第18話 取り残された二人

 一目見た時から、そのサファイアが偽物だとわかっていた。

 それでも、ダヴィットから初めてもらった物だから嬉しかった。


 壁を背にして、ずるずると音を立てて座り込む。


 初めての贈り物も、ダヴィットの気持ちも、私が信じたすべてが偽物だった。それはわかっていたけれど、認めたくはなかった。


「……ダヴィットはどうして、私をそっとしておいてくれなかったの? ダヴィットが来なければ、私はあのまま、時間が止まったまま生きて行けたのに。王女を心から愛しているなんて、知らずに済んだのに」

 

「お金が欲しいなら、正直に言ってくれればよかったのに。お金は働けば稼げるんだもの」


「……町の皆が憐れんだけれど、私は幸せだったの。世界で一番好きな人を一番幸せにしてあげられたって、私は頑張ったっていうのが、私のたった一つの誇りだったの。だから一人で胸を張って生きていたのよ。いつか帰ってくるかもしれないって、夢を見るだけで生きていけたの。独りで勝手に想い続けていることは悪いことなの? あの家にいた時は、誰にも迷惑なんて掛けてなかった!」


「もう私には何も残っていないわ! ダヴィットは偽りの夢さえ残してくれなかった!」

 青い石と共にすべてが壊れたような気がした。私が心の中で信じて護ってきた小さな世界が崩れていく。


「どんなに酷い人でも、ずっと好きだったのよ!」

 私が愚かだというのはわかっているけれど、誰かを好きだと思うことに一体どんな罪があるのか。思考を誘導されていたと何度説明されても、心が受け付けない。


 私がダヴィットを好きだと思うこの気持ちすら偽物だとしたら、もう私には何も残らない。


 見上げた大きな窓から青空が見えた。

 もう何も考えたくなかった。立ち上がって窓へ向かうと、エフィムが背中から抱きしめる。


「止めないで、エフィム」

 エフィムの腕の中は温かい。

「……エミーリヤ。愛を失ったからと言って、すべてを捨てなくてもいいんです」


「エフィムには私の気持ちはわからないわ」

「……私も、以前はスヴェトラーナ様をお慕いしていました。手が届かない方だと大切に思っていたら、あっさりと同じ平民上がりの男にさらわれてしまった」

 エフィムの告白に衝撃を受けた。振り向くと、エフィムの悲し気な顔が見える。


「……あんなに残酷な人なのに?」

「貴女も同じでしょう? あれほど残酷な男なのに」

 エフィムが苦笑する。王女が好きだったから、二人に対する視線が冷ややかだったのかと納得した。


 そっと手の甲に口づけられた。

「今は貴女のことを愛しています。愛を失っても、また新たな愛を見つけることができると私は知っています」

「新たな愛? そんなの考えられないわ。生まれてからずっと好きだったのよ」

 エフィムは素敵だと思う。私を護ってくれて、いつも優しくて温かい。でも、この気持ちはダヴィットが好きな気持ちとは違う。


「貴女を失ったら、私はまた愛を失います。……私を憐れんでいただけませんか? あの男の替わりでもいい。貴女が次の愛を見つけるまでの間だけでもかまいません」

 エフィムの表情は優しい。私は、もういろいろを諦めながら笑う。


「……ダヴィットの替わりになって抱いてくれる?」

「貴女が望むなら」

 ダヴィットに抱かれる王女がうらやましいと思っていた。私もいつか抱かれたいと思っていた。……私の心は醜い。

「……お願い」


 指先であごを持ち上げられて、優しい口づけが降ってきた。

「……初めてなの」

「私も初めてです」

 エフィムの微笑みに温かさを感じて涙が零れる。


「嫌なら嫌と言って下さい」

「……エフィムなら、嫌じゃないわ」

 鳥がついばむような口づけを交わしながらワンピースのボタンを一つずつ外されていくけれど、抵抗しようとも思わない。優しいエフィムなら、何をされても構わない。


 そして私はエフィムに抱かれた。ダヴィットの替わりになってもらったのに、エフィムはどこまでも優しくて、温かくて、私の子供のような我がままを全て聞き届けてくれた。


 エフィムの腕の中で、ほろりと涙が零れる。

 さようなら、ダヴィット。ずっと好きだったけれど、これで終わり。


 私が心の中で別れを告げていると、エフィムが私の涙をそっと唇で吸い取った。

「結婚、しましょうか」

「そうね」

 これで子供ができるかもしれない。この国では未婚の女が子供を産むと酷い差別を受ける。エフィムはちゃんと責任を取ろうとしてくれている。


 お伽話の主人公と結ばれなかった者同士で傷を舐め合うような行為だったのに、優しくて温かいと思った。それはきっと、エフィムだったから。優しいエフィムを身代わりにしてしまったことに、今更罪悪感がこみ上げてきた。

「エフィム……ごめ……」

 私の謝罪の言葉は口づけで遮られた。


「謝る必要はありません。私も望んだことですから、責任を取らせて下さい」

 優しい腕に包まれて髪を撫でられながら、私はエフィムの胸で涙を流した。



 三日後、私たちは簡素な結婚式を二人だけで挙げた。

「もっと盛大に行っても良かったのですよ」

 エフィムが優しく微笑む。これから、この国の結婚式に付き物である屋根なし馬車でのお披露目。普通は一月前にあちこちに掲示されて、町を走る馬車を見物する人々が道に溢れるけれど、今回は二日前の掲示だ。誰も気が付いていない可能性は高い。


「いいの。十分盛大だわ」

 急遽用意されたとはいえ、町の仕立て屋が作った赤い婚姻用ドレスは高価で上質。背中の編上げ紐を締めれば、体にぴったりと合った。私の草色の髪にも似合う絶妙な色合いの美しい赤。


「このドレスの色は素敵ね。私の髪の色でも似合っているように思えるの」

「そうですね。とても綺麗ですよ」

 黒い婚姻用のロングコートを着たエフィムは、耳元で優しく囁いて私を背中から抱きしめる。微笑みを作ると、鏡に映る二人の姿は幸せな結婚をした夫婦に見えて不思議。


 エフィムはドレスだけでなく、高価なエメラルドが嵌まった銀の婚姻の腕輪を贈ってくれた。

「私がエメラルドが好きって、知っていたの?」

「宝飾店で耳飾りを見ていた時、エメラルドは何度も見ていたでしょう? サファイアではなく、エメラルドが好きなのだと思いました」

 エフィムの笑顔が優しい。その緑色の瞳はエメラルドと同じ煌めきで私を捉える。


「私、隠しているつもりだったのに、何も隠せていなかったのね」

「これからは隠さなくてもいいですよ。好きなものは好きと言えばいい」


「貴方も王女が好きと言うの?」

「いいえ。私はもう諦めています。貴女に出会って貴女の騎士になってから、貴女だけを見ることに決めています」

 エフィムの言葉は、私の心に染み込んでいく。その瞳は、私だけを見つめている。


「……私も、貴方だけを見る努力を始めます」

 酷い男だと思ってみても、ダヴィットをすぐに忘れることは難しい。エフィムには何も隠せなかった私は、正直に口にする。

「いいですよ。いつか、私だけを見て下さい。エミーリヤ」

 私は優しく微笑むエフィムの手を取った。

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