第10話 研究者の苦悩

 精霊の言葉の影響はとても恐ろしい。ふとした瞬間にダヴィットを疑ってしまう自分がいる。これがダヴィットが心配していたことなのだろう。


 ダヴィットは毎年、学校から首席の証明書を持ち帰ってきた。その証明書はずっと私の部屋に飾られていて、この屋敷に来る際にトランクの奥へ入れている。一年間の研究が認められたのだといつも年末年始の休暇に説明してくれていた。


 何の研究だっただろうかと考えても、そこだけが思い出せないことに気が付いた。というよりも何の研究なのか具体的に話してくれたことはなかった。


 親友と呼べる友人がいたことも聞いたことがない。学校の施設の詳細、特徴のある先生方の話、騒がしい男だらけの寮での生活、何でも話してくれていると思っていたのに、よく考えると授業や研究の話が抜け落ちている。


 春と夏に長期休暇がある筈なのに、町へは帰ってこなかった。旅費がもったいないから寮にいて研究を続けていると言っていたけれど、それは本当だったのだろうか。


 疑い出すときりがない。何故、私をここに呼んだのか。教育係以外の別の理由があるのか。


「何か心配事があるなら、聞きますよ」

 シーロフの声で我に返った。そうだ。メレフが昼寝をしているから一緒にお茶を飲んでいたのだった。私の紅茶はすっかり冷めていて、シーロフのカップは空になっていた。


「紅茶をもう一杯いかがですか? ……王都の学校というのは、どんな所なのでしょうか」

 部屋に設置された卓上焜炉でお湯を沸かして、紅茶を淹れる。


「すいません。私は平民上がりで騎士になったので、正規の学校には行ったことがありません」

 シーロフは十八歳の時に騎士の試験を受けて合格した。そこでフェイと出会ったと笑う。フェイも騎士なのだろうか。剣は持っていなかったし、シーロフのように鍛えられた雰囲気はない。


「貴族の方なのかと……」

 名字を持っているので、シーロフも貴族だと思っていた。

「正規の騎士になった際に家名を王から賜りました。……できれば、エフィムと呼んで頂けませんか? 家名で呼ばれると自分でないような気がします」


「わかりました。これからはエフィムと呼びますね」

 平民と聞いて一気に身近になった。私も正規の学校には行っていないと言うとエフィムが驚く。小さな町には学校はない。貴族や裕福な商人が多数いるような大きな町にしか学校は存在しない。


「作法も読み書きも貴族に劣りませんね」

「ありがとうございます。でも、それは褒め過ぎです」

 町長や神殿の神官に読み書きを習い、作法は貴族の老夫人の話し相手を務めた際に習い覚えた。独りで暮らすようになってからは、毎週発行される貴族向けの情報誌を読むことを欠かさなかった。


 すべては、ダヴィットが戻ってきた時に恥ずかしくないようにと考えた上での行動だった。


「どうぞ、エフィム」

 温かい紅茶を淹れて手渡す。

「ありがとうございます……エミーリヤ」

 遠慮がちに呼ばれた名前は、とても優しい響きに聞こえて、私は微笑まずにはいられなかった。



 二日に一度の薪小屋の前での待ち合わせは、いつも楽しみなはずなのに心が重い。精霊の言葉を信じてはいけないと思いながらも、考えれば考える程、ダヴィットを疑ってしまう。


 いつものように指を絡めた手を引かれて螺旋階段を上っている時に、ダヴィットが振り向いた。

「……もしかして、一昨日、精霊に何か言われた?」

 ダヴィットの笑顔が少し曇っている。

「え……」

 咄嗟に否定はできなかった。視線が落ち着かない。


「困ったな。やっぱりエミーリヤも信じてしまうのか」

 ダヴィットが溜息を吐く。悲しい顔が私の心を締めつける。


「昔、あの精霊は僕が人を毒で千人殺したっていう作り話をして……それは現実的ではなかったから誰も信じなかったんだけど、魔法で十人殺したっていう作り話の時は信じてしまう人もいて、誤解を解くのに苦労したんだ」

 人の反応を学習して、どんどん真実味を帯びた作り話になっていくとダヴィットが苦笑する。


「いろんな人に疑われて……僕の前から去った人も多い。……やってないことを証明することなんて難しいだろう?」

 ダヴィットの表情は、とても寂しそうで私の心も辛くなる。そう言われればそうだ。やったことを証明することはできるかもしれないけれど、やっていないことはそもそも証明できない。


「ごめんなさい。私はダヴィットのことを信じるわ」

 私は疑ってしまったことを心の底から後悔した。ダヴィットは私のことを心配してくれていたのに、私は精霊の言葉を信じてしまっていた。


「いや……いいんだ」

 ダヴィットの冷たい手が、私の手を強く握りしめた。

「……もし……もしも僕が、ここから逃げたいって言ったら、一緒に来てくれるかい?」

 ダヴィットがためらいがちに囁いた内容に、私の心が震えた。青い瞳は私しか映していない。


「もちろん行くわ。メレフも一緒に」

「……ごめん。メレフは連れてはいけない。王家の血が入っているからね。もしも僕たちが外国に逃げられたとしても、メレフを連れている限り、王家は血眼になって探すだろう」

 ダヴィットの言葉に私の心がしぼんでいく。幼いダヴィットにそっくりなメレフを置いていくなんてできない。


「……やっぱり無理か。そうだよな。……そもそも、僕が自由になるお金もないしね。研究費に全部消えてしまうんだ」

「お金ならあるわ。私が持ってる」

 自嘲に満ちたダヴィットの声を聞いて私は咄嗟に口にした。


「……それはエミーリヤのお金だ」

「私のお金ではないわ。王家からもらったお金よ」

 外国に逃げて、しばらく暮らせるだけの金額は十分にある。


「ダメだ。さっきの言葉は忘れてくれ。エミーリヤと二人で一緒に逃げるなんて、今更そんな夢を持った僕が悪かったんだ」

 ダヴィットは泣き出しそうな表情で微笑んで、研究室の扉を開けた。



 ここから一緒に逃げる。できればメレフも。

 私は時間があればそのことばかりを考えるようになった。平民は地図を手に入れることができないから、どの方向に逃げればいいのかわからない。


「エフィム、海のある国は遠いのですか?」

「隣ですよ。高い山を二つ越えることになります。冬は雪で覆われますし、春は雪が残っている。夏でないと超えるのは難しいでしょう」


 ならば夏までに準備をすればいい。紅茶を飲みながら、私は何が必要なのかを考える。山までは馬車を借り、山越えは案内人が必要。


「エフィム……」

 案内を頼もうとして、私は自分の安易な考えに恥じ入った。王城と連絡を取っている人に頼むことではない。

「何でしょうか?」

 エフィムの笑顔は優しい。


「何でもないの……その国のことを教えて頂けるかしら」

「ええ。もちろん」

 人の良いエフィムの笑顔に、私は罪悪感を抱いた。



 外国に行くには、とにかくお金がかかる。町長が管理する金庫に預けてきた現金の証書を見ながら溜息を吐く。少しでも多い方がいいと、私は家を売ることを思い付いた。いつかダヴィットと住みたいと思っていた家でも、逃げるのなら不要になる。ここに来る前に随分片付けてはいるし、思い出の品はトランクに入っている。一度休暇を申請して、家を売りに出そう。夏までに売れればいい。



 夕食の後、メレフを寝室付きの従僕へと預けて廊下を歩いていた。エフィムはわざわざ私を部屋まで送り届けてくれる。

「……最近、考え事が多いですね。エミーリヤ」

 隣を歩いていたエフィムが苦笑する。心配してくれているのがわかって、心苦しい。

「大した事ではないのよ」

 私は感情を隠しながら微笑んで返す。


「少し飲みませんか?」

 エフィムの誘いに私は驚いた。女性が酒場に行くなんて聞いたこともない。酒場は男性の社交場だ。

「あの……女性でも飲みに行けるのですか?」

「いえ。私の部屋……あ、それはマズイですね。控室か食堂で」

 エフィムが慌てている。


「……酒でも飲めば、貴女の口も少し軽くなるかと思いました」

「軽くして、何を聞くおつもりですか?」


「何を悩んでいるのか。ということです」

「悩んでなんかいません」

 エフィムの緑色の瞳が私を心配してくれている。何か言い訳をと考えてみても、何も思いつかない。


「この国の地図を見てみたいと思っています」

 小さく零した言葉をエフィムは拾った。部屋に地図があると言うので、私はエフィムの部屋へと引き返した。


 初めて入ったエフィムの部屋は狭かった。ベッドと書き物机、小さな本棚。クローゼット。壁には剣が一振り掛けられている。奥の扉は浴室だろうか。


「扉は開けておきます」

 そう言って、エフィムは扉の間に布を挟んだ。握りこぶし一つ分程、扉が開いている。他の使用人たちに誤解されないようにとの気遣いが優しい。

「……私が地図を持っていることは秘密にして下さい」

 本の中から取り出された小さな紙を広げると、書き物机いっぱいの大きさの地図が現れた。薄い紙はとても丈夫で破れることは無さそう。


「これが我が国なのですね」

 物語の中で地図が描かれていることはあっても、自分の国の地図を見ることは初めてだった。四方は山に囲まれ、王城がある王都は平野の中心にある。そこから、周辺へと道が伸び、町や村が点在して、森や川、大きな湖も描かれている。


「そうです。……この屋敷はここです」

 エフィムが指さす場所は、一番高い山の麓、周囲には村も町も少なく、森に囲まれている。

「国の端だから村も町も少ないのでしょうか」

「それは違います。こちらの端には村も町も多い」

 エフィムが指さした国の端には、大きな町が沢山ある。


「何故?」

「ここは国で一番厳しい場所だからです。冬の雪が多く、夏は暑い。土を掘り返しても石ばかりで実りが少ない。だから人が寄り付かない」

 平民公爵に与えられた土地の厳しさに私は震えた。領地はないとはいえ、あまりにも寂しい場所。


「何故、平民には地図が与えられないのでしょうか」

「平民の気軽な移動を防ぐということと、敵国の手に渡って侵攻されることを阻む為でしょうね」

 町がどこにあるのか、何日掛かるのか、土地の弱点等、地図でもたらされる情報は膨大で、そういった情報を外に出さない為らしい。


 エフィムの説明を聞きながら、私はどうやって外国へと逃げ出すかをずっと考えていた。



 研究室で精霊への薪やりをした後、私はダヴィットに切り出した。

「しばらく休暇を頂いて町に戻って、住んでいた家を売ろうと思うの」

「あの家を? それはダメだ。君が帰る家がなくなってしまう」

「私はダヴィットを置いて帰るつもりはないし、外国に行くなら必要なくなるわ」

 ダヴィットは悲しい顔をして黙ってしまった。


「……ヴェーラ夫人っていう親切な人がいて、手数料もほとんどなしで委任状を書けば何でも請け負ってくれるんだ。たぶん家を売ることも代行してくれる」

 ようやくダヴィットが口を開いた。

「私が書いた署名の紙があるでしょう?」

 ダヴィットの手で委任状にしてくれて構わないと思う。


「あれは、こんなことに使う為に書いてもらったんじゃないよ。ほら、いつもここにある」

 ダヴィットは胸ポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出して広げる。私が書いた名前が折れないように畳んであった。


「これがあるとエミーリヤがそばにいてくれるようで……そうか。ごめん。僕は疑われてたんだね。君の署名を悪用するって……ごめん。エミーリヤが僕を疑って当然だ」

 その言葉で、私が無意識にダヴィットに疑いを掛けていたと気が付いた。私の署名をダヴィットは大事に持っていてくれたのに。


「謝るのは私の方だわ。ごめんなさい」

 私はダヴィットの想いを裏切ってしまっていた。どう償えばいいのかわからない。


「やっぱり、やめておこう。お金は君の物だし……逃亡が成功するかどうかはわからない」

 ダヴィットの落胆した表情は、私の心を締めつける。


 私のせいでダヴィットは逃亡を諦めようとしている。それだけは阻止しなければと強く思う。机の上にあった白紙を取り、ペンを持つ。


「逃亡が成功しなくても構わないわ。研究に使ってもいい。何にせよ、お金があればいつでも逃げられるわ。機会を待ちましょう」

 私はお金の全額引き出しと、家を売るという委任状を書き上げて、ダヴィットに手渡した。

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