第14話 震える心と揺れる記憶
温かい。そう、思った。ゆっくりと意識が浮上していく。
少しずつ体の感覚が戻って、目が覚めようとしている。
胸に温かい空気が満たされていく。心地よさに目を開くと綺麗な緑色の瞳が見えた。エフィムに口づけられている。何故と考えてもわからない。ただ、温かい。
「……エミーリヤ! 私がわかりますか!?」
はいと答えたくても声がでない。微かに頷くとエフィムが安堵の息を吐いた。
「貴女は泉に沈んでいました。もう少し発見が遅れていたら死んでいたかもしれません」
エフィムの片腕が背中に回り、片手は頭を抱き寄せる。エフィムの体は温かい。震える大きな体を抱きしめたいと思うけれど、腕が上手く動かない。
「……ともかく、助かって良かった」
起き上がったエフィムは下穿きだけで裸だった。初めて見る姿に驚いても体が動かない。エフィムの大きなシャツを着せられて、自分が全裸だったことに気が付く。
シャツを着てズボンを穿いたエフィムがベッドの端に座って私の背を起こした。
「白ワインを水で薄めた物です。飲めますか?」
支えられながら爽やかな風味がする水を飲むと、体の中から温かくなってきた。
肩を抱かれ、まだ冷たい指先を温かいエフィムの手が包む。
「エミーリヤ、貴女の家へ送ります。ここにいては貴女の心が壊れてしまう」
「……ごめんなさい。家はもう、無いの」
「どういうことです?」
「売ってしまったの」
委任状を渡した後、何も聞いてはいないけれど、もう私の物ではない。
「まさか! ……資金はそれか!」
驚きの表情をしたエフィムが、ぎりりと歯噛みをする音が聞こえた。
「……資金って何?」
「どうして私に相談してくれなかったのです? あの男に金を要求されていると」
エフィムは私の問いには答えてはくれなかった。強く肩を掴まれても、痛くはない。
「違うの。私は自分で渡したの」
「自分で? どうやって? 貴女はずっとこの屋敷にいたでしょう? 外へ出る時は私が共にいた」
ヴェーラ夫人あての委任状を書いて売ってもらったと言うと、エフィムは目を閉じて黙ってしまった。
少しして目を開いたエフィムが口を開いた。
「……売ってしまった物は仕方ありません。……昨日、何があったのですか?」
問われるままに倒れる直前のことを話すと、エフィムが顔色を変えた。
「エミーリヤ、私の言葉を聞いて下さい。自分はやろうと思っていたと言い訳するのは卑怯者です。やるつもりだったと言うのは、やらなかった言い訳でしかないんです」
「……だって……私は……ダヴィットに確認したことがなかったの。何か困っているのかと聞くより先に、体が動いた。ダヴィットが悲しい顔をしていれば、何が理由なのか考えた。ダヴィットが怒った顔をしていれば、何が原因なのか考えた。……私は何もダヴィットに聞かなかったのよ」
「だから、だから、私がいなくてはダメだと初めて言われて、嬉しくて……」
涙が零れる。あの時初めて、私が必要だと言葉をもらえた。やっとダヴィットに認められたと嬉しかった。
「貴女には酷なことを言いますが、彼は貴女をそうやって精神的に支配してきたんです」
「……精神的に支配? 違うわ。全部私が望んで行動したことだもの」
「真面目でおとなしい人間を痛みと恐怖で従わせ、甘い言葉で利用して何もかも奪い去る。それがあの男のやり口です」
「違うわ。エフィムにはそう見えるのかもしれないけれど……私が悪いの。町長や神官に文字を習いに行くことも、王都の学校に行くことも、全部私が勝手に準備してしまった。私はダヴィットの進む道を強制してしまったのよ。だから私の全部を持って行っても仕方ないことなの」
「違います。貴女が道を整えたからと言っても、彼はいくらでも違う道を選ぶことができた。彼は自分の意思で貴女が作った道を進む選択をしたんです」
エフィムの言葉の意味が頭ではわかっても、どうしても心が受け入れない。ダヴィットを信じなければ、また怖いダヴィットが現れる。
朝を知らせる時報の鐘が遠くで響いた。エフィムは迷うような顔をした後、私に向き直った。
「今日は一日、この部屋で休んでいて下さい。食事は持ってきますから外に出ないで下さい。それから、お願いがあります」
「……何ですか?」
思考がはっきりしなくても、お願いと言われて心が向いた。
「この本の中に、扉という言葉がいくつあるか、数えて頂けませんか」
手渡されたのは子供向けでもあるけれど、メレフが最近気に入っている冒険物語。随分読み込まれた本だと思ったら、これはエフィムの恩人からもらった大切な本らしい。
「実はメレフ様と賭けをしています。賭けに負けると一日肩に乗せる約束です」
「……それは大変ですね」
メレフも数を数えていて、メレフが正解するとエフィムの負けということらしい。これは正確さを求められる仕事。内容が変わっていないか心配で確認すると、暗記する程読んだエフィムは全く同じだと断言した。
「大人げないですが、できれば勝ちたいです」
眉を下げたエフィムはどこか可愛らしい。私が微笑むとエフィムも微笑む。
「十日後、私の休暇があります。お願いしたいことがあるので一緒に出掛けましょう」
「……はい」
「いいですか、十日後です。約束ですよ」
エフィムは何度も念を押し、上着とコートを持って部屋から出て行った。
本を開いて扉という言葉を探す。この冒険物語は子供の頃に何度も読み返した。海賊だった男が商人になって世界の不思議に挑んでいく話。もう覚えていると思っていたのに、本を読むことと扉という文字を追うことは別物だった。
一ページずつ単語を数えて、紙にペンで書いていく。集中しているとエフィムが朝食をワゴンに乗せて運んできた。
「食欲はありますか?」
「……いえ……」
「では、これだけでも」
手渡されたカップに入っていたのは、琥珀色に澄んだスープだった。口にすると、野菜や肉の旨味が広がる。これは、とても手間のかかる料理。
「……料理人が心配していました。従僕や下男、下女も心配しています」
「ありがとうございます」
温かいスープで体の中から温まっていく。優しい気遣いで心も温まるような気がする。
私がスープを飲み終えた後、エフィムはワゴンを押して、メレフと食事をしてくると言って部屋から出て行った。
しばらくして戻ってきたエフィムに、ズボンを手渡された。
「すいません。貴女が着ていた服は破いてしまったので」
濡れた服を脱がせるのは難しかったとエフィムは言う。エフィムのズボンを穿くと大きすぎて服の中で体が泳ぐ。ベルトの替わりに紐でズボンの腰を締めて何とか着用するとエフィムが笑顔になった。
「何か?」
「いえ。その……可愛らしいです」
微笑むエフィムにふわりと抱き上げられた。驚いたけれど、エフィムに寄りかかると温かい。
そのままエフィムは私の部屋へと向かい、私を床に降ろした。温かさが失われてしまったので寂しい。
「荷物をすべてまとめて下さい。私の部屋へ移動します」
「え?」
「貴女を独りに出来る訳がありません。いいですか、貴女は死に掛けたんです。私は貴女の命を助けた。命の恩人の言うことは聞くべきです」
「……はい」
そんなものかと返事をすると、エフィムが私を抱きしめた。
「……すいません。嫌なら嫌と言っていいんです。ただ、貴女は今、異常な状態で普通ではありません」
「私、異常ですか?」
「異常です。貴女自身のことに関して、通常あるべき反応がありません」
「あるべき反応?」
「……朝、貴女に口づけました。息を吹き込む為とは言え、無断で行われた行為について、貴女は何の反応も示さなかった。普通なら驚いて、嫌だと思うでしょう?」
「……嫌ではありません」
温かいと思った。エフィムなら良いと思った。私が心に思ったままを告げれば、エフィムの耳が赤くなった。
「どうか他の者には同じ言葉を言わないで下さい」
「はい」
私が頷くと、エフィムは苦笑して離れた。
真っ先に私が手を伸ばしたのは、棚に飾ってある小さな額縁。これはとても大事な物だと思う。
「それは……あの時の木の葉ですね」
「ええ。あまりにも綺麗なので、紙に貼って飾っています」
メレフとエフィムからもらった木の葉の白い葉脈は、高価なレースよりも美しく見える。
隣にはハンカチに乗せた青い石の耳飾り。手を伸ばしかけて、後でいいかと他の物をトランクに詰めていく。大した荷物はないので、あっと言う間に荷造りが終わった。
「エミーリヤ? この耳飾りは?」
「あ。……はい」
エフィムに気付かれてしまったので、仕方なくポケットに入れる。……そうだ。これはダヴィットからもらったのだから、大事にしなければ。
また抱き上げられてエフィムの部屋に戻る途中、あの部屋は妾の部屋だと教えられた。王女から妾が来ると言われて、皆はそのつもりで用意していた。私が教育係として真面目に働き、細々とした仕事を手伝ったので、今では誰も私のことを妾とは思っていない。
「そうだったのね」
屋敷に来た当初の皆の冷ややかな態度の意味がようやくわかった。明るく話し掛ける私のおかげで、屋敷の空気が良くなったとエフィムは笑う。
私が部屋で本を開いている間、エフィムは何度も様子を見に来た。夕食後には馬で出掛けて行ったけれど、すぐに戻ってきた。
「あの……まだ半分しか数えられていません」
寝支度を整え、私が作業の進捗を報告するとエフィムは予定よりも早いと笑う。メレフは意地になって闘志を燃やしていても、まだ半分の半分にも到達していないらしい。
「疲れたでしょう? 眠りましょう」
「はい」
何故か苦笑するエフィムと、私はベッドで眠りについた。
翌朝、研究室へと向かう私に、エフィムが着いてきた。
「エフィム……ここは秘密なの……」
「秘密でも何でもありませんよ。ここが研究室だというのは、この屋敷の誰もが知っています」
「そう……」
私だけが知っているのだと思っていた。落胆するとエフィムが優しく肩を包んで扉を開けた。
研究室の中は無人だった。物が増えているように思えて見回すと、本やガラス瓶に入った薬草だけでなく、鍋が一つ増えている。エフィムは怒っていたけれど、私が渡したお金で研究が進むのならいいことだと思う。
『どうした? エミーリヤ』
火の精霊は、私の顔を見るなり声を上げた。
「何でもないわ」
『そんな顔色では説得力はないぞ。供物を入れてくれるだけでいい。おい、エフィム、早く連れて戻れ』
「エフィムを知っているの?」
『……いつも薪を割ってくれているからな』
「……あと何回だ?」
『二……いや、三回だな』
エフィムの問いに精霊が答える。
「三回?」
『ああ。あと三回供物をくれればいい』
私の疑問に精霊が答える。
「どういうことなの?」
『薪を食わなくても生きていけるようになるってことだ』
……また一つ、私のいる意味がなくなってしまう。私の心が沈む。
『おい、エミーリヤ。お前には俺を撫でるという仕事があるからな。お前の体調が元に戻ったら、撫でまわしてもらうぞ』
火の精霊が目を泳がせて、エフィムが噴き出して笑い声をあげた。
三日目に私の体調が良くなってから、毎晩エフィムは私の昔話を聞き、ダヴィットの行動を否定して非難するようになった。もう聞けないと手で耳をふさぐと、抱きしめられて聞かされる。
「お願い。ダヴィットを悪く言うのはやめて」
「何度でも言います。彼は卑怯者です。貴女を搾取し続けて、ついには家と財産を取り上げた」
「でも、あれはもともと王家から貰った物で、私の物ではないのよ。彼は逃……研究を続ける為にお金が必要で困っていたのよ」
「その研究は貴女の為ではありません。困っているからと言って、他人の財産を奪って平然としていられるのは、普通の思考ではありません。彼は異常者なんです。貴女は被害者なんですよ」
「いいえ。被害者なんかじゃないわ。私は自分で納得してダヴィットに渡したのよ」
繰り返し、繰り返しエフィムはダヴィットを否定する。私の記憶にあるダヴィットは、とても優しくて、何かあると少し情けない所があって。私はそんな完璧ではないダヴィットを愛していた。愛しているのだから、尽くすのは仕方ないはず。……ダヴィットの機嫌が良ければ……怖いダヴィットが現れなければ、それでいい。
「貴女は自分の記憶を、彼の為に都合よく書き換えています。まずはそれを理解してください。……今日はここまでにしましょう」
魔法灯が消され、部屋が暗くなった。
一緒に眠るようになってからベッドの片側は壁に付けられ、私がベッドから降りるには、エフィムを超えなければならない。
エフィムに気付かれないようにベッドから出ようと試みたけれど、それは叶わなかった。
「……エフィムはどうしてダヴィットをそんなに悪く言うの? ダヴィットが嫌いなの?」
「嫌いです。一人の女性を搾取し続けて、更に支配しようとする異常な男です。誰に聞いても嫌いだと言うと思いますよ」
「でも……私が悪いの。きっとダヴィットをそうさせてしまったのは私なのよ」
「違います! あれは彼の本性です! 貴女は自分の思考が誘導されていることに気づくべきだ!」
激昂したエフィムの声に、私の身がすくむ。
「……すいません。言い方が強すぎました。怖がらないで下さい」
震える体をエフィムがそっと抱きしめる。
「……もっと冷静になるべきですね。これでは彼と同じになってしまう」
「同じ?」
「貴女は誰かが怒っている顔を見ると怖いのでしょう? どうしたら笑ってくれるのかと考えるでしょう? 無意識で相手の顔色をうかがって、何かを言われる前に相手の為に行動してしまう。他人に優しく自分に厳しい真面目な貴女は、それを利用されて彼に支配されてきたんです」
「私……」
自分に厳しいとは思ったことはない。私は醜い打算を心に抱えた女だと知っている。反論しようとしたけれど、エフィムの体温が心地いい。髪を撫でられると、とろりと眠りが体を包む。
「今日は眠りましょう。明日も仕事がありますよ」
エフィムの優しい声を聞きながら、私は眠りに落ちた。
「走らせます。目を閉じていて下さい」
「はい」
約束の十日後、私は馬に乗せられていた。マントを着て、エフィムにしがみついて目を閉じる。しっかりと腰に腕を回されているから安心だし、フードを深く被れば寒い風も気にならない。
町までは、本当にあっと言う間だった。
「……あ。新年になっていたのですね……」
店の飾りつけは新年になっている。全然気が付かない内に、新年を迎えていた。そう言えば豪華な肉料理と、甘いパイが出た日があった。メレフとエフィムと一緒に食べたのに、新年の挨拶をしていない。
仕立て屋に連れて行かれて、勧められるままに服を注文する。エフィムが破いた服の替わりだと言って支払ってくれた。
何故か仕立て屋の夫人が、もう一度採寸させて欲しいと言って下着姿で詳細な寸法を測られた。
宝飾店では、さまざまな品を見せられた。エフィムに新年の祝いで好きな物を贈ると言われたけれど、どれも素敵で選べないと答えると、何故か手首の寸法を測られた。
「何か欲しい物はありませんか?」
エフィムに問われても、何も欲しいと思えない。どうしても欲しい物があった筈なのに、何だったのか思い出せない。
「メレフ様にお土産を買って帰りましょう」
苦笑するエフィムに手を引かれ、甘いクッキーを買う為に入った菓子店で紙袋を持ったフェイと出会った。友人に会ったというのに、エフィムが何故か表情を硬くする。
フェイは私の体調を尋ね、買い物の後、一緒に茶店へと入った。今日はフェイの雰囲気が違うように思える。銀の髪に青い瞳、優美な紺青色の上着といった服装は、いつもと変わらないのに威圧感がある。
お茶を飲んだ後、フェイが姿勢を正した。
「……エミーリヤ、本当に申し訳ないが、とあるパーティに参加して欲しいんだ。危険もあるが、エフィムを護衛に付ける」
「それは断った筈です。彼女がいなくても宴は開催されるでしょう」
エフィムがフェイに対して厳しい声を向ける。
「彼女が主賓だ。特段の理由なく参加しないとなると警戒する者も出てくるだろう」
フェイの言葉は鋭い。
「彼女の体調が悪いことは知られている筈です」
エフィムがテーブルの下で、隣に座る私の手を握る。
「町に出掛ける程、回復している。参加しない理由としては弱すぎる」
フェイとエフィムが睨み合う。エフィムが困っているのがわかった。
「……私がお役に立てるのなら」
誰かに必要とされるのなら嬉しい。そう答えるとエフィムが小さな溜息を吐いて頭を振った。
「エミーリヤ。……必ず貴女を護ります」
エフィムの表情は緊張したように強張っている。
「はい。お願いします」
私は、その緑の瞳に微笑んだ。
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