第6話 青い空を飛ぶ鳥

 夜明け直後の薄暗い中、私は帰り支度をして大小のトランクを運んでいた。無断で辞めるのは気が引けると思いつつも、契約にない仕事は受けられないという手紙は残してきた。


 この屋敷から村までは距離があるけれど、今から歩いていけば昼には到着できるだろう。村で馬車を借りるか、乗り合い馬車を待てばいい。


 裏門に手を掛けた時、メレフの声が背後から聞こえて振り向く。

「おはようエミーリヤ! その荷物は何? どこに行くの?」

 あれ程辞めようと思っていたのに、笑顔で抱き着いてきたメレフの体温に絆された。家に帰ると言えずに曖昧に微笑むことしかできない。


「おはようございます」

 かがんでメレフと抱き合うと、その温かさが心に染みる。首に巻き付く腕の細さと体の細さに、このまま置いて行くことをためらう。……せめてもう少し体が丈夫になるまで一緒にいたい。


 メレフと一緒にいたのはシーロフだった。地面に置いたトランクを静かに取り上げられる。

「おはようございます。……軽くなっていますね」

「……中身は殆ど本でしたので」

 子供向けの本はメレフの部屋の本棚に入っている。トランクの中に残っているのは数冊の大人向けの本だけ。


「こんなに朝早くに散歩ですか?」

「メレフ様に目が覚めたと起こされました。部屋が近いのです」

 シーロフの顔に、うっすらと苦笑が滲む。


「今日は鳥に餌をあげたのですか?」

「鳥に餌って何!?」

 何気ない私の問いに真っ先に反応したのは私に抱き着いたままのメレフだった。


「今朝は餌やりの日ではないので、鳥は大して集まりません。明日の朝ですね」

 いつの間にか私はメレフと鳥に餌やりをする約束をしてしまっていた。


 そのままの流れで散歩が始まり、その後シーロフも一緒に食事をすることになった。

「いつもは食堂で?」

「いえ。部屋に用意されています」 

 シーロフも私と同じだったと初めて知った。メレフの希望を受けて両隣に席を設ける。


 干し肉と野菜のスープ、卵焼きと薄切りソーセージ、パンというメニューは、平民の食事よりも肉類が少し多い程度で、質素といえるもの。貴族なら珍しい物や高価な物を食べているのかと思っていたのに、それは全くの見当違いだった。


「エフィム……それ、全部食べるの?」

 並べられた料理を見てメレフが目を大きく見開いている。シーロフの料理の量は、私も見たことがない程多い。スープの皿も大きくて、卵焼きが皿に山のように積み上げられている。ソーセージは薄切りではなく切られる前の状態で添えられて、パンが皿ではなく籠に盛られている。


「はい。メレフ様もたくさん食べないと大きくなれませんよ」

 食事を始めたシーロフはカトラリーを普通に使っている。メレフにナイフとフォークの使い方を教える際にも、手本があるのは心強い。シーロフに対抗心を燃やすメレフは、意地になって使い方を練習する。


 食事を終え、馬に乗りたいというメレフの希望をシーロフは受け入れた。メレフが服を着替えるのを部屋の前で待つ。


「部屋が近いとおっしゃっていましたね」

「はい。そちらの扉、二つ隣の部屋です」

 メレフの部屋は公爵家の中央にある主人の部屋からは遠く、客室に設けられている。


「……あの家に帰るのであれば、私に言って下さい。馬か馬車で送ります」

 シーロフが静かに囁いた。

「ありがとうございます。……もう少しお勤めしようかと思います」


「何か辞めたい理由があるなら聞きますよ」

 そうは言われても、他人に聞かせるべき話ではない。ダヴィットと王女の仲睦まじい姿を見たくないというだけ。

 私の沈黙をどう受け取ったのかはわからないけれど、シーロフは話題を変えた。



 メレフは馬に乗ったことがなかった。そもそも屋敷の外に出たことが無いと言う。シーロフが厩舎から連れてきた馬は栗毛で足先が白く黒革でできた鞍が掛けられていた。


 シーロフが馬に乗り、私がメレフを抱き上げてシーロフに受け渡す。メレフはシーロフの前に乗せられて、喜びではしゃいでいる。

「怖くないですか?」

 シーロフの問いにメレフは怖くないと答える。


「貴女も乗りますか?」

 手を差し出したシーロフの意外な誘いに、私は驚いた。この国の馬は大型で、乗り方を工夫すれば大人三人が乗ることもできると聞いたことはあっても、実際に乗っている姿を見たことは無い。


「いいえ。見ているだけで結構です。実は馬に乗ったことがありませんので、少し怖くて」

 そう告げるとシーロフは差し出した手を引いた。


「エフィム! 遠くが見えるよ!」

 馬の高さはメレフにとって初めての視界を提供してくれているらしい。興奮しながら笑顔で叫び続けている。片手で手綱を操るシーロフがしっかりとメレフの腰を掴んでいるから、見ていても安心できる。


「屋敷の周囲を一回りしてきます」

 家令に許可を取らなくてもいいのかと聞いたけれど、シーロフはすぐに戻るので大丈夫でしょうと言って、メレフを馬に乗せたまま裏口から出て行った。



 独りになると悲しい気持ちが蘇ってきた。ダヴィットは王女と不仲だと言っていたのに、昨夜の声は聞いたことがない程甘いものだった。


 私には決して向けられない声だと思ったから、この屋敷から逃げ出すことにしたのに、メレフに見つかってしまった。メレフの姿を見ると、幼いダヴィットが帰ってきたように思えて心が喜んでしまう。


 涙が零れそうになって、私は薪小屋の陰へと隠れて手巾で拭う。深呼吸をしていると小屋の扉が開いた。


 中から出てきたのは、薪を腕一杯に抱えたダヴィットだった。思いがけない遭遇に私の心臓が躍る。アイロンのかかった白いシャツの袖をまくり上げ、黒いズボンにブーツという優雅な姿は、たとえ薪を抱えていても貴族の青年にしか見えない。


「おはよう。エミーリヤ」

 一体、何年ぶりの挨拶だろうか。私の心が震える。

「お、おはよう、ございます」

 昔のように答えかけて、ぎりぎり踏みとどまる。ダヴィットは公爵で、私は平民。


「……ダヴィット、私、契約書に無い仕事はできないわ」

 違う。もっと違うことを言いたいのに、言葉が出てこない。

「契約書に無い仕事?」

「寝室へ夜食を運ぶ仕事よ」

 私の言葉で、ダヴィットの顔色がさっと青くなった。


「もしかして……ごめん」

 ダヴィットは無言になってしまった。

「仲が……悪いのではなかったの?」

 声が震える。ダヴィットを困らせたい訳ではないけれど、どうしても確認しておきたかった。


「……君が来ることになってから、態度が変わったんだ。……ごめん」

 今度は視線を逸らしてしまった。こうなるとダヴィットから何も聞けないのは、わかっている。

 私が来ることになって変わったというのなら、王女の気まぐれということだろうか。私は話題を変えることにした。


「メレフが寂しがっているの。食事だけでも一緒に取ることはできないの?」

「僕はメレフに極力近づかないように王から命令されているんだ」

 ダヴィットの寂しい声と表情に、私の胸は締め付けられるような痛みを感じる。こんな表情はして欲しくない。


「……将来、メレフは別の公爵家の養子になることが決まっている。だから僕が情を移さないように行動を制限されている」

「でも、メレフはとても寂しい思いをしているのよ。このままで養子に出されたら、きっと捨てられたと勘違いしてしまう」


「……酷い親だと思うだろう。でも、それでいいんだ。この公爵家は一代限りなんだ。平民の僕には永代の爵位は与えられなかった。僕はメレフに何も残してやれない」

 私はダヴィットの言葉に衝撃を受けた。実の子に何かを残したくても残せない苦しみをダヴィットは味わっている。自らが悪者になっても、メレフが将来良い待遇を受けることができるようにと心を砕いているのか。たった一人、平民が貴族の中に入ることの重圧を想像するだけで恐ろしい。


「……寂しいことね」

 私は何も言えなくなってしまった。ダヴィットに話したいことが沢山あった筈なのに、言葉が出てこない。


「ごめん、もう戻らないと。……僕の替わりに、メレフを頼むよ」

 ダヴィットに大事な息子を頼まれている。私の心は喜びに満ち溢れた。

「ええ。大事にするわ。任せて」

 薪を抱えて屋敷へと戻って行くダヴィットの背中を見送りながら、私はダヴィットからメレフを託されたことに幸せを感じていた。



「エミーリヤ!」

 しばらくして、メレフとシーロフが戻ってきた。馬から降りたメレフの手には葉脈だけになった枯れ葉が握られている。


「綺麗でしょ!」

「ええ。綺麗ね」

 白い葉脈がレースのよう。人の手で編まれるレースはとても高価な物で、平民の服には使われることはない。


「あげる!」

「もらってもいいの?」

「いいよ! だって、エミーリヤにあげる為にエフィムと一番綺麗なのを選んだんだ!」

 メレフの笑顔が幼いダヴィットと重なる。初めての贈物に心が躍る。


「ありがとうございます。大事にするわね」

 私は心からのお礼の言葉をメレフとシーロフに返した。



 昼食も三人で食べ、午後はメレフの希望で裏庭へと向かう。

「僕ね、木登りっていうのしてみたい!」

 メレフの目が輝いている。きっと先日読み聞かせた冒険物語のせいだろう。

「木登りなんて……危ないわ」

 私が止めるのも聞かずに、メレフは大きな木に手を掛ける。もちろん登れる訳がない。


「まずは手足を鍛えてからですね」

 苦笑するシーロフが片手で軽々とメレフを掴んで、私の肩程の高さの枝に座らせた。


「落ちないように平衡バランスを取って下さい。平衡の取り方は、朝の乗馬で少し教えましたね。覚えていますか?」

「覚えてるよ!」

 メレフが座っているのは太い枝なので折れることはないとは思いながらも、落ちないか心配になる。メレフは真剣な顔で座る場所を探っている。


「うん。大丈夫!」

「手を離しますよ」

 シーロフが手を離すとメレフの体が揺れている。危ないと見ていられなくて手を伸ばそうとするとシーロフに止められた。


「中途半端に手を出すと危険です」

 シーロフの言葉は正しい。五歳の子供とはいえ、この高さから落ちてきたら私では支えきれない。一緒に怪我をする結果が目に見えている。


 メレフは必死に両手で枝を掴み体を安定させようとしていても、ふらついている。

「うわっ!」

 メレフが背中から落ちてシーロフが片腕で受け止めた。シーロフがいるから大丈夫だろうと信じていても、それでも心臓が握りつぶされるような気がした。


「メレフ様、まずは腕と脚を鍛える必要があると理解できましたか?」

 五歳の子供に理解を求めるのは難しいと思ったのに、メレフは大きく頷いた。


「僕は絶対、エフィムに勝つ!」

 シーロフの片手でぶら下げられながらメレフの目は闘志に燃えていて、その光景は微笑ましい。

「文字も覚えるからね!」

 メレフの宣言に、私は笑いを堪えることができなかった。



 翌朝、メレフとシーロフと約束した鳥の餌やりの時刻が近づいていた。少し早めに起きた私は、待ち合わせ場所へと向かう。


「おはようございます」

 待っていたのはシーロフ一人。メレフの姿はない。

「おはようございます。メレフ様は?」

「まだ眠っていらっしゃるようです。昨日の疲れが抜けていないのでしょう」

 シーロフの言葉に私は納得した。いつもの昼寝もせずに走り回り、飛び跳ねていた。あれだけ遊べば相当疲れただろう。


「それでは、今日は中止ですね」

「……せっかくですから鳥に餌をやりませんか? 三人だと思っていましたので、パンくずをたくさんもらい過ぎました」

 シーロフが持つ布袋の中には、たくさんのパンくずが入っていた。


 シーロフはポケットから大人の親指の第一関節くらいの大きさの、筒状の金属を取り出した。筒には複雑な彫刻が施してあり、細い紐が通してある。

「それは?」

「鳥を呼ぶ笛です。下手な自作ですが、鳥たちには評判が良いようです」

 手渡された笛は見た目よりも遥かに軽く、内側にも模様が彫られている。長く使っているのか、すり減っている個所もある。


「よく使い込まれた物ですね」

「そうですね。頻繁に使っていますから。そろそろ新しい物を作ろうと思っています」

 笛を返そうとして、シーロフの大きな手に目が留まった。この大きな手が繊細な模様を彫るのかと驚きと感嘆の思いが心に沸き上がる。


 紐を持ち、筒を振り回すように回転させると微かな音が発生する。たちまち鳥たちが集まってきた。


「こうやって呼んでいたのね」

「ええ」

 シーロフが笛を回す手を止めると白い鳥と黒い鳥が飛んできて、シーロフの肩と腕に乗った。シーロフに促されて周囲にパンくずを撒くと鳥たちが一斉に餌をついばむ。


「痛くありませんか?」

 シーロフの肩と腕に乗ったどちらの鳥も爪が鋭い。鋭い顔つきで見たこともない鳥。足に何か筒のような物が付けられていることに気がついた。


「これは?」

「中に手紙が入っています。……ここからは絶対に秘密にしていただけますか?」

「え? ええ」

 声を落としたシーロフに頷く。秘密という言葉に心がざわめく。


「この白い鳥は王城とのやり取りをしています。この黒い鳥は私の故郷の家族とやり取りをしています」

「王城?」

「……降嫁されたとはいえ王女ですから、王が心配されているのです。何か変化があれば連絡するようにと言われています。スヴェトラーナ様にも公爵にも秘密ですよ」

 小さな秘密とは言えない大きな秘密に動揺する。こんなことを教育係の私に知られてもいいのだろうか。


「貴方は国の間諜なのですか?」

「いいえ。元・護衛騎士です。今は王の命令でスヴェトラーナ様の護衛としてこの屋敷に務めています」

 騎士と聞いて、その立派な体格の理由がわかった。


「貴女はここに来てから一カ月半、どこにも手紙を出していないと聞いていますが、ご家族は?」

「……私の家族は……今、どこにいるかわかりません」

 私を心配してくれる家族は、もうどこにもいない。探すつもりもない。


「では、私が父になりましょう」

 突然のシーロフの提案に私は驚く。見上げたシーロフの整った顔は真面目な表情で、冗談を言っているとは思えない。

「……おいくつですか?」

「今年二十八になります」

「私は二十四です。四歳しか違わないのに父なのですか? 兄ではないのですね」

 

「私には兄が三人おりますが、全員嫌な男なのです。ですから兄は嫌ですね」

 口を引き結んだ表情は、どこか拗ねているようで可愛らしく感じてしまう。肩と腕に乗った鳥も同意するように首を縦に振るので、私の悲しい気持ちはどこかへ行ってしまった。


「家族と聞いたら私を思い出して下さい。ただし、兄ではないですよ」

 一転して淡い笑顔になったシーロフを見て、私は微笑まずにはいられなかった。

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