第12話 心を包むマント

 裏庭の片隅に植えられたトフラの木に花が咲き始めた。青い小さな花が集まりブーケのように咲いていて、冬の青い空の下に映える。冬の雪と厳しい寒さに耐えながら咲く、その可憐な姿で人気のある花。

 花を見上げていると、エフィムが突然姿を見せた。


「エフィム?」

「エミーリヤ、何故ここに? ……メレフ様は?」

「まだ眠いというので、寝室付きの従僕に預けてきました。……どこから現れたのですか? 驚きました」

 本当に魔法で現れたように見える。


「ああ。ここに扉があります」

 手招きされるままに木の後ろに行くと、庭を囲むレンガ造りの壁に木の扉があった。扉を開けると雪に囲まれた地面が広がっている。

「ここは?」

「私の秘密の場所です」

 子供のように笑うエフィムはどこか可愛らしい。


「鍛えるという程ではありませんが、ここで剣を振っています」

 ほとんど毎日、ここで剣を振っていると聞いて驚く。護衛として出ることが無くなったので、腕が鈍っているかもしれないとエフィムは苦笑する。


「あ、その枯れ葉の山は危ないので気を付けて下さい。泉が凍っています」

 枯れ葉の山をよくよく見れば、凍った水面の上に乗っている。小さな泉の水深は浅く見える。


 コートと上着を脱いだエフィムは、剣を振り始めた。剣のことはわからないけれど、重い剣を片手で扱い、空中でぴたりと止める動作の美しさに感嘆する。


 走り出したエフィムは風で吹き上げられて舞い降りてきた枯れ葉を斬り、壁を駆け上って、空で回転して音もなく着地した。


「素晴らしいです!」

 私は拍手を贈った。エフィムが剣を振るう姿は力強くて美しい。照れたような笑顔を浮かべたエフィムが剣を鞘に納めた瞬間、小さな緑色の光の粒が弾けたような気がした。


「え?」

 目を凝らしても、もう光は見えない。きっと見間違いなのだろう。そもそも魔力光なんて、本当に見えるものなのかどうかもわからない。


「どうかしましたか?」

「いえ。何でもありません」

 外国では魔力を持つ人間がいると聞いてはいても、この国の人間にはないというのが常識。不用意にそんな話をして、おかしな女だと思われたくはない。


 葉も落ちて、すっかり寂しくなった裏庭を散歩していると、疑問が口から零れた。 

「……エフィムもここから逃げたいと思いますか?」

 ダヴィットも使用人たちもそう思っている。豪華で快適なのに、どこか寒々しい。この屋敷は何か異質だと私も感じている。

「職務がありますから、辞職するまでは逃げ出す訳にはいきません。……昔はもっと酷い環境にいました。それに比べれば仕事があって食事が出るというだけでも良い場所です」

「酷い環境?」


 兄が三人、姉が二人いて、親からは疎まれていたとエフィムは苦笑する。十五歳で家を出され、十八歳で騎士の試験に合格するまでは酷い暮らしだったと言う。


「どうして?」

「私の髪色のせいです。他の家族は紺色の髪で、私だけがこの色でした」

 深い草色の髪を摘まんでエフィムが笑う。


「そんな……家族全員が違う色の髪ということもあるのに……」

「……私は母の不貞の子です。父はそれでも母を愛していました。私と同じ髪色をした不貞の相手は逃げましたが、後に残された私は父にとっては憎しみの対象にしかならなかったのでしょう」


「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまって」

「いいえ。吐き出せてすっきりしました。フェイにも、誰にも言えなかったことなので。……エミーリヤ、貴女も悩んでいることがあれば、私に聞かせて下さい。すっきりしますよ」

 微笑むエフィムの顔は優しいけれど、ここからどうやって逃げようか考えているなんて言える訳もない。


「大丈夫です。悩んでいることなんてありません」

 私は、また嘘を吐いて微笑んだ。



『エミーリヤ、供物をよこせ』

 私は薪を火の精霊へと渡す。薪小屋の前で待っていても、ダヴィットが迎えに来ないことも増えてきた。私は無人の研究室へ入って、精霊に薪をやっては外に出る。最初はダヴィットの悪い話ばかりしていた精霊も最近は何も言わなくなった。


『……あの男が、お前に贈り物だそうだ。その棚の上にある』

 精霊があごで指し示した場所には、美しい金色のリボンが掛けられた綺麗な青い箱が置いてあった。ダヴィットからの贈り物に心が躍る。

「開けてもいいのかしら」

 カードや手紙は何もない。


『ふん。お前への贈り物だ。開ける権利はお前にある』

 リボンを解いて箱を開けた途端に、ふわりと強烈な花の匂いが広がった。あの浴室から漂ってきた匂いと同じ物だと気が付いて、私の心がしぼんでいく。


 中身は豪華で繊細なレースの手巾だった。絹の白さと光沢に心が怯む。触れて汚してしまうことが怖くて、箱を閉め、リボンを結びなおす。


 箱を元の場所に置いた時、薪を食べていた精霊が動きを止めた。

『どうした?』

「こんなに高価な物を理由なく受け取ることはできないわ」

 熟練した職人が編む繊細なレースはとても貴重で、小さな宝石よりも高価な物。おそらくは、この一枚で平民が二カ月暮らせる程の値段だろう。お金がないと言っていたのに、高価な贈り物を買う理由がわからない。


『お前はあの男に尽くしているだろう。そんな物では足りない程だと思うがな』

「…………欲しいのは、物じゃないのよ」


『お前も俺の主と同じか。人間というのは不思議な生き物だな。もらえる物はもらっておけばいい。与えた物の対価なのだから正当な理由があるというのに、欲しがらない。では何が欲しいのかと聞けば、物ではないと言う。言葉だの心だの、見えない物を受け取ることにどんな意味があるというのだ。精霊の俺には全くわからん』

 精霊が深い溜息を吐いて、食事に戻った。


 炎のような赤い色の猫がばりばりと音を立てて薪を食べる姿は、どこか滑稽。今日も緑の光の粒が口元へと消えていく。

「魔力光っていうのは、どういう時に見えるの?」

『ふん。俺の言葉を信じることにしたのか?』

 そう言われてしまうと、気持ちが怯んでしまう。


「いいえ。……それじゃあ、貴方の素敵な毛を撫でてもいいかしら?」

『俺は猫じゃないぞ』

 じろりと精霊が睨みつける。私は少し残念な気持ちで伸ばし掛けた手を下げる。


『……少しだけならいい』

 薪を食べ終えた精霊が澄ました顔で私に告げた。

「ありがとう!」

 檻の隙間から手を入れて、ふわふわとした毛に触れると温かい。


「温かいのね」

『お前……俺は火の精霊だぞ。忘れてないか?』

 猫を撫でるように撫でていると精霊が目を細める。気持ち良さそうな表情は猫としか思えない。


 あごの下をくすぐると、ごろごろと喉を鳴らす。可愛くて笑ってしまうと、しまったという顔をした精霊が、ぺちりと私の手を叩き落とした。

『い、今のは忘れろ』

「わかったわ。だからもう少し撫でさせて」

 私は時報の鐘が鳴るまで、その柔らかな毛を撫で続けた。



 雪がますます深くなり、メレフとエフィムの馬での散歩がなくなった。その替わりに、文字を書く勉強を本格化させると、まるで乾いた布に水がしみこんでいくように学習していく。


「驚くような速度ですね」

 成長記録をエフィムと見ながら、次は何の本を読ませるか相談する。そろそろ辞書が必要ではないかと意見が一致して、買いに行くことが決まった。


 三人で出かけようとした当日、馬車の車輪が壊れた。この公爵家の馬車は主人専用の豪華な馬車と、地味な馬車の二台しかない。むずかるメレフにお土産を買って来ると約束して従僕に任せ、エフィムと二人で馬で出掛けることにした。


「……女性を乗せるのは初めてです。気分が悪くなったら言って下さい」

 エフィムの声に私は頷く。初めて乗る馬の上は高くて怖い。エフィムの後ろに乗るつもりが、前に横座りで乗せられている。


 エフィムは何故かコートの前を開けていて、私はエフィムの上着に縋りつく。

「震えていますね。寒いのですか?」

「違います。怖いのです」

 しっかりと腰にエフィムの腕が回っているのに、視界の高さが怖くて震える。


「絶対に落としませんよ」

 そうは言われても、怖いものは怖い。馬がゆっくりと歩き始めて、私はエフィムの上着を掴む手をさらに強めるしかなかった。



「エミーリヤ、まだ慣れませんか?」

 町に到着しても、私の恐怖は拭えなかった。ずっとエフィムに縋りつくしかなかったことが恥ずかしい。


「慣れません。笑い過ぎですよ、エフィム」

 いつもよりも機嫌の良い顔で笑うエフィムを恨めしく思いながら睨みつけると、ますます笑われてしまう。


 書店で本と辞書を買い、菓子店でお土産の甘いクッキーを買い求め、仕立て屋でコートと手袋が入った箱を受け取り、エフィムは茶色い油紙の小包と大きな箱を受け取って店の外へと出る。


「エフィムも服を注文していたのですね」

「ええ。それはこちらの大きな箱の方です。この包みは故郷の家族に頼んで送ってもらった本です。この仕立て屋の主人は私と同郷なので、荷物の仲介をお願いしています」

 本と聞いて、何を頼んだか聞いてみたいと思ったものの、そこまで気安く尋ねていいものか迷う。故郷の家族と仲が悪いと言っていたのに、こうしてやり取りをしているのだから、決定的なものではないのかもしれない。


 私の視線が本の包みに向かっていることにエフィムが気付いて微笑んだ。

「医学論文をまとめた本ですが、読んでみますか?」

「いいえ。それはとても難しそうですわ。医学に興味があるのですか?」

 私の問いに、最近興味が出てきたとエフィムは苦笑する。医術師を目指す訳ではないけれど、何かあった時の為に備えたいと言う。


 何故かエフィムがとても優しく見える。温かく包まれているような錯覚を覚え、少しの間、みつめ合っていたことに気付いて恥じ入る。

「……お茶でも飲んで温まりましょうか」

 エフィムの提案に賛成して、私たちは茶店へと向かった。


「今日はフェイと待ち合わせはしていないのですね」

「ええ。明日の夜、飲みに行く約束です」

 エフィムが苦笑する。雪の中、独りで馬を走らせるのは寒いと愚痴を吐く。


 馬を走らせると短時間でここに着くらしい。帰りは走らせますかと聞かれて、私は全力で首を横に振る。

「私に任せて目を閉じていて頂ければ、すぐ着きますよ」

「無理です!」

 抗議の意味を込めて睨むとエフィムが笑い出す。からかわれたとしか思えなくて、エフィムの手をぺちりと叩くと、さらにエフィムが笑う。


「メレフ様は全力で走っても平気ですよ」

 温かい紅茶を飲みながら、エフィムの声はまだ笑いで震えている。

「全力疾走なんて危険です」

 歩く速度でも怖いのに、考えられない。


「……すいません。本当に貴女は可愛らしいですね」

「…………エフィム、声が笑っています。お世辞を言っても、私の機嫌は直りませんよ」

 恥ずかしくなった私は、話題を変えることにした。仕立て屋で受け取った箱を入れた袋から、手袋の箱を取り出す。贈り物として、落ち着いた深緑色の箱を注文していたので、そのまま贈ることができる。


「エフィム……これを受け取って頂けませんか?」

「これは?」

「手袋です。いつもお世話になっていますから」


 箱を開いたエフィムは、茶色の手袋を見て笑顔を深める。

「ありがとうございます。では、これを受け取って下さい」

「え?」

 エフィムが開いた大きな箱の中には、ベージュ色のマントが入っていた。ふわふわとした毛皮で縁取られている。


「……あの……」

 先程寄った仕立て屋で受け取っていた物。あの時、エフィムはマントを注文していたのか。

「それ程高価な物ではありませんよ。いつもお世話になっているお礼です」

「でも、私は何もしていません」

 私はエフィムに助けられているけれど、助けた覚えはない。


「あの屋敷でろくな仕事もなく、暇を持て余していた私に目標のある仕事を分けてくれました。私の心がどれだけ救われたかは、説明できない程です。王から命じられた護衛という任務も全うできず、時折頼まれるのは力仕事と書類仕事。あとは薪割りだけという六年間は、とても……苦しいものでした。今はメレフ様の成長を見届ける目標が出来て、毎日が楽しいです」

 エフィムの笑顔は優しくて、私の心まで温めてくれるような気がする。微笑み返すとエフィムの笑顔が消えて、どきりとする。


「……ということで貴女に受け取って頂けなければ、私が女装することになってしまいます」

 そう切り出したエフィムの顔は真剣なのに、全く思いがけない言葉でエフィムの女装姿を想像してしまった。堪えきれずに噴き出してしまう。


「ご、ごめんなさい。わ、笑うつもりは……」

 笑い過ぎて涙が出た。それでもまだ笑ってしまう。失礼だと思っても止められない。

「想像だけでこれですから、きっと本当に女装したら大惨事ですよ。笑い死ぬ者が出てきます」


「被害者を出さない為に、受け取って頂けますか?」

「わかりました。ありがとうございます」

 世話をした覚えがないので受け取れないと思っていたのに、結局受け取ってしまった。優しい笑顔で贈られた贈り物に心が温かくなる。また何か贈ろうと私は微笑んだ。



 茶店を出る直前、着ていたコートの替わりにふわりとマントが着せられて、同じ布で作られた手袋を着けられる。私が贈った茶色の革手袋を着けたエフィムが手を差し出す。


「帰りましょう。メレフ様が待っていますよ」

「はい。きっと、お待ちかねですね。お菓子を」

 お土産には、以前フェイからもらったクッキーを買ってある。フェイを勇者と称えるメレフは、フェイに関わる物なら何でも喜ぶから、これも喜んでくれるだろう。


 茶店の馬乗り場で、先に馬に乗ったエフィムに手を引かれて、前に座る。

「あ……」

 エフィムが戸惑う声を上げた。

「何か?」

「その……マントの上からでは、確実に支えることが難しいです」


 いろいろと試してみて、マントの下で腰に腕を回すのが一番安定することが判明した。しっかりと腰に腕を回されると安心できるし温かい。


「エミーリヤ、寒くないですか?」

「大丈夫です。エフィムは寒くないのですか?」

 エフィムはコートの前を開けている。掴む場所のないコートよりも上着は掴みやすいけれど、寒くないのだろうか。

「独りで乗るより、とても温かいですよ」

 エフィムの優しい笑顔が嬉しくて、私は微笑み返した。

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