第13話 裏と表で見える物

「エミーリヤ? 僕からの贈り物は気に入らなかったのかい?」

 ダヴィットの悲しい表情に、私の心も沈む。


 研究室へと向かう薄暗い廊下で、ダヴィットは私の手首を掴んでいる。触れられていることが嬉しいけれど……痛い。


「……素晴らしい物だと思うけれど、受け取ることはできないわ。逃げる時の為に、お金は少しでも多く貯めておくべきよ」

 私の訴えに、ダヴィットはますます悲痛な表情になっていく。


「僕が贈ったサファイアの耳飾りは?」

「とても綺麗で、無くしてしまうのが怖くて着けることができないの。部屋に飾ってあるから安心して」

  小さな子供を相手にしているから、いつ落としてしまうかわからないと私が説明を重ねると、ようやくダヴィットは私の手首を解放した。


「ごめん。気に入ってくれたならいいんだ」

 ダヴィットの弱々しい微笑みに、私の心が痛む。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。


 指を絡めるようにして手を引かれると、掴まれた手首が痛む。……ああ。そういえば、昔もこうだった。何か気に入らないことがあると、手首や腕を強く掴まれた。痛いと言うと、さらに痛くされるから、いつも我慢して何もなかったように振る舞っていた。


 唐突に思い出した記憶を、頭を振って払い落す。

「エミーリヤ? どうしたんだい?」

 振り返ったダヴィットの笑顔は優しい。そう、これが本当のダヴィットだ。痛いことをするダヴィットはもういない。私が我慢すれば、怖いダヴィットは現れない。


「何でもないわ。精霊に早く薪をあげなくちゃ」

 私は、ガラスのように煌めく青い瞳に微笑んだ。



 研究室から出た後、メレフの部屋で文字を教えていると手首が痛む。何もなかったように振る舞ってみても、重い本を持つのは難しい。


 薪を割る音が聞こえると、文字を書いていたメレフが外に出たいと言い出した。コートを着て薪小屋へと向かうと、エフィムがシャツにズボンという軽装で斧を振るっている。


「エフィム! 大変だよ! エミーリヤが!」

 メレフが叫びながらエフィムへ向かって走って行く。危ないと抱き止めようとしたのに、手首の痛みが私の手を止めた。


 エフィムが薪割りを中断して、メレフと手を繋いで近づいてきた。

「エミーリヤ、手が痛いんだよ! 本が持てないんだ!」

「メレフ、大丈夫よ」

 小さな子供に察知されてしまう程、痛みを隠せなかったのかと、私は私自身に失望する。痛いなんて思ってはいけない。言ってはいけない。……口にすると、もっと痛くされるから。


「手が痛い? 何があったんですか?」

 エフィムが心配してくれているのがわかっても、私は微笑んで首を振る。

「気のせいです。私は大丈夫です」

 

「……メレフ様、お部屋で本を読んでいて頂けますか? エミーリヤが大変ですから」

「うん。僕、独りで本を読んでるよ」

 エフィムがメレフを肩に乗せた。いつもなら上機嫌のメレフが、私を心配するような瞳で見下ろしている。……幼い頃のダビットは、こんな表情をしたことがなかった。


「エフィム? 何を?」

「メレフ様の部屋に戻りましょう」

 エフィムに促されるままに部屋に戻り、部屋付きの従僕にメレフを預ける。メレフが本を広げた所で廊下に出された。


「こちらへ」

 エフィムの部屋に入ると、書き物机の椅子に座るように勧められた。

「痛むのはどこですか?」

「痛くありません」

 私の答えにエフィムが溜息を吐く。


「顔色が真っ青です。子供でも貴女の異常はわかりますよ。袖をめくって下さい」

 エフィムに言われるままに袖をめくると、手首には赤黒く指の跡がうっ血して残っていた。

「これは酷い。……痛いでしょう?」


「……ごめんなさい」

「エミーリヤ、何故謝るのです?」

「え? ……何故かしら……」

 何があったのかと問われても、私は何も言えなかった。こんなに酷い跡が残ったのは初めてだけれど、我慢していれば痛みは消える。


 そう。私が我慢すればいい。


「……他者に対して試したことがないので、上手くいくかわかりませんが治癒します。少し我慢してください」

 エフィムが椅子に座る私の前に跪いた。

「まずは右手を」

 差し出された大きな手に手を乗せると、そっと手首に口づけられた。


「!」

 痛みはなくても驚きで体が硬くなる。口づけたままのエフィムは、何か呪文のような言葉を紡ぐ。唇が温かい。


 緑色の光が私の手首を包んで消えた。痛みと赤黒い指跡も綺麗に消えている。


「エフィム? これは?」

「治癒魔法です。私には木と風の属性の魔力が少しだけあります。こちらも」

 エフィムが反対の手首に口づけて、呪文を唱えると、また緑色の光が現れて消えた。


「エフィムは魔法使いなの?」

 魔法というものを初めて見た驚きは、羞恥よりも感嘆が上回る。

「いいえ。魔法使いになれる程の魔力はありません。使えるのは軽度の治癒魔法とつむじ風を起こして枯れ葉を巻き上げる程度です」

 絶対に秘密ですよとエフィムが笑う。


「メレフ様に知られたら、フェイと冒険の旅に出ると言われかねません」

 勇者のフェイと魔法使いで騎士のエフィム。本当に物語のような組み合わせで、堪えきれずに笑みが零れる。


「もう痛みはありませんか?」

「はい。ありがとうございます」


「エミーリヤ、我慢したり無理をしないで下さい。痛い時は痛いと言って下さい」

「……でも……」

 痛い時は我慢することが当たり前だった。痛いと口にすれば、もっと痛くなる。何と答えればいいのかわからない。言葉が出てこない。


「少しだけ外の空気を吸いに出ませんか?」

 微笑むエフィムの誘いに乗ると厩舎に連れて行かれた。エフィムと同じ黒いコートを着こんでいるので温かい。


「う、馬ですか……」

「はい」

 今日もコートの前を開けたエフィムの前に横座りに乗せられた。裏門を出て、ゆっくりとした馬の歩みが、少しずつ私の緊張をほぐしていく。上着にしがみついていた手を緩めると、エフィムが肩を落として残念ですと呟いた。


「エフィム、何が残念なのですか?」

「もっとしがみついていていいですよ。なんなら、抱き着いてもらっても」

 見上げるとエフィムが笑っている。

「もう! からかわないで下さい」

 今更気が付いたけれど、私は異性に抱き着いていたのと変わらない。羞恥で顔が赤くなっていくのがわかる。


「冗談ですよ。馬に乗る時は、しっかり掴まって頂けた方がこちらも安心です」

 もっとも男が同じことをしたら落としますとエフィムが笑う。


 ゆっくりと進んでいた馬が歩みを止めた。

「エミーリヤ、顔を上げて下さい。視点が変わると見える物が変わります。同じ物でも見る人によって変わってくる」 

 馬の高さから見る雪原は、どこまでも白い世界が広がっていた。所々に真っ白な木があって、奥には白い木の森が見える。


「木が……凍っている?」

「あれは樹氷です。氷に覆われているだけなので、春になればまた元に戻りますよ。冬が厳しくてつらくても、春は必ず来るんです」


「エミーリヤ、何度も言いますが、悩んでいることがあれば教えて下さい。困っていることでも構いません。ここなら、私以外は誰も聞いていません」

 エフィムの声は優しい。


「何もありません」

 私はまた、嘘を吐く。

「……少し寒いですね。温めて頂けますか?」

 エフィムは私を胸に抱きしめた。コートではなくマントを着ていれば良かったと、私は残念に思う。

 

 少しでも温めようと、私はエフィムの腰に腕を回す。

「……コートのボタンを留めないのですか?」

 きっと、その方が温かい。

「コートの上からでは、貴女の体温を感じられません」


「それは……」

「貴女はとても温かいので、体温を分けて頂く度に私は助かっています。だから、貴女が困っているなら私が助けます」

 エフィムの少し早い心音が心地良い。胸に寄りかかると温かい。


 エフィムが心配してくれているのがわかる。それでも、ダヴィットから一緒に逃げようと言われていることは隠さなければならないし、逃げる方法を相談することなんてできない。


「ごめんなさい」

 私が呟くと、温かい腕が解かれた。

「……戻りましょうか」

 見上げたエフィムは優しい微笑みを浮かべていて、私は微笑み返すことしかできなかった。



 ある朝、無人の研究室で精霊に薪をやり、さんざん撫でまわした後、私は裏庭のトフラの木の前へと向かった。


 青い可憐な花のブーケは、風が無くても重みで揺れる。薄暗い雲の下で、その青が映える。太い枝の一本が、その花の重みで壁の裏に垂れていた。もしかしたら、手で花に触れられるかもしれないと期待しながら壁の扉を開けてみた。


 壁の裏に垂れた枝は沢山の花のブーケを付けていて、まだ高い位置にある。様々な角度から眺めて、もしかしたら届くかもしれないと手を伸ばす。


「ダヴィット、探したわ。貴方がいなくなったんじゃないかって心配したの」

 突然聞こえた王女の声に驚いて、伸ばした手を胸に抱く。壁の内側にダヴィットがいるのか。


「ラーナ。僕は君を置いてはどこにもいかないよ」

 答えるダヴィットの声は甘くて、私の心が痛む。


「……わたくし、早くここから逃れたいわ」

「もう何度も逃げようとして失敗しているじゃないか。つい最近も失敗した。協力者を夜会や観劇で探すのは諦めて、ヴェーラ夫人の伝手を頼ろう」

 私はダヴィットの言葉に衝撃を受けた。王女にも逃げようと言っているのか。


「今、ヴェーラ夫人には〝恋人たちの宴〟の準備をお願いしているわ。お願いするならその後ね」

「〝恋人たちの宴〟? あれはもうやらないと誓いを立てたんだろう?」


「せっかくヴェーラ夫人と再会したのだもの。一度くらい良いのではなくて? もちろん夫人には絶対に外に漏れないようにお願いしているわ。慎重に進めているから、時間が掛かっているのですって」

 王女の声は、今まで聞いたことのないくらいに上機嫌で明るく軽やか。


「……ダヴィットとわたくしが出会ったのもあの宴の場だったわね。……貴方は最初から最後まで、わたくしだけを見ていた」

「そうだよ。五歳の時から僕は君しか見ていない」

 ダヴィットは卒業式で初めて王女に会ったのではなかったのか。噂で聞いていた話とは違うことに、私の心は動揺する。


「そのハンカチ、いつも大事に持っているのね」

「ああ。平民の僕にはこのくらいが気軽に使えていいよ。絹のハンカチは使いにくい」

「……随分丁寧な刺繍だわ。あの教育係からもらったのでしょう?」

「平民は、もらった物は有効に使うのが常識だ。ラーナが不快に思うなら捨ててもいいよ」

 私のハンカチを持っていてくれたことに喜びを感じながらも、私の気持ちが通じていないことに心が痛む。


「……使うことが平民の常識なら仕方ないわ。……あの教育係は、わたくしの退屈を紛らわせる為に呼んだのではないの?」

「メレフに読み書きを教えてもらう為に来てもらったんだ。彼女は他人に教えるのが上手いからね。それ以上の価値もあったじゃないか」


「ダヴィットが止めるから手を出さずにいたけれど、もう我慢の限界だわ。同じ屋敷にいるというだけで胸が悪くなるのよ」

「まさか…………仕方ないなぁ。彼女のおかげで火の精霊が言う事を聞いてくれているんだけど、替わりを探すよ」

 溜息混じりのダヴィットの言葉が耳を通り過ぎていく。替わりを探す? それは誰の替わり? 


「あの精霊は狂暴で嫌いだわ。今日もまだ研究なの? もう止めてしまう訳にはいかないの?」

「ラーナ。君もわかっているだろう? 僕が魔法薬の研究を止めてしまえば君は処刑されてしまう。僕が死ぬのはいい。でも、君が死ぬのは耐えられない」

 王女が処刑? 意味が全くわからなくても、ダヴィットの甘い声は続いている。


「僕は君と一緒にいられるなら、何でもするよ」

「ダヴィット……わたくしも同じだわ。貴方と一緒にいられるなら、退屈な日々を我慢することも出来る」

 二人のやり取りをこれ以上聞きたくはなかった。壁から離れようと背を向ける。


「この木、貴方が屋敷に来て最初に植えた木ね」

「そう。このトフラの木は、僕の挫折の象徴だ」

 私の足が止まった。ダヴィットの言葉の意味が理解できなかった。


「この花が好きだという人間は、皆おせっかいで迷惑な存在だった」


「皆、僕が自分の力で成し遂げたいと思っていたことを、勝手に片づけて、その結果を押し付けてきた。馬鹿にされているとしか思えなかった。お前は無能だと言っているのと同じだからね。でも本人たちは、良いことをしていると思っていたんだろう。僕には迷惑でしかなかった」


「僕はやろうと思っていたんだ。どんなに困難な問題でも、自分で解決するつもりだった。感謝しろとばかりに結果だけを見せられても感謝することなんて出来なかった。この木を見るたびに僕はその時の悔しさを思い出す。あの時の悔しさと苦しさを思えば、どんなに辛い状況でも頑張ろうと思えるんだ」

 私はダヴィットの言葉に衝撃を受けていた。


「貴方は間違いなく優秀だわ。魔力もないのに魔法薬を完成させようとしている。それは貴方の素晴らしさを証明しているわ。……ダヴィット、体が冷えているわ。部屋に戻りましょう」

「ラーナ、僕の体が冷えているのはいつものことだよ。君も体が冷えているよ」

「わたくしもいつものことだわ」

 二人の笑い声で我に返った。本当にダヴィットの言葉なのか確認したくて、扉を開けて裏庭に飛び込む。


 寄り添いながら屋敷へ戻って行くのは、コートを着たダヴィットと王女に間違いなかった。二人の肩や背中を、無数の黒い手が掴んでいる。


 私は声を出すこともできなかった。幼い頃から、私はダヴィットの手助けをしていた。問題があれば替わりに解決してきた。それが全部、ダヴィットにとっては迷惑でしかなかったということなのだろうか。心臓を鷲掴みされたような痛みで、息苦しい。


 思い出の木だと思っていたトフラが、ダヴィットにとっては、挫折の象徴だった。青い可憐な花を見上げながら、自分の愚かさに震える。


 私がダヴィットの為と思っていた行動はダヴィットを苦しめていた。でも、いつもダヴィットは何もしなかった。ただ、悲しい顔をするから、困った顔をするから、だから私が動くしかないと信じていた。


 ……ダヴィットの為と言いながら、私はいつかダヴィットが戻って来てくれるだろうという醜い打算を心に持っていた。それがダヴィットにはわかっていたのかもしれない。


 手助けがいらないなら、何故言ってくれなかったのだろう。自分がやるから手を出すなと一言言ってくれれば、良かったのに。 


 胸が痛い。痛い。息ができない。


 自分のことも、ダヴィットのことも、もう何も信じられない。そう思った時、幼い頃から怖いダヴィットに繰り返し聞かされた言葉を思い出した。


『僕のことが信じられないなら、エミーリヤはもういらない。水に飛び込んじゃえばいいよ』


 そうだ。ダヴィットが信じられない私はいらない子になるんだった。いらない子になりたくなくて、私は必死にダヴィットを信じてきた。


 私の足は壁の裏、凍り付いた泉へと向かう。


 凍り付いた泉の上を歩くと、みしみしと音がする。氷の下には水があるだろう。水に飛び込めば、きっと怖いダヴィットは現れない。もう痛い思いをしなくていい。この胸の痛みも消えてなくなる。


 だから、これでいい。

 私はダヴィットにとって、いらない子になってしまったから。


 見上げた空は雪を含んだ灰色の雲に覆われている。

「……エフィム、助けて……」

 涙が目から零れた時、泉の氷が割れた。

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