

 宗一兄ちゃんは、この後に及んでまだそんなことを言っている。

「宗一っ!」

 叔母さんが止める暇もなく、その顔を叩いた。誰かが悲鳴をあげる。

 みんながばたばたと騒がしい。

 小さな子供たちは泣き出してしまった。

 私は、ため息をつく。最初の段階で、素直に謝ってくれたら、許そうと思っていたのに。あとは見守るだけで、終わろうと思ったのに。

 でも、この人はかけらも反省してなかった。自分が可愛いだけだった。

 こんな人に、私は、殺されたのだ。

 宗一兄ちゃんは俺じゃないってうわ言のように繰り返している、お母さんは気を失いそうだし、叔母さんは喚いているし、子供たちは泣いているし。

 ああ、とんだ親戚の集まりになってしまった。ごめんなさい。

 親戚の平穏よりも、自分の復讐を私は選んだ。

 こんなことをしても、何も解決するわけじゃないとわかっていながらも。

 だから私は……。

「宗一兄ちゃん」

 微笑みながら、宗一兄ちゃんに声をかける。

「これからはずっと、宗一兄ちゃんのそばにいるから。見守っててあげるね」

 ひっと宗一兄ちゃんが悲鳴をあげる。


 私はもう、あの世には帰れない。

 いつの間にか、私の足に巻きついている黒い鎖。

 本当は、言い残したお別れを、夢に出るという形で伝えることだけが許されていた。それだけのために、私はこの世に戻ることを許されていた。

 でも私は、宗一兄ちゃんに復讐することを選んだ。母を悲しませ、親戚を混乱させるとわかっていても、自分の復讐を選んだ。

 もっとも、私の死因について疑いを持たなかった家族や親戚に、なんの恨みもなかったかと言われれば、答えは否だけど。誰かが疑ってくれれば、こんなことにはならなかったのに。

 そんな黒い感情に支配されて動いた私は、もうあの世には戻れない。私はもはや、悪しき存在。いわゆる、悪霊、地縛霊だ。

「宗一兄ちゃんに、取り憑いてあげる」

 微笑む。

 怨嗟の言葉を吐くたびに、ずしりと足に巻きつく鎖が増えていく。

 この鎖に全身が覆われた時、きっと私は、今度こそ本当に消えるのだろ。そんな気がする。

「私の存在をかけて、宗一兄ちゃんを見守るね」

 大騒ぎの親戚のなか、私の心はとても穏やかだった。

「仁科千尋はね、復讐するために帰ってきたの」

「俺じゃ、ない……」

 宗一兄ちゃんの、かすれた言葉。

「ずっとずっと、宗一兄ちゃんが仁科千尋のことを忘れないように、自分の罪を心から反省できるまで、ずっとそばにいてあげるね」

 足に巻きつく、黒い鎖。


 誰かが蹴っ飛ばしたのか、足が一本もげた、茄子の牛が、私の足元に転がってきた。

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帰って来たよ。 小高まあな @kmaana

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