第17話 壊れた心

「あ、彩ちゃん……そんなの、舐めたらダメだって……汚いから……」

「な、中村さん……中村さんのだったら汚くないですから、私も一緒に舐めていいですか?」

「だ、ダメだって……千夏ちゃんまで何言ってんだ……あっこら……!」

「中村さん、だったら私のも舐めていいよ、洗ってないし汚いかもしれないけど」

「な、なら私のだって……汚かったらごめんなさいですけど……」


中村界人三十五歳。

彼は今、女子高生二人から追い詰められていた。


「や、やめろ、本当、汚いから……!」

「大丈夫……こうして私も千夏も……ねぇ?」

「う、うん……大丈夫……中村さんの味がする気がします……」

「お、おい……いい加減に……」


何とかして、界人は最悪の状況を抜け出そうと試みる。

解熱の為に処置をしてくれたことには感謝しているが、これはお礼なんて呼べるものではないし、何より病気にでもなられたら困る。

そして界人も、千夏や彩のを舐めてやろうなんて気にはならなかった。


「お、お前ら知らないのか……マジで腹壊すかもしれないぞ……」

「大丈夫でしょ。あの動画でも後日談にそんなのなかったし」

「人によって成分は多少違うって……聞いたことあるぞ」

「だとしてもあとで警察駆け込んだりなんかしないって、大丈夫大丈夫」


――いや、うちトイレ一個しかない上にリビングから割とすぐ近くだから、万一腹でも壊されたら困るんだよ、色々と……。

彼女らが必死で舐めようとしているのはそう、界人の携帯電話の画面だ。

通常、携帯電話の画面はトイレの便器以上の菌がいると言われ、中には携帯本体を丸ごと除菌する様な人もいる。


そんなものを舐めようなどというのは正気の沙汰ではない。

千夏は既に舐めてしまっているし、彩も割とベロベロ舐めている。

そこだけピックアップして見てしまうと、いかがわしいことをしていると思われてしまいそうだが、確かに別の目線で言えばいかがわしいかもしれない。


そもそも何でそんな、ある意味で危険な動画が投稿されたのかが界人には疑問だった。


「いやぁ、直接舐めたらまた知恵熱とか出されちゃうかもしれないからさ。だから中村さんの痕跡でも、と思って」

「く、狂ってやがる……正気か彩ちゃん……」

「でも……好きな人のことなら味覚からでも知りたいって、別におかしくないんじゃないですか?」

「いやおかしいから。普通におかしいから。それ、小学校で好きな子の縦笛どうこうするのと発想同じだから。……ん?いや待て、千夏ちゃんは確かに僕のこと好きって言ってたけど彩ちゃんは違うだろ?」

「え……中村さん、さすがにそこまでされて違うって、ちょっとあり得ないと思わないですか?」

「はぁ……?」


――いやいや、彩ちゃんそういうこと直接言ってきてないし。ていうか言われてもどうにもできないけど。千夏ちゃんだけでも正直持て余し気味なんだから。二人も三人も十代の子を相手にして無事でいられる自信なんか微塵もない。……そうだ、ここはもう二人とも断ってしまえ。そうだ、それがいい。角も立たないしな。

そう思って界人は二人を見る。


「お、おいもうその辺で……てかちゃんと拭いといてくれよな。除菌ティッシュそこにあるから」

「わかってるよ……中村さん、ちゃんと言ったら私のこともちゃんと考えてくれる?」

「は?ちゃんとって……何を……」

「だから、私の気持ち。私、こう見えても尽くすよ?」

「…………」


――マジで言ってるのか、この子。というかこれ、タチの悪い夢だったりしないか?というかそうであってほしいんだが。大体先に千夏ちゃんのこと何とかしないと、って思ってたのに……。


「私、別に千夏のことが片付いてからでもいいよ?何なら千夏と別れなくてもいいし、二番目でも」

「ま、待て。その発想はおかしい。大体僕は千夏ちゃんと付き合ってないから」

「……そうですけど……そんなはっきり言わなくてもいいじゃないですか」

「い、いや悪いとは思うけど事実だから……」

「そうですか……」


――とは言ったものの、こうなったら形だけでも交際してることにして、千夏ちゃんを受験勉強に集中させてやる方が良い気がしてきたな。どんな大学行くつもりなのかわからないけど、そうしてもらったら僕も自由な時間が増えるかもしれないし。それに、親御さんがこっち来るのも防げるんだったら一石二鳥ってやつじゃないか?

などとグダグダ考えているうちに、千夏の顔がどんどん暗いものに変わっていく。


「どうした?もしかして雑菌のせいで腹でも痛くなった?」

「……そんなんじゃありません。中村さんが、私の気持ちに応えてくれないから……どうしたら良いかわからなくなってきちゃって……」

「もうさ、いいじゃん。JK二人ゲットだぜ!で。お得じゃない?」

「生憎それを素直に喜べるほど若くないんだよ、僕は。確かに世間から見たら妬ましいことかもしれないけど、僕にだって都合ってものがあるし」

「その都合を何とかして、曲げてもらうことはできませんか?私、何でもしますから……」


上目遣いという女の必殺技を受けても尚、界人は迷っていた。

ここで軽はずみに返事をすると、後々自分の首を絞めることになりかねない。

ゆかりの二の舞を演じさせない為にも、ここは慎重にならざるを得ない。


「えっと……そもそも何でご両親がこっち来るの嫌がってるの?」

「一応、話しておくべきですよね……できれば言いたくなかったんですけど」

「まぁ、知らないとこっちとしても動きが取りにくいって言うのはあるから」

「……わかりました。うちのお父さん……私のこと溺愛してて。男なんて認めない、って言ってた人なんです。もちろん中村さんの存在は知ってます。ありのまま何もないってことまでちゃんと話してあるんですが」

「…………」


――それって、僕の顔見るなり問答無用でパンチくらわせてきたりってことないか?ゆかりの親父さんはそういう人じゃなかったけど、それでも上手くやれなかったんだよなぁ……。


「多分中村さんも想像できてる通り、頭に血が上ると……ちょっと狂暴な感じになるっていうか。だから、できる限り会わせるのは先延ばしにしたかったかなって」

「なるほどね……。でも、仮にだよ?千夏ちゃんの言う通り交際しようってなったら……いずれは会わないといけなくなるんだよね?」

「まぁ……そうなんですけど」

「正直人の親って僕もあまり得意じゃないからさ。ゆかりの時もあんまり向こうの親には好かれてなかったのわかってたし、だから向こうの実家とか最後の方は全然行ってなかった」

「だ、だったら……どうか、形だけでもいいですから」


必死なのはわかるし、事情が事情だから正直嘘ついてでも穏便に済ませてしまいたいというのが界人の本音ではあった。

しかし彼の嘘の下手さは群を抜いていて、ゆかりを相手にしては一つも嘘が通せた試しがなく、以前勤めていた店でもお客に隠し事ができないことで有名だった。

もちろんそれが逆にいいと言ってくれた客も少数ながらいたわけだが。


「形だけでも、認めてもらえないんだったら……やっぱり既成事実を作るしかなくなっちゃうかなって。……中村さん、お腹空きませんか?」

「おい……今の流れでお腹空いた、って言って出されたもの食えるほど、僕は豪胆でも呑気でもないぞ。頼むから落ち着いてくれよ。いや、確かに腹は減ってるけど」

「…………」


――とりあえず、もう考えつくのは強硬手段だけだよね……前もって、モーションかけていくとは言ってあったわけだし。


「あ、あー……ちょーお腹減ったしっ……ご、ご飯にしようかな」

「…………」

「…………」

「な、何がいいですか?やっぱり女の子の手作り料理の定番って言ったら肉じゃがですかね?」

「……この暑いのに?千夏、暑さで頭やられちゃったの?」

「んなっ!?失礼な!!」

「……蕎麦あったと思うから、それにしないか?ささっと食べちゃおう」

「……はぁい」


界人の要望でもあるので手早く蕎麦を茹で、三人で食べる。

割と多めに茹でたつもりだったが、界人は腹が減っていたのかあっという間に蕎麦はなくなっていった。


「中村さん、調子はどうですか?」

「一時的なものだったと思うから、多分大丈夫だけど。心配かけてすまなかったね」

「そういえばゆかりさんから返事とかあったの?」

「……いやない。ていうか彩ちゃんね……ああいうのはさすがに……」

「いいじゃん、これからどうせ事実になるんだから」

「は?」


彩の発言に呆気に取られていた界人だが、すぐにその意味を理解することになる。

テーブルの食器をささっと片づけて、そのまま彩は界人の背後に回り込む。


「!?」

「おっとぉ……観念しな……」

「ちょ……やめ……」


そのまま彩が界人を羽交い絞めにして抑えつけた。

――何だこの子……何かのプロなの?全然動けない……!というか、身動きできない状況はちょっとやばい……!


「千夏!今だ!」

「え?あ、お、おう!」


意思疎通もないままいきなり声をかけられて、一瞬戸惑った千夏だったがすぐに彩の言わんとすることを理解した。

――彩……あんたの作ったこのチャンス!決して無駄にはしないっ!!


「な、何をする気だ!や、やめろ!」

「動かないでくださいね……中村さん、お覚悟を!」


そう言って千夏は界人の顔を両手でがしっと掴む。

これから何をされるのか、界人もすぐに理解して考えうる抵抗を試みるが、彩の完璧な締めに為す術もなかった。


「お、おい本当にやる気か?いいのか、初めてが蕎麦とか蕎麦つゆの味で!ネギの味もするんだぞ!」

「……厳密には初めてじゃないですし。それに、蕎麦とか蕎麦つゆの味って、グルメっぽくていいじゃないですか」

「何がグルメだふざけんな!や、やめて、マジで……むぐっ!?」


界人の懇願虚しく、とうとう千夏と界人の距離はゼロになる。

一瞬、時が止まった様な錯覚を三人は覚えた。

――おお……千夏のやつ、とうとうやりやがった……。だけど何で微動だにしないんだろう。


「……あの、千夏?何してんの?」

「ぷは……え?」


千夏が離れても界人は放心状態で虚空を見つめている。

彩が千夏を手招きして、放心状態の界人を見て安心したのか千夏も応じる。


「ちょっと代わって。はい」

「あ、は、はい」


言われるがままに界人の羽交い絞めを交代して、千夏は界人と密着する。

――こ、こういうのもいいかも……何か恋人らしいっていうか……。

恋人を羽交い絞めにするシチュエーションがどんなものかはわからないが、千夏は言い知れぬ幸福感に酔いしれていた。


しかし、そんな千夏の思惑に反して自由になった彩が取った行動は、落雷に打たれた様な衝撃を受けるほどのものだった。


「むぐっ!!」

「ん……」

「……え?」


彩が界人の唇に吸い付いて、界人の口内を蹂躙して行く。

千夏はそんな二人を、呆気に取られて見ていた。


「……ふぅ。キスってこういうもんだと思うんだけど。中村さんが見てた動画で、見たことない?」

「え、えと……えっと……」

「…………」

「ああ、でも一番は譲ってあげたからいいでしょ?ほんとに蕎麦つゆの味したよ」


――何さらっとやってくれちゃってんの、この子……!


「千夏のじゃ、あんなの娘からパパ好きー!ちゅー!みたいなもんでしょ。今時小学生でもあれくらいしてると思うけど」

「くっ……」


――ま、負けた……。この子に、こんな知識と技術があったなんて……!

千夏がそう思った時、界人の体が動き出す感覚があった。

プルプルと全身を振るわせて、界人は俯いている。


「ぼ、僕は……」

「え?」

「僕……け、警察行ってくりゅー!!自首してくりゅううぅぅぅ!!」

「あ、ちょ!!」


千夏の拘束を無理やり解いて、界人は片足をひょこひょこさせながら玄関まで走り出す。

慌てて千夏は立ち上がり、界人を追った。


「彩!ちょっと手伝ってよ!!」

「あ、お、おう」


二人で何とかして界人を部屋に引きずり戻したが、界人の目は虚空を見つめたままだった。

そう、界人の心は壊れてしまった。


「ど、どうしよう……」

「知らないよ……まどかでも呼ぶ?」


二人はしばし、界人への対応を話し合うことにした。

ひとまず界人を元に戻さなくては。

そう考えてまどかを呼ぶが、まどかが到着するのはもう少し後のことだった。

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