ゆびの記憶

@gregariousgogo

第1話



 その青いドアには、思い出がたくさんある。塗装が無惨に剥がれおちた青いドア。マリアナはチラリと床を見つめる。その赤茶色の床に青い雪が降ったまま、そのまま放置されていたこともあったかもしれない。一瞬、マリアナはそう思う。しかしその名残はくすんだ赤茶色のなかに、すでに埋没してしまっている。ふと彼女は、昔まるで寝転がるようにドアへ頬をベタリとつけていたのを思い出す。うららかな春の日、左の耳で鳥や虫の鳴き声を感じながら、右の耳では木のうなり声を感じていたのだ。そして頬では心地のよい冷たさがゆるやかに渦を巻いていた。マリアナはまた思い出す。ときどき、そのおかしな体勢のままで眠りそうになっていたことを。そんなときは母親であるルミニツァに叱られていた。

 「もう、なんでそんなことしてるの」

 同じく小さな娘の母親になったマリアナはその響きを再びあじわう。また別の感慨を以て。声のあとに、きまってマリアナは肩を掴まれて、青いドアから剥がされていた。

 そんなに強くひっぱらなくてもいいのに。

 彼女はそんなことを毎回感じていた。今回はいつも以上に、ある種の嫌悪感すら伴いながら、それを感じた。

 マリアナはしばらく、青いドアを見つめていたけれども、そのうちに、あの時と同じように頬をドアにつけてみる。左の耳には夜の静寂と、またたくような虫たちの響き。右の耳にはあの時と変わることのない木のうなり声。すこし不穏に響いていたこの声も、今は懐かしく心地よい。しかし彼女は気づく。そのうなり声のなかに、何か不思議なノイズが混じることを。紙を細かく軽く破るような雑音だ。耳をすませてみる。なにかはわからない。しかし聴いていると心がザワザワすることに、マリアナは気づいた。

 マリアナは少しの間後ろに下がって、再び青いドアを眺める。この家に数日間滞在していながらも、この青いドアだけはどうしても開く気になれなかった。その答えはもう既に分かっていたけれど、あのノイズを聞いて直面せざるをえなくなったとマリアナは感じている。唾を呑みこむ。てのひらに沸きあがる汗を握りしめる。そしてドアを開けようと、そう決意する。手垢まみれのドアノブ。昔はここには自分の痕跡があったかもしれないが、今はもう母親のものしかないはずだった。ゆっくりと右の手を近づけて、汗もろとも握りしめていく。ドアとは違い酷薄な凍てつきが、そこにはあった。それは紫色の針のようにマリアナの皮膚へと潜りこんでくる。不気味な感覚に襲われる。それでも彼女はドアノブを回して、ドアを開いた。

 真っ暗な闇に、月の光がフワフワと漂うのが、まず目に映った。そしてそのうち、自分の背後から差してくる黄色い電光と青白い月光が混ざりあって、何かの物体を浮かびあがらせる。最初はただの黒い物体、ボールかなにかと思う。けれどよく見るとそれは震えていた。そしてあのノイズ音もそこから聞こえてくるのがわかった。マリアナはしばらく惚けたように立ちつくす。けれどふとした瞬間に、その雑音が女性のすすりなく声だというのに気がついてしまう。それと同時に黒い物体の全貌がほどけていく。

 美しい蛇のように揺らめく茶色い長髪、頭は床にこすりつけられたままで両手は祈りを求めて固く握られている。折れ曲がった身体は、あまりにも哀れに震えつづけて、救いを請いている。そのすべてが明らかになるにつれて、不定形の啜りなきが確かな言葉へと姿をかえる。

 「ゆるして、ゆるして……」

 そのひびきはマリアナの耳に不愉快なまでによどむ。今まで聞いてきた声のなかでも最も不愉快なひびきにすら思えてくる。マリアナは自分の瞳が冷えていくことに気づいている。その冷えは身体全体につたわっていく。そして凍てついた視線で以てマリアナは彼女をしばらく眺める。歩みよることはない。ただただ距離をとったままに視線を投げかけ続けるだけだ。しばらく時間が経ったあと、マリアナはこともなげに彼女に背をむける。

 ドアノブをギュッと掴んで、青いドアを乱暴に閉める。


 マリアナは粘りけのある苦しみとともに、ベッドから飛びおきる。しかし周りにはいつもの寝室の風景が広がっている。朝日は薄紫色に染まり、隣では娘のテオドラと恋人の朝子がスヤスヤと寝息をたてている。ふたりとも寝顔はとても安らかなものであり、それを見ていると動揺していたこころが平穏を取りもどしはじめる。しかし、かと思えば、まるで発作のように、自分の母親であるルミニツァは死んだ、そんな厳然たる事実が心臓を押しつぶす。瞬間、さっきよりも重い動揺におそわれて、身体が震えはじめる。胃液が不気味にせりあがってくるような感覚。うちから熱に焼かれていくような感覚。

 それから、閉じていた唇から声が漏れる。ふたりを起こさないように声を押しとどめようとする。しかしそれは数百もの泡のように浮かび、隙間から残酷なまでにこぼれおちる。いつしかマリアナの感情は決壊して、喉の奥から声を上げはじめる。顔全体が動揺のなかでブルブルと震えている。それを自覚しながらも、どうしても止められないでいる。

 「ママ?」

 テオドラの声がきこえた。その声から一瞬も経たずに、彼女はマリアナの横に寄りそい、ギュッと抱きしめてくれる。そのぬくもりがマリアナの肌にしずかに染みわたっていく。そして逆側からもだきしめられる感覚があった。朝子の、テオドラとはまた違うぬくもり。ふたつが混じりあって愛になっていく感覚にマリアナはひたる。癒されていく。それでもマリアナは声を上げつづけていたかった。

 その一方で、気づいていることがある。その瞳から涙があふれてはいないことに。一滴すらも涙は出てきていないことに。泣き声はいくら唇をキツく締めても出てくるのに、涙は出そうとしても出ないのだ。それは母親が死んだと聞いてからずっとだった。彼女が死んだと聞いた正にそのとき。死んだ母親の顔をはじめて見たとき。葬式に参列して悼辞を読んでいたとき。彼女を弔うために実家に滞在していたとき。涙はずっと出てきたことがなかった。自分は薄情な人間なのではないかと思ってしまうときもある。しかし父親のアレクサンドルが亡くなったときは、あまりの喪失感に一週間泣きつづけたのだ。そして不慮の事故で亡くなった友人のことを弔う時にも泣いていた。それでもかつて自分の一番近くにいてくれた人間の死を泣くことができない。

 マリアナはふたりに抱かれながら、同時に罪悪感にうちひしがれている。


「ごめんね、さっきは」

 マリアナはコーヒーカップを両手でかかえながら、ふたりにそう言う。

「べつに、大丈夫だよ。いまは大変なときだから」

 朝子はやわらかな笑顔をうかべながら、そう言った。

「うん、ママがかなしいときは、わたしたちがまもってあげる! ね、ニャツァ子?」

「もちろん」

「はは、ありがとうね、テオ」

 マリアナはこみあげてくる笑顔をかくすこともないままに、テオドラへとおどけて投げキッスをおくる。

「私には?」

 朝子にそう言われて、苦笑しながら投げキッスを送る。

 マリアナの朝食はコーヒーだけ。泣いたのもあって、あまり食欲がわかなかった。逆にテオは牛乳にサラダにパン数枚にと、食欲旺盛だ。どんどんすこやかに育っていく彼女に、マリアナは目をほそめる。朝子はコーヒーとサラダ、ふたりの中間地点にいた。テレビではテオが好きなネットフリックスのアニメが流れている。人間と、小人や巨人や謎の生きものたちが仲良く暮らしている世界を描いたファンタジーだ。

「あたしにも、ちぃっちゃな友だちがいればなぁ」

 アニメをみながら、テオはそんな願望をつぶやいている。

 マリアナは朝子が朝食をたべる姿をしずかにみつめる。彼女のたべかたは、マリアナよりも優雅なものだ。フォークで野菜を差し、口まで持っていくその所作は思わず見とれてしまう。それは彼女を愛しているゆえのひいきではなく、これをみれば誰もがそうおもうとマリアナは信じている。朝子は朝から仕事の関係でパソコンを操作しており、それは確かに行儀がわるいとは言えるけれども、それをおいても所作はうつくしいと言わざるをなかった。日本人のたたずまいがそうなのか、それとも彼女の個性なのか、それは分からないが、マリアナはそんな朝子の姿を見るのがすきだった。

 娘はテレビをチラチラと横目にみながら、パンに好物のきいちごのジャムをグッチャグッチャとつけながら、大きな口でほおばっている。父親ゆずりの食べ方だと、マリアナはおもった。いとおしくもありながら、どこか複雑な感情もいだいてしまう。

「ねえ、ニャツァ子はどんな色が好き?」

 テオドラは朝子にそんな問いかけをする。朝子の“朝”はdimineațaを意味しているという。その略語のneațaと“朝”は意味がいっしょなのと同時に、響きもすこし似ていることからテオドラが勝手にそうよびはじめたのだ。朝子もその呼び名はまんざらでもないらしかった。

「うーん、私はねえ、黄色がすきかなぁ。」

「わたしもすきぃ! レモンみたいな黄色がすき、いっしょだねぇ」

 そうして、ふたりは笑いあう。マリアナは再び目をほそめて、そんな光景をながめる。

「ねえ、なにみてるの?」

 気がつくと、朝子がマリアナの方を見つめかえしている。コーヒーカップを持って立ちあがり、こちらへと近づいてくる。その動きはしなやかで、マリアナはドキリとする。そしてほとんど息の音がきこえるまで近づいたかと思うと、朝子は唇をかさねてくる。苦くもここちよい感触。ぬくもりを互いに分けあたえる、静かでエロティックなうごめき。すこしだけ、朝子の唇にのこっていたのだろうコーヒーのしずくがマリアナのなかへ忍びこんでくる。とびきり苦くて、刺激的な感覚。そのなかにずっとひたっていたくなる。

「ヒュー! ヒュー! なかよしだねえ!」

 朝子の背後から、そんなテオドラの声がきこえてきて、恥ずかしさからおもわず唇をはなす。そのとき、マリアナは幸福感をいだいた。お腹のなかで、甘いミントアイスが芳しく溶けていくような感覚だ。そしてもういちど、今は席にもどった朝子に視線をむける。それにすぐ気づいて、かすかに笑みをうかべながら朝子は視線を返してくる。

「なに、わらってるの」

 マリアナはたずねる。彼女も笑いながら。

「なんでもないよ、あなたがかわいかったから」

 そして微笑は満面のえみに変わる。それと同時にテオドラはおおきな声でわらいはじめた。みんなでわらう。マリアナはしあわせだった。しかしふと、あの罪悪感がまた首をもたげる。

 彼女はかつて自分がテオドラの席にすわっていたときのことを思いだす。自分がぎゃくに娘の立場になって、立ちながらコーヒーをのんでいる母親の姿を思い出のなかにみる。やわらかな笑顔、だけれどその裏側にどれだけの苦悩を隠していたのだろうか。マリアナひとりだけしか子供ができることがなかった彼女は、職場で白い目で見られていたかもしれない。今の自分は感じることのない苦痛に苛まれていたのかもしれない。それでなくても時代の空気感が彼女を押し潰していたかもしれない。

 最近、マリアナはそうして自分が子どものころに母親がどんな気持ちを抱いていたのか、そういうことに思いを馳せるようになった。ルミニツァが生きている時は、なぜだか聞かなかったことの数々について。しかしもし彼女が当時のルーマニアがくずれゆく感覚を肌身で感じていたとするなら、いま自分も同じ類いのものを感じているのかもしれないとも思う。この先、ルーマニアがどうなっていくのか予想がつかず、恐怖がわきあがってくる時があるのだ。もし悪くなるとしたなら、自分はテオドラを守らなくてはならないし、外国人である朝子も守らなくてはいけない。母もまた私を守らなくてはならなかったのだろう。それでも、そんな共感を抱いてなお、母へのいいがたい嫌悪感があるのを認めざるをえなかった。

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