第20話 無意識の契約
「ちょっと待ってくれよ、何だお仕置きって……昨日のことは確かに申し訳ないとは思うけど……」
「あんた、何もかも綺麗にさーっぱり忘れちゃってるのね」
そう言ってゆかりは、界人の隣に腰かける。
千夏や他二人とは違った、大人の色気を感じさせる仕草に界人は思わず息を呑んだ。
「何もかもって……何の話をしてるんだ?」
「あんた、離婚する前にした会話覚えてないの?」
言われても尚、界人の頭にその会話の内容は蘇ってこない。
当時の界人は、いち早く離婚して自由になりたい、という思いからゆかりの話を右から左へ聞き流していた。
そのせいもあって、界人は思い出せないのではなく最初から覚えていない、というのが正しい。
「あんた、私の性欲処理の道具になる、っていう話を承諾してるんだけど」
「……は?」
全く以て身に覚えのない話だった。
しかし、ゆかりは界人の反応を予期してか一枚の書類を取り出して、界人に見せた。
「ほら、これ。離婚するに当たっての同意書よ。ここにしっかり書いてあるんだけど、よく読まないでサインしたの?」
「…………」
――確かによくは読んでいなかったけど……。こんなぶっ飛んだことが書いてあるなんて、誰が想像するんだよ。こんなの無効じゃないのか?
「不当だ、って顔してるわね。でもお生憎様、ちゃんと弁護士にもこれが有効であることは確認済みよ。あんたがサインした時点でその書類は効力を発揮するんだから。サインした時点で、あんたはそれをきちんと読んで、同意したことになるそうよ」
「……マジかよ」
「まったく、私の性奴隷風情が女子高生と関係持つなんて……あの泥棒猫どもにも思い知らせてやる必要があるのかしらね」
「いや、彼女たちは別に……」
「じゃあ、このメールは何かしら」
そう言ってゆかりが携帯の画面を界人に見せる。
『中村さんと千夏がとりあえず付き合うことになりました。千夏の両親にも報告に行く予定です』
――彩ちゃんか……何余計なことしてくれてんだ、あの子は……。
ゆかりは怒りに燃え、かつ妖艶な瞳で界人を見る。
「ま、待ってくれ。これには訳があるんだ」
「別にどんな理由でも構わないけどね。私も別にヨリを戻したいとか、そういうことを言ってる訳じゃないから。別に女子高生と付き合おうが、突き合おうが好きにしたらいいわ。だけど、私を差し置いて、というのは許さない」
ゆかりの目から、光が消える。
界人を黙って見据えるその目は、獲物を決して逃がす気のないハンターの目だった。
「逃げようなんて思わないことね。あんたの弱いところは、全部知ってるんだから」
「…………」
まさかこんなタイミングでゆかりが訪れると思っていなかったのと、それ以上にゆかりとこんなことになろうとは、という思いが界人を混乱させる。
「その、僕今日まだシャワーを浴びてないから」
「へぇ、シャワー浴びたいの?ってことは異論を唱える気はないってことでいいわよね?もちろん私もそんなのを認めるつもりはないけど」
そう言ってゆかりが立ち上がって、するすると服を脱いでいく。
「一緒に入りましょうか。久しぶりにね」
「…………」
――やばいぞ、どうするんだこれ……というか離婚して大分経つのに、何で今頃……。
「何で今頃、って思ってる?これでも大分我慢してたんだけど……何だか妬ましくなったって言うのが正直なところかしらね。離婚して籍は抜けていても、あんたは私のものよ。……そうね、私の性欲処理に付き合ってくれるんであれば、別に女子高生と何してようがもう別に構わないわ。毎日あんたと顔合わせるとイラつくかもだけど、たまにこうして会うだけなら、別にムカついたりしなそうだし」
「わ、割り切って関係を持てってことか?」
「そうよ。大人なんだから、そのくらいできるでしょ?」
「…………」
正直、デメリットがないのであれば界人としても別に反対する理由はなかった。
かつては愛し合った仲でもあるし、別にゆかりが嫌いという訳でもない。
恐怖を感じてはいても、嫌悪感を持っていたわけではないから。
しかし今は千夏を始めとする女子高生が、家には押しかけてくる。
今日の様に突然来られて鉢合わせた時にどうなるのか、ということを考えると、界人としては気が気でなかった。
「何オタオタしてんのよ、童貞じゃあるまいし」
「……何年もこんなことしてないんだから、別におかしくはないだろ。予想もしてなかったことなんだから」
「まぁいいわ。入るならさっさと入りましょ。ユニットバスなんて、私使ったことないから使い方教えてよ」
ゆかりにあっという間に服を脱がされて、界人とゆかりは二人でバスルームに消えて行った。
「何、明日何か予定あるの?」
「ああ……石川に会いに行く。彼女らが会いたいんだってさ」
「あの詐欺師か……いいわ、明日私が車出してあげる」
「は?」
ベッドで横たわるゆかりを尻目に、界人は翌日の準備を進めていた。
何が必要になるのかわからなかったので、印鑑であるとか必要そうなものをカバンに詰めている時にゆかりから声がかかった。
「何よ、ダメなの?別に心配しなくても私は今日のこと、内緒にしてあげるけど?」
「別に、そんなのを心配してるわけじゃないから……」
「へぇ?とてもそうは見えないけどね。でもいいじゃない。千夏ちゃんといつかはああいうことするんだろうから、勘を取り戻す訓練だとでも思えば」
――簡単に言ってくれるなよ……。そんな風に割り切れるほど器用に生きられるんだったら、今頃はもっと楽な生活できてる。
そうは思っても言葉にならない。
もうやってしまったことだし、界人もまた共犯者なのだ。
「調子に乗って三回もしておいて、すっとぼけたりなんかしないわよね?」
「そこまで無責任な人間に見えるのか、僕が」
正直自分ではもう、かなり無責任なことをしてしまっていると思っている。
仮にこの付き合いでゆかりがまた妊娠でもしたら、そう思うと界人は落ち着かない。
「後で薬飲むから、そういう心配はいらないわ。子どもがもう一人ほしいとかではないんだし」
「だけど、それって負担とか……」
「あんたはくだらないこと考えなくていいのよ。私がそうしたいからそうするの。あんただってすっきりできて、一石二鳥でしょ」
「…………」
何だかとんでもないことをしてしまったんじゃないか、という後悔が界人を襲う。
半ば強引だったとは言っても、何とかして拒否する方法だってあったんじゃないか、と。
そして自分自身の弱さを呪う。
しかしその反面、自分の様ないい加減な人間にはお似合いの展開じゃないか、と思い始めてもいた。
「それより明日は何時に行くの?それに合わせてくる様にするから、あの子たちに連絡入れておきなさいよ」
「……ああ、わかった。ありがとう」
「それは、どっちに?さっきの行為?それとも明日のこと?」
「さっきのことにありがとう、って何か違う気がするけど……」
「……まぁ、そうね。私もまた来ると思うし。さて、今日はそろそろ帰るわ。出発時間、連絡頂戴ね」
手早く服を着て、ゆかりは部屋を後にする。
悶々とした気持ちを抱えたまま、界人は一人夜を過ごした。
「おはようございます、中村さん」
「ああ、おはよう」
夏休みに入ってから毎日のことだが、千夏は朝割と早い時間に現れる。
この日も例外なく千夏は現れ、甲斐甲斐しく界人の世話を焼く。
「…………」
「どうかした?」
「あ、いえ……」
――何かいつもと匂いが違う気がする……。
まだ少女ではあるが、半分以上大人の彼女の女としての勘。
ゆかりが来たのだということは、千夏も何となく察していた。
しかし界人は何事もなかったかの様に振舞っている。
これは、話したくない、もしくは話せない様な何かがあるのだと千夏は予感した。
――言いたくなったら、中村さんはちゃんと言ってくれるかな……。
千夏は正直なところ、界人とゆかりが体の関係を持っていても構わないと思っている。
いつだか彩に、元夫婦でつながりのある男女で、そういう関係にあるのは珍しいことではない、という様な話を聞かされていたこともあり、また界人がきちんと自分に向き合ってくれるのであれば、女が何人いようと構わないという、やや常軌を逸した考えを持っているからだ。
「あ、そうだ……今日やっぱりゆかりが車出してくれるってさ」
「え?あ、そ、そうですか」
ゆかりとのことを考えているのが見透かされたのかと思って、千夏は一瞬動揺する。
しかしそういうわけではなく、これからゆかりが現れるから予め言っておこう、程度のものなのだとわかって安堵する。
正直界人とゆかりが繋がっていても構わない、と考えてはいてもいきなり覚悟もできていない状態で聞かされるのは心臓に悪い。
「いや、昨日いきなり連絡がきてね。それで石川のところに行くって言ったら私も行く、って」
「なるほど……」
――やっぱり知られたくないんだ……。まぁ、普通に考えたらそうかもしれないけど、本当のこと言ってくれた方が私は嬉しいんだけどな。でも、私のことを考えて黙ってくれてるのかもしれないし……。
そう考えはするものの、千夏としては複雑だった。
もし、ゆかりが界人を骨抜きにする様なことがあったとした場合。
界人は千夏を見なくなってしまうのではないか、という不安。
界人本人はそう言ったことを考えていないが、知らず知らずのうちに沼に嵌ってしまうことだってありえる。
また、まどかはともかく彩が千夏にとっては強敵だった。
――独占できるなんてもう、考えてないけど……だけど私のことも見てほしい。
年頃の少女としてはごく自然で当然の、千夏の願望。
考え始めると自身もドツボに嵌ってしまいそうなので、千夏は考えを無理やり振り切ることにして界人への追及もしなかった。
「おはよう、案外早いのね。そこで彩ちゃんとまどかちゃんに会ったわよ」
玄関からゆかりの声がして、三人が部屋に入ってくる。
ゆかりと千夏の目が合って、一瞬怪し気な視線が交わされた。
界人やまどか、彩はそんな視線に気づくことなく支度をしていたが、千夏とゆかりの中では密かに戦いが始まろうとしていた。
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