ミック・リチャーズ
二千九百四十三年十二月十八日、ミック・リチャーズはこの世に生まれました。彼もまた、中流階級の家庭に生まれました。しかしミックの家庭は、少しばかり変わっていました。ミックの父親は、音楽が好きだったのです。地下での活動に、顔を出していました。昼間は普通に会社員として働いていたのですが、夜になると地下へ行き、お酒を飲みながらひっそりと音楽を楽しんでいました。
「俺の音楽の原点は、父親にあるんだ。赤ん坊の頃からよく、地下へ連れて行かれた。まだミルクを飲んでいる時からだよ。俺が今酒好きなのは、その時のミルクに酒が混じっていたからに違いないな。俺の父親はそういう父親だったんだ」
ミックには母親がいません。これはミックなりの表現なのですが、この世に産み落とした存在であり、父親の妻だった存在はいます。しかしミックを産むとすぐ、どこかに逃げてしまったそうです。いまだにその所在は分かっていません。ミックはバンドが有名になってから何度か母親を呼びかけたことがあるのですが、返事は一度もありませんでした。
「父親が死んでからは一人きりだよ。お前やキースと出会った時は、すでにそうだった」
ミックの父親は、ミックが七歳の時に亡くなっています。ミックは父親の残した家と、僅かな財産、そして会社からの援助によって一人での生活を続けていました。
当時は中流以上の家庭であり、世界を支配していた会社が認めている会社に勤めていた者には、事故や病気で亡くなった時のための遺族への保険金が支払われることになっていました。亡くなった本人が貰っていた給料の七割が援助金という名で、その本人の定年まで支払われることになっていました。当時は五十五歳が定年とされていました。今ではその制度も廃止されていて、定年という考え方さえなくなっています。本人やその本人を雇っている会社側の判断で、働けなくなるまで、働き続けます。
「寂しいってことはなかったよ。金には困っていなかったし、なにせ俺には音楽があった。俺は毎日、地下に行っては楽しんでいたんだ」
父親が亡くなってしまったため、ミックには家族と呼べる存在が零になってしまいました。父親以外に、血の繋がる家族は一人もいません。しかしミックには、地下での友達が大勢いました。そこでの友達とは、その後も長い付き合いを続けています。
「それでもやっぱり、産みの母には会いたいと思ったんだ。俺がここにいるのは、その人が産んでくれたからなんだからな。まぁそう考えるようになったのは、最近のことだけどな」
その手掛かりはまるでありませんでした。地下での友達も、誰一人としてミックの母の存在を知りません。父親は、誰にも妻のことを話していなかったのです。調べてみても、ジャニスという名前ではないかということが分かっただけで、一向に消息がつかめません。生きているのか、亡くなっているのかも分からないのです。もしも誰か知っているという方がいるのなら、ぜひとも連絡をして下さい。例え亡くなっていたにせよ、その真実を伝えたいと考えています。
「あの中学に音楽好きな奴がいるなんて信じられなかったよ。当時は音楽好きなんて本当に珍しかった。例えそうであっても、表だって口にする奴はいなかったな。俺だってそうだ。学校の中じゃ誰にも話していなかった。けれどあの時は驚いたな。まさかあんなものを学校に持ち込むなんて、当時の常識じゃ考えられなかったよ」
僕は学校に、一枚のレコードを持ち込んだことがありました。それは大きな黒い円盤のような形をしていて、薄っぺらで力を入れて折り曲げれば簡単に割れてしまいます。平べったい面の裏表には、幾筋もの溝が刻まれています。そのレコードを裸で持っていたわけではありません。紙で作られたジャケットと呼ばれる袋に入っていました。厚紙を二枚重ね、三辺を糊づけし、開いている一辺からレコードを出し入れするのです。その中には歌詞やそのミュージシャンについての略歴や活動状況、その他にファンとしての意見などが書かれたライナーノーツと呼ばれる紙も一緒に入れられていることがあります。そしてそのジャケットには、ミュージシャンの写真や絵などが描かれています。好きな人ならば、そのジャケットを見てすぐ、それがレコードであることが分かり、誰のものなのかも分かります。
その日僕が持っていたのは、チャック・ベリーという黒人のレコードでした。その当時は今とは違い、肌の色で人を差別することがあったようですが、彼はそんな小さなことは気にせず、世界中で人気を得ていたようです。肌の色なんて、一人ひとり違うものなのです。差別をする理由が、分かりません。
僕は沢山のレコードを持っているのですが、残念なことに、その中身を聞くことはできません。レコードを聞くための機械が、今の世の中には存在していないのです。僕の父でさえ、手に入れることが出来ずにいます。機械を作ることも考えたのですが、その仕組みがまるで分からないので、いまだに当時のレコードは聞くことが出来ないままなのです。
ミックにとっては、そのレコードを手に持っているというだけで驚きだったようです。レコードの存在を知る者は、当時はとても少なかったので、ミックとしては当然の反応でした。
「お前が持っているのがレコードだとは、俺以外の奴は誰も気がついていなかったよ。けれどあれは、当時の法律違反だったはずだぜ?」
それはミックの勘違いです。当時は確かに、昔の遺物を手に入れることは禁止されていました。しかし、音楽に関するものだけは、なぜなのか例外として許可されていたのです。音楽だけが、失われた歴史を通り抜けてきました。現実として、音として残っているのは、たった一つのバンドだけではあるのですが。
「俺からお前に話しかけたんだよな? そしたらキースを紹介された。キースのことは当然知っていたさ。けれど、話をしたことはなかった。正直俺は、キースとはかかわりたくないと思っていたよ。あいつの評判は、最悪だった。恐くて喧嘩ばかりしている男だったからな。少なくとも俺は、そう感じていたよ」
確かにキースは、よく喧嘩をしていました。しかし、一度たりともキースから喧嘩を売ったことはありませんでした。いつもキースは、喧嘩を売られていたのです。僕が出会った当時は、学校内でキースに喧嘩を売る相手はいなくなっていましたが、他校からわざわざ出向いてくる相手が大勢いました。街をただ歩いているだけでも、喧嘩を売られることがありました。キースはその相手を、全て簡単に蹴散らしていました。
「最初はお前とキースが仲良くしているのが不思議だった。お前は当時から少しひねくれていたけれど、真面目な男だった。キースとはどう見ても不釣り合いなんだ」
僕もそう感じていました。しかしキースは、その見た目や態度とは違い、当時からとても楽しい男でした。そして当時から変わらないお馴染みの恰好をしていました。話をするととても人懐っこい笑顔を見せてくれます。向上心の塊で、当時の世界に不満を持ち、いつか世界が引っくり返るようなことをしてやると、毎日のように言っていました。
「お前との出会いは、正解だった。そのおかげでキースは音楽と出会い、俺とも出会うことが出来たんだ。お前がいなければ、俺とキースはすれ違いのまま終わっていただろうよ」
僕はキースと出会ってすぐ、音楽を聞かせました。僕の家に遊びに来た時、棚に並べてあったレコードに興味を持ってくれたからです。御存知の通りですが、実際に聞くことが出来る音楽は、当時はたったの一つでした。失われた歴史を通り抜けてきた、ザ・ビートルズだけです。僕はその初期の曲をキースに聞かせました。キースは一発で、衝撃を受けていました。本当の意味で仲良くなれたのは、その瞬間からです。
「あの日のことは忘れられない。あんなに楽しい音楽は、初めてだったよ。聞いているだけで興奮する。それまでの世界観が一変したな」
その日からキースは、毎日のように僕の家に来て、ザ・ビートルズを聞き漁っていました。全ての曲を、何百回も繰り返し聞いていました。
「あの頃のキースは気違いだったよな。飽きることなくビートルズを聞いていた。そしてお前のギターやピアノを自己流で練習していた。当時は俺よりキースの方が上手だった」
ミックは僕のレコードを見てとても興奮していました。これを聞く機械はあるのか? それが第一声でした。ミックは僕に負けないくらいの音楽に対する知識がありました。ザ・ビートルズの曲は全て聞いたことがあり、当時のバンドが地下で発表していた自作の曲も多く知っていました。それは僕の知らない世界でもありました。僕の知っていた音楽の知識は、失われた歴史以前のものが全てだったのです。
僕はその後、ミックに誘われて何度か地下での音楽を聞きましたが、正直、予想通りでした。楽しくもなんともない音楽です。あんなんだから、音楽が地下に埋もれてしまったのだと感じました。
「俺も本当は初めてだったんだ。ビートルズの曲は、確かに聞いたことがあった。けれど、本物は初めてだよ。地下でのバンドがカバーしていたのを聴いていたんだ。俺が聞いていた音楽なんて、くそだと思ったね。キースの気持ちがよく分かったよ。本物の凄さは、半端ないんだ」
ミックとキースは、出会ってすぐに仲良くなったわけではありません。僕を介して三人で遊ぶことはよくありましたが、当時はまだ、ミックとキースの二人で会うということはありませんでした。
「俺とキースは、友達ではあったけれど、まだ一緒になにかをしようなんて考えはなかった。学校でも同じクラスになったことはないし、お前がいなければすれ違っても挨拶すらしていなかったよ。ただ、お前の家でビートルズを聞いている時だけは、話が異様に盛り上がったのを覚えている。こいつは意外と楽しい奴なんだって、その時に感じたんだ」
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