第5話 思い出の木の下で
「エミーリヤ! あの黄色の大きな花は図鑑に載っていたスティアだね」
ダヴィットと同じ金色の髪と青い目を輝かせてメレフが笑う。我儘に暴れることも無くなり素直になった。
一緒に過ごす時間を重ねるうち、メレフは圧倒的に運動不足なのだと気が付いた。五歳の標準的な体型より手足が細く、よく転倒する。足腰を鍛えなければと、メレフが飽きるまで散歩することが増えていた。
「そうよ。よくわかったわね。素晴らしいわ」
メレフは散歩の際には必ず手を繋ぎたがる。昔、王家のパレードを見に行った時に、ダヴィットと手を繋いでいたのに、王女の姿を見た途端に手を振りほどかれた。あの時は悲しかったけれど、メレフと手を繋いでいると昔のダヴィットを思い出して愛しくなる。
近くの村で鳴らされる時報の鐘が周囲に響いた。貴族や首長の屋敷が一番大きな鐘を鳴らす筈なのに、この屋敷の立派な
「そろそろ昼食の時間ね」
この国の平民は朝夜の二食が普通。この屋敷では使用人にも朝昼夜と三食が用意されている。
「ねえ、一緒に食事しようよ」
メレフは独りで食べていると聞いて、私は家令に許可を取って一緒に食べることを了承した。
公爵家の食事は主人やその家族が食べる部屋と、上級使用人が食べる部屋、下級使用人が食べる部屋と三つの食堂で取るようになっている。私は何故か自分の部屋に食事を用意されていた。
メレフに手を引かれて入った部屋には、大人三人分程の長い長いテーブルに白い布が掛けられ、豪華な彫刻が施された深い飴色の椅子が並んでいる。椅子の背は大人の男性程の高さがあり、小さなメレフが一人で椅子に座って食事をする光景は、寒々しいことだろう。私はメレフの隣に席を作ってもらうことにした。
出てきた料理は私がいつも食べている食事と変わらない質素なものだった。野菜とベーコンのスープ、内臓肉のテリーヌ、卵と干魚の炒め物とパン。飾りつけは凝っていても、どこか古臭い。
「カトラリーはないのですか?」
料理を運んできた従僕に尋ねると、すぐに用意してくれた。スプーンやフォーク、いわゆるカトラリーは八年前に我が国に広まった。自分専用のスプーンとフォークとナイフのセットを袋に入れて携帯することが流行し、私も自室での食事に使っている。文化の最先端であるべき公爵家に無いはずがない。
「エミーリヤ! それは何?」
メレフが銀色のカトラリーを見て目を輝かせる。公爵家のカトラリーは、よく磨かれた銀の光沢を放っている。
「これはスプーン。料理をすくって食べる物よ」
メレフの食事の仕方は十年以上前のカトラリーの無かった時代の作法に沿っていた。おそらくは古参の教育係が教え込んだのだろう。所作は美しくても、すべて手掴み。器から直接スープを飲む行為は、今では不作法と言われている。
「お父様と食事をしたことはある?」
ダヴィットはカトラリーを知っているはず。ところがメレフは寂し気な顔で頭を横に振る。
「お父様とお母様は、別のお部屋で食べてるの」
メレフの答えに私はめまいを覚えた。自分の息子だというのに、他人にすべてを任せて平気なのか。それが王家の決まりなのだろうか。
少ししてメレフの食事の手が止まった。皿には半分以上の料理が残されている。子供用に少なく盛られた料理のさらに半分。メレフに確認すると、いつもよりもたくさん食べたと言われてしまう。
「……メレフ、スプーンを使ってみましょうか」
私は明るい笑顔を作って、メレフに笑い掛けた。
昼食の後、中庭だけでなく裏庭にも散歩の足を伸ばす。中庭は華やかな花の咲く木や草が多く、裏庭には目立たない花や実をつける木が植えられている。
私は一本の木の前で立ち止まった。秋にも青々とした葉を茂らせるのはトフラの木の特徴。親指の先程の大きさの楕円形で、艶のある葉は硬い。
「エミーリヤ、この木は何?」
「これはトフラの木よ。冬になると、小さな青い花がいっぱい咲くの」
背の高い木を見上げながら、私の胸は懐かしさに占められる。
ダヴィットと私の家の近くにあった空き地にもトフラの木があった。
『平民でも一生懸命頑張って勉強すれば、きっと王女様に会えるわ!』
王家のパレードから帰る途中、私はこの木の下で、自分は平民だから王女様にはもう会えないと悲しい顔をするダヴィットを励ました。
『そうか。そうだね。僕、頑張るよ』
その一言でダヴィットの努力は始まった。――このトフラの木は思い出の木、始まりの木。
私が懐かしさに木の幹に手を添えた時、薪を割る音が響き渡った。魔力を含む安価な魔法石を燃料に使う今、逆に高価になった薪を使うことはほとんどない。町で薪を使うのは収穫祭の時に広場で大焚火をする時だけ。
音に興味を持ったメレフに手を引かれて行くと、斧で薪を割る深い草色の髪のシーロフの姿が見えた。
上着を脱ぎ、白いシャツの前ボタンを二つ程外して袖をまくり上げ、こげ茶色のズボンに黒いブーツ。今まで全く気が付かなかったけれど、とても鍛えられた体。剣ではなく斧を振るう姿も凛々しい。
「エフィム!」
メレフがシーロフに走り寄ろうとするのを、私は抱き止めた。割った薪が飛んでくるかもしれない。
私の意図を察したのか、シーロフは手を止めた。メレフを解放すると走り出す。
「エフィム! 何してるの?」
今まで音は聞いていても何をしているのかわからなかったとメレフが言う。これまでは裏庭に近づくことさえ許されなかったらしい。
「この薪は何に使うのですか?」
メレフが怪我をしないようにと目を配りながら、シーロフに尋ねる。
「公爵がお使いになるそうです。用途は知らされていません」
唐突なダヴィットの話題に、私の心臓が跳ね上がる。この薪はダヴィットの手に渡るのか。思わず割られた木片の一つを手にして撫でる。……私の想いが届けばいいのに。
「貴女も薪を見たことがなかったのですか?」
シーロフの声で私は恥じ入った。人目があるというのに、一体私は何をしているのか。慌てて取り繕う為に、私は話題を探す。
「いえ。町の収穫祭が懐かしいと思っただけです。……あの……隅に植えられているのはトフラの木ですね」
「あれは公爵がこちらに移られて最初に植えられた木です。最初は人の背丈ほどでしたが、今では大きくなりました」
シーロフの言葉は途中から私の耳を滑り落ちて行き、私の心はどうしようもなく喜びに包まれる。ダヴィットは、あの思い出の木を忘れてはいなかった。きっと私との思い出を懐かしんで植えたのだろう。
私との思い出がダヴィットの心の中にある。それだけでも嬉しい。
「エフィム! 僕もやってみたい!」
「メレフ様、もう少し体が大きくならないと斧は持てませんよ」
不満気な顔をするメレフにシーロフは斧を持たせたけれど、持ち上げることもできない。
「僕は絶対にエフィムより大きくなる!」
背の高いシーロフを指さしながら、挑戦するように叫ぶメレフの姿に、私は笑いを堪えることができなかった。
その日の夕食で、メレフは皿に盛られた料理を食べきった。それでも少ないとは思っても、残すことが無くなったのは喜ぶべきこと。
「僕ね、エフィムみたいに大きくなって、エミーリヤと結婚するんだ」
そっと耳打ちされたメレフの言葉は、まるで幼い頃のダヴィットの言葉のように聞こえて、私の心が震える。
それは無理だと返すべきなのに、どうしても言葉が出てこない。私が曖昧な笑みを浮かべると、メレフは機嫌の良い笑顔を浮かべて、従僕たちと一緒に寝室へと向かって行った。
夜になり、早めにベッドに入ったというのに私は眠りにつけずにいた。思い出の木のことと、メレフの言葉を反芻しながら幸せな夢想に浸る。ダヴィットは私との思い出を大切にしてくれている。メレフの言葉は王女に恋する前のダヴィットが帰ってきたようで心に染みる。
ようやく眠りかけた頃に扉を乱暴に叩く音がして、何事かと扉を開けると老齢の侍女が待っていた。
この屋敷の使用人は、シーロフと私を除いて全員黒い服を着用している。白髪交じりの髪をきっちりと結い上げ、薄暗い廊下に
「何か御用でしょうか」
「奥様がお呼びです」
目の前が真っ暗になった気がした。また、二人の姿を見せ付けようというのだろうか。
理由を尋ねても無駄だった。私は急かされながら露出の少ない服をきっちりと着こみ、髪を整えて侍女と共に主寝室へと向かう。
廊下の窓から見える白い月フルトの位置から察する時間は深夜。夜明けまではまだ遠い。
主寝室の前室の扉の前にはワゴンが置かれていた。お酒の瓶やガラスのグラス、色あざやかな料理の皿が載せられている。
「料理を運んでテーブルに並べよ、とのことです」
私は教育係だという主張も侍女には一切通じない。侍女は奥様に命令されたと言い、私がこの命令を聞かないのであれば、自分が解雇されると硬い表情で繰り返す。
この老齢で仕事を失えば、もう同じ仕事に就くことは難しいだろう。私は仕方なくワゴンに手を掛けた。
軽く扉を叩くと、入室を許可する王女の声が聞こえる。
覚悟を決めて扉を開けると、煌々と明るい部屋のベッドには銀色の髪の王女が優雅に裸身を晒していた。ダヴィットの姿が見えないことに、落胆と安堵の息を吐く。
強い花の香りがふわりと体を包む。絡みつくような空気に怯みながらも、足を進める。
「あら、遅かったわね。夜が明けるかと思ったわ。平民のくせに王族を待たせるなんて
「申し訳ありません」
文句を言いながらも王女の声は上機嫌。頭を深く下げてから、ワゴンを押してテーブルへと向かう。
優雅な白いテーブルにお酒や料理の皿、カトラリーを並べて行く。ダヴィットは深夜にどこに行ったのか、そのことばかりが気になって仕方ない。
すべて並べ終えたけれど、これは教育係の仕事ではない。相手は公爵夫人で雇い主とは言え、契約書にない仕事は抗議をするべきだ。私が覚悟を決めて顔を上げた時、ダヴィットの声が聞こえてきた。
「ラーナ、まだ来ないのかい?」
今まで聞いたことのなかったダヴィットの甘い声は、開いた扉の中から聞こえてくる。私が立つ場所からは見えないけれど、おそらく扉の向こうは浴室。ラーナとは、スヴェトラーナ王女の愛称だろうか。
「ダヴィット、今行くわ」
王女も甘い声で答えて、軽やかな足取りで細く精霊のような肢体を見せつけながら、扉を開けたままの浴室へと入って行く。
私は何も考えられずにいた。というよりも、何も考えないようにと心と体が強張り、拒絶を示している。
「ラーナ、待ちくたびれたよ」
「あら、ダヴィットは少しも待てないのね。今日もすべて洗って下さる?」
「もちろん」
浴室の中から聞こえる声を背に、私は部屋から逃げ出すしかなかった。
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