第7話 秘密の研究室

 王女が落ち着いた街着に黒いマントを羽織り、一人で馬車に乗って観劇に出かけて行った。


 あれから五日。その間に王女の呼び出しはなく、広い屋敷の中ではダヴィットと顔を合わせることもない。メレフとシーロフはすっかり仲が良くなった、というよりもメレフが一方的な対抗心を燃やしている。


 活発に動く散歩の時間にシーロフが一緒にいてくれるのは心強い。これまでは危ないと止めるしかなかったことも、シーロフが補助に入ると安心できる。


 これまでは、メレフがシーロフに近づくことはなかったらしく、シーロフも必要以上の接触は避けていた。理由を聞いても、ただなんとなく他者と関わってはいけない雰囲気があったというだけ。


 確かにこの屋敷は他者とのやり取りを拒絶しているような空気を漂わせている。私が下女たちと仲良くなったのは、空いた時間に雑務を手伝い、積極的に話し掛けてきたのが理由。王女の周囲にいる侍女たちとは、仕事を手伝う余地も接点もない。


 誰もが黙々と独りで自分の仕事だけをこなし続けている。それが屋敷の寒々しさの原因なのかもしれない。


「行ってくるね!」

 メレフの午前中の馬での散歩は、家令に正式に認められた。少し遠くの森まで行くだけでも、メレフは毎回目を輝かせて帰ってくる。


 メレフが外にいる間、私は薪小屋の前に置かれた切り株に座って休憩していた。ダヴィットを待ち伏せしているようで気が引けても、会いたいと思う気持ちが止まらない。


 会ってどうするのかと自問してみるけれど、ただ会いたいだけとしか答えが出ない。王女には敵わないし、ダヴィットに手が届く筈は無い。


 同じ屋敷にいるという距離の近さが、会いたいという気持ちを加速させているような気がする。メレフが文字を覚えて体が丈夫になったら、家に帰ろう。遠く離れれば、この気持ちも落ち着くだろう。


 私が溜息を吐いた時、ダヴィットが姿を見せた。

「エミーリヤ? おはよう」

「お、おはようございます」

 私の心が嬉しさに弾んでも、待っていたと思われないようにとも願ってしまう。切り株に座ったまま、挨拶をして背を向ける。


 音だけでダヴィットの行動を想像する。薪小屋の扉を開けて、棚に積まれた薪を取る。薪を投げる音がするのは、何かを選んでいるのかもしれない。また扉が開いた。


 何か声を掛けられることを期待していたのに、ダヴィットは扉を閉めて歩いて行く。私が落胆していると、薪を落とす音がした。

「うわっ!」

 ダヴィットの声に振り向くと、一人では抱えきれない量の薪を腕に抱え、数本を地面に落としていた。私は慌てて駆け寄って、落ちた薪を拾う。


「運ぶのを手伝うわ」

 女の手では沢山は運べないとわかっていても、私はどうしても手伝いたかった。ダヴィットが落とした薪を腕に持つ。


「じゃあ、ついてきて」

 ダヴィットは背を向けて歩き出してしまった。周囲に従僕がいないので隣を歩きたいと思うのに、歩みが早くて後ろをついて行くのがやっと。


 ダヴィットは開けっ放しの扉の中に入っていく。中にはすぐに螺旋階段で、二階にある主人の部屋ではなく、さらに上って三階へと上がる。狭い廊下の先に一つ扉があるだけで、どこにも繋がってはいない。他に階段はなく、隠し部屋なのかもしれない。


「ここから先で見ることは、秘密にして欲しい」

 振り向いたダヴィットの言葉に微笑んで首肯する。ダヴィットと秘密を共有できることが嬉しい。


 扉の中は広い部屋だった。一つしかない窓には黒いカーテンが掛けられ、壁には文字のような紋様が白い絵の具で描かれた黒い布。深い飴色の木床のあちこちには白墨で描かれた丸や四角の複雑な図形が描かれている。


 中央には机が置かれて、様々な図形が描かれた紙が散らかっている。引き出しの付いた棚には、様々な花や草、木の枝、色とりどりの石が入ったガラス瓶が並んでいる。本棚はなく、あちこちに本が積み上げられていた。


 隅には両腕で抱えられない程大きな鉄鍋が二つ置かれていて、何か液体が煮られていた。使われているのは魔法石を燃料にする焜炉。薪を使う為の暖炉はない。


 反対側の隅に、大きな円錐形の金の鳥かごが白い石の台座の上に置かれている。大人が入れそうな巨大な物で、中には炎のような赤い色の毛皮。


「ダヴィット……ここは?」

 まるで物語の中の魔女の部屋のような不思議な場所。

「僕の研究室だ。薪はここに」

 ダヴィットが薪を鳥かごの横の床に置く。

 炎のような色の赤い毛皮に見えていたのは丸まって眠る猫だった。長い毛が優雅で美しい。


 赤い猫が美しい琥珀のような目を開いた。私の方へと視線を向ける。

『……お前は?』

「エミーリヤよ」

 猫が口をきいた。驚きながらも、その可愛らしさに微笑む。


『ふん。エミーリヤ、供物を寄越せ』

「エミーリヤは火の精霊に気に入られたようだね」

 ダヴィットが苦笑しながら私に薪を手渡し、精霊に差し出すようにと指示される。外国には沢山の精霊がいると聞いてはいても、実際見るのは初めてで鼓動が高鳴る。


 薪を鉄柵の間に差し入れると、起き上がった精霊は両手で薪を持ち、ばりばりと食べ始めた。かみ砕くと緑色の光の粒が弾けて口の中に消えていく。三本の薪を食べ終えると、精霊はもういいと言って、猫のように丸まってしまった。

 

 私が薪をやっている間、ダヴィットは鍋に何かを入れて混ぜていた。何もすることがなくなった私は、ダヴィットへと近づく。鍋の中身は赤黒い血のような色。複雑な薬草の匂いがかすかに漂っている。


「これが今の僕の仕事だ」

 ダヴィットが鍋の中身を木べらで混ぜながら言う。

「貴族の仕事は領地の管理ではないの?」


「研究が僕の仕事なんだ。僕に領地はない。領民もいない。……生活のすべては王家の予算から出されているから不自由はない。使用人の給金も王家から支払われる」

 だから給与支払いが半年ごとなのかと、私は納得した。


「僕に爵位が与えられたのも、僕の卒業論文を元にした研究を続けることが条件の一つだった」

「何の研究をしているの」

「魔法薬さ。内容は絶対に秘密にしなければならないが、それを王が欲しがっている」


「魔法薬? ダヴィット、魔力があるの?」

 私は驚いた。この国では精霊を使役し、魔法を使うための魔力を持つ者が失われて久しい。他の国では王族や貴族が魔力を持ち、無から有を生み出す奇跡の力――神力を持つ者がいても、この国の王族にはそんな力を持つ者はいない。

 魔法薬を作るには、魔力が必要だと物語には書いてある。


「僕にはない。だから火の精霊に協力を受けてる」

 がしゃりという金属音に振り向くと、精霊が苛ついたようにしっぽで鳥かごを叩いていた。

「どうしたの?」

『……別に』

 精霊は、私の問いに短く答えて目を閉じた。


 精霊は強い魔力を持っていると物語には書いてあった。魔法というものを突然身近に感じて、胸がときめく。

「エミーリヤは気に入られたみたいだね。僕とはろくに話してもくれないのに」

 ダヴィットが苦笑する。


「この魔法薬は僕の親友と一緒に研究していた物なんだ」

「親友?」

 驚いた。今まで親友がいると聞いたことがなかった。毎年、年末年始の休暇に戻って来てはいろんな話をしてくれていたけれど、友達の話は一切なかった。


「ああ。卒業式の直前に死んでしまったけどね。……いろいろあるけど、僕は魔法薬の研究に打ち込まなければ……」

『おい。エミーリヤ、外で子供がお前の名前を呼んでるぞ』

 ダヴィットの言葉を精霊が遮った。私には聞こえなくても精霊の耳は外の音も聞こえるらしい。


「……きっとメレフだわ。私、戻らなくちゃ」

 もっとダヴィットの話を聞きたい。とは思っても、私はダヴィットにメレフを任されている。ダヴィットに任された仕事を優先しなければ。


 身体を扉に向けた瞬間、ダヴィットが私の手を掴んだ。

「え?」

 ダヴィットの手は、とても冷たい。

「ダヴィット? 手が冷たいわ。大丈夫?」

「……手が冷たいのはいつもだから大丈夫だよ」

 手を強く握られて、私の鼓動が跳ね上がる。手が触れ合うのは、幼い時以来。


 思わず握られた手とは反対の手でダヴィットの手を包み込むとダヴィットが微笑む。

「エミーリヤの手は暖かいね」

 青い瞳には私だけが映り込んでいる。泣きたい程の嬉しさに心が締めつけられる。


『エミーリヤ、子供が泣いてるぞ』

 精霊の言葉で私は我に返り、ダヴィットの手も緩んだ。

 私は逃げるようにして、研究室を飛び出した。



「エミーリヤ!」

 螺旋階段を駆け降り、裏口の扉を閉めた時、メレフの叫びが聞こえた。振り向くとメレフが泣きながら走ってくる。

「メレフ、どうしたの?」

 勢いよく抱き着かれて、そのまま後ろに倒れるようにして地面に座り込む。


「いなくなっちゃ嫌だ!」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔は、転んだりした時の幼いダヴィットに良く似ていた。私はこの表情を見る度に、何とかしなければといつも思っていた。

「私はいなくなったりしないから、心配しないで」 

 それは嘘だとわかっていながら、私は口にした。泣き笑いをする顔も、幼いダヴィットに良く似ている。


 メレフを抱きしめていると、王女に恋する前のダヴィットによく抱きしめられたことを思い出す。あの時のダヴィットは暖かかった。また抱きしめられたいと思うけれど、それは夢でしかない。


「探しました」

 歩いてきたシーロフの声が少し固く聞こえる。

「ごめんなさい」

「いえ。責めている訳ではありませんので、謝らなくていいですよ」

 見上げるとシーロフの淡い笑顔でほっとする。


「そろそろ昼食の時間です」

 私に抱き着いたままのメレフをシーロフが腰を掴んで持ち上げた。

「え?」

 シーロフが軽々とメレフを肩に乗せると、メレフの顔が喜びに輝く。


「立てますか?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 シーロフが差し出した手を微笑みながら断って、私は自分の力で立ち上がった。



 メレフに毎日本を読み聞かせていると、新しい本が欲しいと思うようになっていた。本を買いに行きたいとシーロフに相談すると、村の向こうの町まで馬車で行くことを提案された。家令に許可を取ろうと日程を話し合う。


「この屋敷の図書室には本がないのですね」

 ダヴィットの研究室には本がたくさん積まれていたのに、図書室の棚をすべて埋める程の量はなかった。

「私が来た頃は多くの蔵書がありました。図書室の両隣の部屋にも本が溢れていました」


「何故、今はないのでしょうか」

「……売ってしまわれたのかもしれません。業者らしき者が来て、何台もの馬車に積んで運んでいきました。古い物が多かったので修繕かと思いましたが、それ以来戻ってきていません」


「それは……寂しいお話ですね」

 公爵家の屋敷なら、貴重な書物もあっただろう。まさか平民が公爵になったから、本を王家に取り上げられてしまったのだろうか。様々な可能性を考えながら、私は溜息を吐く。


「メレフ様はどういった話がお好きなのですか?」

 シーロフの問いで我に返った。

「冒険物語ですね。特に海が出てくるお話が好きなようです。……私は海を見たことがありませんので、詳しく説明を求められると困ってしまいます。貴方は海を見たことは?」

 

「あります。夏の海で泳いだこともありますよ」

 シーロフの声が明るい。

「そのお話を詳しく教えていただけますか?」


「海に行ってみませんか? 実物を見た方が早い。言葉では説明できない程大きくて、時間や季節で美しい光景や、厳しい光景を見せてくれます」

 美しい光景だけではないという言葉で一気に興味が沸き上がる。


「外国旅行になりますよね?」

 この国は四方が山に囲まれていて、大きな湖はあっても海はない。外国に行くには高い山を越えて行かなければならない。


「ええ。伝手つてはあります」

「そうですね。もしも可能なら、メレフ様と一緒に行ってみたいです」

「……メレフ様を外国に連れ出すのは難しいかもしれません」

「それは残念です」

 メレフが海を見ればきっと喜ぶのに。せめて説明ができるようにと、私はシーロフに海のことを尋ね続けた。



 翌日、メレフの馬での散歩を送り出した後、薪小屋の前で私は休憩していた。ダヴィットはあの薪が無くなるまでは来ないだろうとわかっていても、期待してしまう。


「何の本を買おうかしら」

 独り呟いて空を見上げる。海が関係する冒険物語があればいいと思うけれど、私が知っている物は既に持ち込んでいる。


 シーロフも沢山の本を読んでいたらしい。本の話題になると話が弾む。恋愛物が苦手な私は、歴史物や戦記物、幻想話等、シーロフと好みが重なっているので話題が尽きない。


「おはよう、エミーリヤ」

 思いがけない声に驚いて振り向くと、青い瞳が私を見て微笑んでいた。挨拶を返さなければと思うのに、嬉しすぎて声がでない。


「お願いしたいことがあるんだ」

 ダヴィットの言葉に私の心が喜ぶ。

「……何かしら」

 ようやく出た私の言葉に何も答えることなく、ダヴィットは私の手を引いて研究室へ続く裏口の扉を開けた。ダヴィットの手は冷たいままでも、幼い頃のように指を絡めるように手を繋がれて、私の鼓動が跳ね上がる。


 螺旋階段を上がりきった薄暗い廊下で、振り向いたダヴィットが私に向き合う。

「二日に一度、火の精霊に薪をあげて欲しいんだ」

「薪を?」

「ああ。……僕の渡す薪を食べなくなってしまったんだ。研究に支障がでてる」


「それは大変なことね。私が薪をあげて食べてくれるかしら」

「火の精霊は君を気に入っているから大丈夫だよ。……ただ……」

 ダヴィットの表情が沈むと、私の心まで沈んでいく。


「あの火の精霊は昔、悪いことをして、罰としてあの檻に閉じ込められている。檻から抜け出す為に、他人に嘘を言うんだ。君がその嘘を信じてしまわないか心配だよ」


「悪いこと? そんな風には見えないわ」

 とても可愛い赤い色の猫にしか見えない。


「そう見えるだろう? だからこそ怖ろしいんだ。今まで、多くの人間が騙されている。僕は苦労してあの檻に閉じ込めたんだ」

 ダヴィットの表情は真剣で。念押しするように強く手を握られて、私は絶対に精霊の言葉に惑わされないと誓う。


「大丈夫。何を言われても、私はダヴィットを信じるから心配しないで」

 私が微笑むとダヴィットも明るい笑顔を見せた。

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