第15話 正しい悪魔の取り扱い方
火事場の馬鹿力という言葉がある。
危機に瀕した時、人は自分で想定しているよりも大きな力を発揮することがある、というものだ。
そして、界人の状況がまさしくそれだった。
「ぐ……は、離れろぉ……!」
「い、や、ですぅ……!!」
「本当にけが人なの、この人……!」
両手と片足。
この三本の動かせる手段をフルに使って、界人は女子高生二人の猛攻を凌いでいた。
一瞬の気の緩みが後の人生までもを決めてしまうという、この戦い。
「な、中村さん……!無理すると、左足悪化しませんか……!」
「そう思うんだったら……離れてくれよ……!それで万事解決だろ……!」
「そうは問屋が……おろさないってね!」
拮抗した力がぶつかり合っていたところに生まれた一瞬の隙を、彩は見逃さなかった。
足が彩を狙って空ぶった瞬間、彩はその足をがっちりと掴む。
「し、しまった……!」
足を掴まれた瞬間、何故か手の力が抜けて、その反動で千夏が界人になだれ込んできた。
――こ、これまでか……!
思わず目を閉じて、界人は衝撃に備える。
「ふー……危なかった……」
「……?」
体全体には衝撃がこなかったものの、両耳の脇に衝撃があった。
恐る恐る界人が目を開けると、千夏が壁ドンの様な恰好になって、界人の眼前に迫っていた。
「チェックメイト、ですかね?」
「ま、待てよ……話し合わないか?」
「この状況で、何を話し合うんですか?」
「中村さん、もう覚悟決めようよ」
「…………」
覚悟を決めるということは、それ即ち警察の厄介になりに行くのと同義。
少なくとも界人の頭にはそれしかなかった。
界人としては、二十近くも年下の女の子にときめきを覚えないわけではないが、リスクが高すぎる。
この年頃の女子が、仮に関係を持ってしまった場合に誰にも話さずに、なんていうことはゼロに近い確率であり得ない。
界人の頭にはそのことしかなく、どれだけ魅力的な誘われ方をしようと、頑として受けるつもりはなかった。
「こ、これ以上何かするんだったら……鍵替えたりして君たちを、出禁にする」
「んなっ!?」
「……できん?」
彩は出禁の意味がわかっていないらしく、一人頭をひねっている。
「キン○マが出るってこと?なら結果として今致しちゃっても同じじゃない?」
「……はぁ!?そういう意味じゃない!何でそこでキ○タマが出てくる!大体現役女子高生の口からキン○マなんてワード、聞きたくなかったよ!!」
「あ、彩……出禁って言うのは、出入り禁止の略で……」
「あ、なーんだ、そういう……」
――何なんだよこの子は本当に……。昨日と言い今日と言い……。
「でもさぁ、気になってたんだけど」
「ん?」
「千夏ね、何でそんなカマトトぶってるの?いい子ちゃんぶってるっていうか」
「な!!」
「え?」
――いい子ちゃんぶってる?どういうことだろう。まさか学校の外では男遊び激しかったりするのかな。
「あ、彩……待って、それ以上は……」
「だって千夏、学校だともっと口悪いし、どっちかって言うと下品だよね?」
「…………」
「ああああ……」
彩から暴露された千夏が、その場で崩れ落ちて界人の胸に顔を埋める。
――え……下品って……ますますわからん……どういう意味なんだ。気になるじゃないか。
「えっと、どういうこと?」
「いや、うち女子高だから割と開けっ広げなところあって。千夏なんかその典型な感じ。昼休み、何処いくの?って聞いたら『あ?ウンコだよウンコ。食ったら出すのは基本っしょ』とか言ってるくらいだし」
「え、ええぇ……」
「…………」
「いつだっけ、急に生理きた時ナプキン持ってなくて『ごめーん、誰かナプキン貸して!ケチャップ漏れちゃう!』とか言ってたよね」
「も、もうやめて、彩……」
「…………」
――まぁ、何だ。千夏ちゃんだって人間なんだし、聞いた限り全部生理現象だから仕方ないとは思うけど……何て言うか衝撃的すぎることを聞いた気がする。
「ち、違うんです中村さん、聞いてもらえませんか」
「え?あ、いや……ま、まぁいいんじゃない?こ、ここでの態度はほら、ぼ、僕が年上だから気を遣ってくれてるってことだよね?うん、わかってるから大丈夫」
「ちょ!じゃあ何で目逸らすんですか!?」
「千夏、取り繕ったらダメなんじゃないかなぁ?もし付き合うことになったとしても、後々本性が、なんてことがあったら興ざめだろうし」
「違うんだって!う、うちの親、昔から厳しかったから……それで女子高入ったら何て言うかこう……みんな開放的で……試しに真似してみたら、思いのほか楽しくて……」
必死で言い訳を探す千夏だったが、界人にはその全てが嘘には聞こえなかった。
――抑圧されていた部分が、開放的な模範を目の当たりにして解放されてしまった、みたいなところか。わからなくはないかな。
「き、気づいたらああいうのが学校じゃ当たり前って言うか……だけど、やっぱり中村さんとお付き合いするんだったらあのままじゃダメだと思って、直そうとしてたんです!本当ですよ!?」
「別に、僕はそれがダメだとは思わないけど……とりあえず千夏ちゃん、降りてもらっていい?」
「あ、ああ……すみません……」
すっかりと意気消沈してしまい、先ほどまでの勢いは欠片も見えない。
彩は千夏から恨めしそうに睨まれて、ケラケラ笑っていた。
「まぁ……学校のが本当なのか今が本当なのかわからないけど……ありのままでいてくれた方が疲れないと思うし、僕としても接しやすいと思うけど」
「……それって、学校が本当の私だって言ったらどうするんですか?受け止めてくれるってことですか?」
「うーん……」
「別にいーじゃん、ウンコくらい誰でもするんだから」
「あんたは!さっきからそういうの躊躇いなさすぎなの!何なの!?私の恋愛が失敗したらいいと思ってない!?」
「ち、千夏ちゃん落ち着いて……彩ちゃんもそんなつもりで言ってるんじゃないと思うから」
「さっすが、よくわかってるぅ!」
「…………」
――とは言っても善意とは言えなそうな気もするけど……。
しかし、界人の言ったありのままで、というのはある意味で界人の本音でもある。
彩の言う通り後々で本性がわかってうんざり、みたいなのはゆかりだけで十分だ、と思っていたからだ。
ゆかりは界人と出会った頃、界人から見て天使の様な女だった。
優しくて気が利いて、男をさりげなく立てる様な、界人からしたら結婚するならこの人しかいない、と思えるだけのものを持っていたと言える。
そして界人は付き合って暫くしてゆかりにプロポーズ的なことをして、ゆかりもそれをOKした。
それが、界人の中での地獄の始まりだった。
今にして思えば、見抜けなかった方にも責任はある、なんて大人びたことを考えられるが当時はもはや盲目に近いものがあった。
由衣が生まれる頃には、夫婦の中は冷え切っていたと言えるだろう。
それでも最低限、夫として父として愛情は注いできたし浮気の一つもしなかった。
しかしゆかりに対して勝手に抱いていた幻想が壊れ、界人は結婚したことを激しく後悔したし、そういうのは態度の端々に現れる様になっていた。
離婚の直接の原因はすれ違いで、別に界人もゆかりもお互いを嫌ってのことではなかった。
だからと言って、好きだったわけでもなくただただ由衣がいたから、という理由で一緒にいたにすぎない。
そんな界人の心境を察したのか、離婚を提案してきたのはゆかりだった。
そして少しの代償を払って手に入れた自由は、思っていたほど悪くない。
界人は自分に結婚だの交際だのというものに対する適正がないのだ、と思い始めていたのだった。
――あんな思いをするくらいなら、最初から本性見せてくれてた方が、こっちとしてもやりやすい。幻滅して受け入れられないなら、それを理由に断ることだってできるんだから。
「あの……中村さん、ごめんなさい……がっかりさせちゃいましたか?」
「え?がっかり?何で?」
「わかってないなぁ、中村さんは。だって中村さんって女に幻想持ってそうじゃん。そんな幻想を、さっき私がぶっ壊しちゃったから、中村さんの中の千夏のイメージが崩壊しちゃったんじゃないかって千夏は言ってるんだよ」
「ああ、そういう……」
確かに界人は昔から女に対して幻想を持つ傾向がある。
しかし、ゆかりという強烈な現実を目の当たりにして、界人もそれなりの成長は遂げているし、現実というものもある程度見えている。
だから特別、いい子だの可愛い子だのであっても所詮は人間だから、という落としどころを界人なりに見つけていたのだ。
「えっとね……確かに初対面だとそういうの、持ってるかもしれない。だけど知り合って結構経つし、実を言うと女子高生だろうがおばさんだろうが、人間であることに変わりはないって僕は思ってるから」
「おばさんって、ゆかりさんですか?あんな可愛い人なのに。チクっちゃおうかな」
「ば、やめろ!……ゆかりは別におばさんじゃないだろ。それはそれとして、あいつはあいつでいいところもあるし、悪いところもある。それは僕にしたって千夏ちゃんにしたって、彩ちゃんにしたって同じことだよ」
「へぇ……何だか初めて中村さんから大人らしい意見が聞けた気がする」
「口にしないだけで、思うことくらいはあるよ、そりゃ……」
――ただ、何でもかんでも口にすればいいってものでもないし、口にしても伝わらないことなんかいくらでもある。離婚に当たってお互いの本音をぶつけ合った時だって……。
「じゃ、じゃあ私……別に幻滅されたりしてないですか?大丈夫ですか?」
「え?……ああ、というか別に千夏ちゃんに何か期待したりとかはしてなかったし……」
「……は?」
界人の言葉が失言であったことに気づいたのは、千夏の反応を見た直後のことだった。
絶望した様な、怒りに燃えた様な千夏の目を見て、界人は戦慄する。
「あ、いや期待してないって言うのは、違う、違うな、うん」
「私、期待されてなかったんですね……」
「ま、待って千夏ちゃん、そういう意味じゃない」
「……中村さん、それはさすがにないと思うなぁ……昨日だって、病院まで慌てて飛んでくくらい愛されてるって、実感ないの?」
「い、いやだからその、誤解というか、言い方が悪かったよ、ごめん」
「…………」
すっかりとむくれてしまった千夏を見て、界人はため息をつく。
――こういうのがめんどくさいんだよなぁ。だから女ってやつは……。
「……何ため息ついてるんですか。私、そんなに鬱陶しいですか?」
「へ?違うから。ただちょっと疲れたなって」
「そうですか、私は疲れる女なんですね、よくわかりました」
「いや、だから……」
「あーあ、私知らないっと」
「…………」
――元はと言えばこの子が……いや、人のせいにするのは良くないよな。
「わ、わかったよごめん。どうすれば許してもらえるんだ?」
「最初からそういう態度でくればいいのに」
「…………」
「何ですか、その目……私、やっぱり……」
「あー!もう、そんなんじゃないから!いいよ、何でも言ってくれ」
半ば自棄になって言ってしまって、界人は事の重大さに気づく。
しかし気づいた時にはもう遅い。
「そんなこと言っていいんですか?」
「あ、ああ……あの、お金はないから、何か高いものご馳走しろ、とか言われてもおじさん困っちゃうかなーって……」
「そんなこと言うわけないじゃないですか……」
「だ、だけどあの……」
「何でも、ですよね?だったら、私の言いたいこともわかると思うんですけど」
「やるじゃん、千夏。策士だなぁ」
――この子はいちいち……。これは、状況的に完全に詰みなのではないだろうか。僕の人生も、これまでか……!
界人の失言により完全にマウントを取られたこの状況。
どう見ても逃げ道のない詰みの状況を、どうやって彼は打破するのだろうか。
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