第4話 温かい小さな手

『お姉さんは可哀想な人なの?』

 青い髪の小さな少女が私を見上げて問いかける。慌てて駆け寄ってきた母親が謝罪をして、少女を抱き上げて走り去って行く。母親は私と同じくらいの歳に見えた。


 賑やかな町の市場の中、私の周囲だけが何故か静かで。昔の友人たちも私が近づくと逃げるように去っていく。顔なじみの店主たちも、その笑顔を強張らせて憐れみの目で私を見る。


 それでも私は週に一度、野菜や肉を買う為に町に出る。重い物や貯蔵できる物はまとめて届けてもらうようにしていても、生鮮食品は自分の目で選びたい。


 町の外れで女独りで暮らしていても、誰も、それこそ泥棒も寄り付かない。私の家は王家に監視されているという、まことしやかな噂が流れているから、この上なく安全。


 私がいくつもの仕事を掛け持ち、休みなく働いてダヴィットに仕送りをしていたことは、この小さな町の誰もが知っている。友人たちは呆れながらも応援してくれていた。店主たちも、笑って応援してくれていた。


 ダヴィットが私の元に戻ってくると信じていたから、何かを疑われるような怪しい仕事は避け、常に人目につく場所での仕事を選んできた。二カ月に一度の送金は、会合の為に王都へ向かう町長へと託していた。


 ダヴィットと王女の結婚が決まった日、王家の使者と名乗る剣を持った人々が町へやってきて、私と私の家族を取り囲んだ。震える私たちの目の前に箱に入った金貨を置いて、今後一切騒ぎを起こさないようにと念を押した。


 私一人が抵抗した。お金は要らないからダヴィットに会わせて欲しいと願った。その願いは絶対に聞けないと、これは慰謝料として十分な金額だと言って王家の使者は私を睨みつけた。


 結局、私の父母はお金を受け取ってしまった。半分を私に分けた後、妹たちと一緒に町から姿を消した。今ではどこに行ってしまったのかわからない。 


 半分でも五人家族が一生贅沢をしても使いきれない程の金額だった。私は、いつかダヴィットが戻ってくるかもしれないという夢を諦めきれずに町の外れの家を買い、一人静かに暮らしていた――。


「!」

 自分の涙で夢から覚めた。

 理解していると自分に言い聞かせていた。ダヴィットが私の元に戻ってくるというのは、夢でしかないと。


 それでも、心だけは私に向けてくれるかもしれないと期待してこの屋敷へやってきた。王女に離縁されて、平民に戻る可能性も少なからず考えていた。というよりも、そうなることを望んでいた。


 離縁どころか二人の仲は良い。ダヴィットは王女しか見ていないし、私のことは見ないようにしているとしか思えない。……私はダヴィットに呼ばれたからここに来たのに。

 

 もう眠れる気がしないので、起きることにした。鏡に映る私の顔は目が腫れて酷い。精霊のように美しい王女とは比べ物にならない。

 冷たい水で濡らした布で冷やしながら、カーテンを少し開けて窓の外を見ると夜明け前だった。薄暗い庭の端に人影が見える。


 ここからは背中しか見えないけれど、体格と腰の剣でシーロフだと気が付いた。黒い鳥が手元から飛び立って遠い空へと消えていく。肩には白い鳥が止まっていて、どうやら餌をやっているらしい。周囲にはさまざまな小鳥たちが地面をついばんでいる。


 真面目で無口な男性が鳥に餌をやっている光景は、微笑ましく感じる。本来は王女の護衛だというのに、王女から嫌われているので屋敷内の力仕事や書類仕事を任されていると下女から聞いた。


 日の出の光が差すと、白い鳥も小鳥たちも空に飛び立って行く。シーロフが振り向く前に、そっとカーテンを閉じた。



 秋から冬へと向かう季節でも日差しのある日中は暖かい。メレフに散歩をせがまれて中庭を歩く。

 五歳のメレフは活発で、急に走り出したり、庭に咲く花や草、虫に興味を持つ。これまでは決められた道を歩くだけだったと聞いて、毎日道を変えて散歩するようになっていた。


 今日のメレフは走り出したりすることなく、私の隣を離れない。

「エミーリヤ? どこか痛いの?」

「どこも痛くないわ。何故、そんな風に思ったの?」

「今日は朝から痛そうな顔をしてるよ。頭が痛い時は散歩すると治るんだよ」

 メレフの心配が現れた顔に、私は胸が痛くなった。こんな小さな子供に気遣われるなんて、教育係失格。目の腫れはひいていても、目の充血が少し残っている。


「……昨日の夜、とても悲しいお話の本を読んだの」

「そんな本があるの? 僕も読みたい!」

 メレフの笑顔は幼い頃のダヴィットに似ている。懐かしさと、あの頃に帰りたいという気持ちが胸を締めつける。ダヴィットが王女に恋する前は、いつも二人で手を繋いでいた。


「僕も文字を早く覚えるね! 一緒に読んだらきっと悲しくないよ!」

 そっと小さな手が私の手を握る。温かい体温が、冷たくなっていた指先を温めていく。

「そうね。一緒に本が読めるように頑張りましょう」

 私はメレフに微笑んだ。


 今日明日にも教育係を辞めようと思っていたけれど、メレフが読み書きを覚えるまでは、我慢しようと思う。いつかダヴィットと一緒に戻れたらと家はそのままにしているから、いつでも戻れる。多額のお金は町長が管理する町の金庫に預けてきた。


 小さな手の温かさが、心を温めてくれている。手を繋ぎ、歌を歌いながら中庭を散歩すると、気分も浮上してきた。


「そろそろ部屋に戻って本を……」

「エミーリヤ!」

 突然のダヴィットの声に驚いて振り向くと、昔と変わらない笑顔で、青紺色の立派な服を着たダヴィットが小道を歩きながら手を振っていた。


「お父様!」

 メレフが一目散にダヴィットに駆け寄って、抱き上げられる。私は一瞬、我を忘れて白昼夢を見た。ダヴィットが夫で、ダヴィットによく似た息子がいて、私が妻で。


 胸が締め付けられるような喜びと苦しさの中、私は静かに深く息を吸う。周囲には従僕や侍女がいる。ダヴィットの後ろには家令がいる。私の夢想を知られてはいけない。


 ダヴィットがメレフを抱きかかえたまま歩いてくる。夢そのままの光景に涙を堪える。またエミーリヤと呼んで欲しい。そして一緒に暮らそうと言って欲しい。

 一言でいいから、昨夜のことを気遣う言葉が欲しい。


「ごめん。雇用契約書を作っていなかった」

 ダヴィットの言葉に私は静かに落胆する。それでも書面で残してくれることに感謝するべきだと思いなおす。この国では雇用契約を口頭で済ませることも多く、後で揉める元にもなる。ちゃんと私のことを考えてくれているのだと安心した。


 メレフを従僕に預け、私は当主の執務室へと案内された。昔のようにダヴィットの隣を歩きたいと思っても、平民の私は後ろを歩くしかない。


 公爵家の執務室は、深い飴色の重厚な家具が並んでいる。長い歴史を感じる部屋に違和感を覚えて、本棚に本が無いことに気が付いた。

 大きな書き物机を挟んでダヴィットと私は向かい合って座る。


「書類を」

 ダヴィットの指示で家令が私の前に書類を並べた。

 賃金は貴族の家庭教師としてはかなり安い。公爵家ならそれなりの額を提示されると思っていたので意外だった。支払いも半年に一度という変則的な条件。

 

「……メレフ様が読み書きを習得されましたら、辞めたいと思っています」

 貴族に対する言葉ではないと思ったけれど、どうしても言っておきたかった。

「……そうか」

 ダヴィットの顔に明らかな落胆の色が見えた。寂しさを隠さない表情に、私の心が締めつけられる。そんな表情をさせたくはなかった。すべては私の責任。


「では、その文言を追加しよう。その際には賃金を計算して支払う」

 雇用契約書に私の希望が追記され、私は内容に納得して署名を行う。

 賃金が無くても暮らしていけるだけのお金は持っているから、多少安くても構わない。


「これは?」

 署名を行うべき数枚の書類の中、白紙が一枚紛れ込んでいた。

「ここに名前を書いてくれないか」

 周囲に聞こえないように声を落としたダヴィットが、白紙の右下を指さしても、白紙に署名する行為は悪用される可能性もあるから普通はあり得ない。


「うわっ!」

 ダヴィットの服の袖が引っかかって、沢山の書類を床に散らしてしまった。慌てて椅子から立ち上がり、ダヴィットと家令と一緒に床にしゃがんで書類を拾い集める。


 書類を集める私の手首をダヴィットが掴んだ。その手の強さに、私の鼓動は跳ね上がる。ダヴィットに触れられている。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。


「……君の名前だけでもそばに置いておきたい」

 耳元で囁かれた言葉が心に染みわたる。やはりダヴィットは王女に逆らえないだけだったのか。


 私は拾い集めた書類を渡しながら、ポケットに入れてあった白いハンカチをそっと手渡した。私が刺繍したもので、白い布に白い糸で刺繍しているから遠目からは気が付かない。


「大事にするよ」

 ダヴィットが昔と同じ優しい笑顔になって、ハンカチをポケットに入れた。たったそれだけのことが、嬉しくて胸が高鳴る。


 そして私は、ダヴィットへの愛を込めて白い紙に名前を書いた。

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