第3話 ぐうたらの始まり
生活福祉課――。
何処かで耳にした名だと、界人は思った。
それは店で客から聞いた話であることを、すぐに界人は思い出す。
『私は生活保護を受けているから、そんなに高い通信料を払うことができなくて』
客の一人がそんなことを言って、毎月市役所の生活福祉課に通っているという様な話を聞いた。
ということは、自分も国からの保護を受けて生活しろ、ということなのだろうか。
「今朝電話しました、杉崎と申しますが……」
ゆかりが窓口の職員に声をかけて、近くにあった椅子にかけて待つ様に言われる。
「座ったら?」
「……ああ」
自分にはまず縁のない話だと思っていた、生活保護。
それが今現実のものとして目の前に迫っている。
仮にそれを受けることができたとして、それが世間に知られれば、脱落者のレッテルを貼られる。
少なくとも界人の中のイメージはそういうものだった。
「お待たせしました、杉崎さん。こちらが?」
しばらくして出てきたのは、歳の頃およそ三十前後の女性職員。
「ええ、元夫の中村界人です。保護申請をしたいのは、私ではなく彼です」
「了解いたしましたっと……では、こちらへどうぞ」
案内されたのは、課の脇にある別室だった。
プライバシー保護の為か、仕切りで中が見えない様に配慮がされていて、しかし密閉されているわけでも防音の壁を使っているわけでもないので声は漏れそうだった。
ゆかりの言った通り、週明けということもあって混みあっている。
人が沢山いる中で、この様に優先して案内されたのはおそらくゆかりが事前に連絡を入れておいてくれたからであると、界人はすぐに理解した。
こういう抜かりないところは昔から変わってない、と界人は昔の生活を思い出した。
「改めまして……私は担当の大坪と申します。この度中村さんの担当をさせていただくことになりました」
先ほどの小柄な女性の職員が、界人に挨拶をする。
界人も会釈を返し、薦められるがままに席についた。
大坪がいくつかの書類を取り出し、その中に生活保護を受けられる方へ、というものがある。
小学校なんかの遠足のしおりを連想させる作りのその冊子には、生活保護を受けられる条件、受けられない場合、受給資格をはく奪される例などが記載されている。
また、受給者の特権なども記載されていて、界人の興味は寧ろそっちにあった。
「これから手続きに入るわけですが……」
大坪がそう言って、何枚か書類を取り出す。
直近三か月の収入の有無であるとか、近親者の連絡先であるとか、そう言ったものを記入する書類の様だった。
「おわかりになる範囲で構いませんので、こちらの記入をお願いいたします。ああ、ご印鑑はお持ちいただいていますか?」
「はい、持ってきています」
界人がヨレヨレになったショルダーバッグから印鑑を取り出して見せると、大坪が頷いて界人にボールペンを渡した。
「字は、ちゃんと書けるわよね?」
「ああ、大丈夫」
「そういえば……そちらは元奥様と仰ってましたよね?」
「ええ、元妻です。連絡してくれたのは彼女ですが……」
「そうでしたか……申し訳ないのですが、ご離婚されてる様ですと中村さんの家族としては認められませんので……失礼ですがこの部屋の外でお待ちいただけますか?」
心底申し訳なさそうな顔をして、大坪がゆかりを部屋の外に促す。
そうですよね、と言いながらゆかりがすごすごと外に出た。
――別に見ててもいいのに。
界人はそう思ったが、法律上の何かややこしいものがあるのだろう、と彼は考えた。
通信関連の店で勤務していた経験から、その辺については嫌と言うほど思い知ってきていた彼はすぐに納得する。
大坪に言われるまま書類を記入して、印鑑を押して大坪に提出すると、その場で大坪は簡単に書類の確認をした。
「……ええっと……直近三か月で収入はゼロだったんですか?」
「はい。貯金がありましたから。ただ、その貯金も知り合いに騙されて半分以上は持っていかれてしまったのですが」
「騙されて?それは、どういう……」
どう説明したものか、と一瞬考えて界人は全てを明かすことに決めた。
勤めていた店をやめることになった経緯もついでに説明して、昨日ゆかりがたまたま訪ねてきた時のことまでを説明すると、大坪は顔色を変えた。
「危なかったですね、中村さん……」
「そうかもしれません。ただ結果として今もこうして生きているので、特に今は危機感も大きくはないですが」
「元奥様には感謝しないといけませんね。……ああ、一つ忘れていました。現在の預金残高が確認できるものはお持ちですか?」
大坪に言われて通帳を手渡す。
最終的なやり取りの記録は二週間前、直接最後の預金を引き出しに銀行へ行った時のままだ。
「この二週間後からは、一円も入っていないんですよね?」
「そうなります。仕事が見つからないままで、ライフラインも全部止まりましたので」
「え?」
「いや、だからライフライン……電気ガス水道、携帯……全部止まったんです」
「緊急事態じゃないですか……何でそんなに落ち着いていられるんですか?」
「慌てたからってライフラインが復旧するわけでも、お金が降ってわいてくるわけでもありませんから。それで仮に僕が死んでしまうんだとしたら、それまでの運命だったんだと受け入れる覚悟はあったので」
淡々と説明する界人を、大坪は不気味な男だと思った。
自分の命の危機に瀕して尚、冷静でいられるというのは正気の沙汰とは思えない。
「中村さん……私がこう言うのも気が引けますが、中村さんはまだお若いです。なのにそんなにも人生を諦めた様なことを仰るのは……」
「現状、希望がありませんから。夢も希望も、結局はお金を持ってる人にのみ許された絵空事じゃないですか。僕にはそれらに必要なものがないんです。なら諦めざるを得ないと思うんですが、何か間違っていますか?」
またも淡々とした口調で、抑揚なく界人は言う。
大坪の中で恐怖の様な、何とも言い難い感情が自分を支配する様な気がしていた。
「……過程はどうあれ、僕は人生の落後者で社会不適合者です。そんな僕に夢や希望を持つ権利があると?」
「……それは、これから生活を少しずつでも立て直して……」
そう大坪は口にしたが、果たして本当にそうだろうか、と考えてしまう。
大坪の見る限り、界人はもう生きることすら諦めてしまっている様に見えなくもない。
おそらくゆかりが発見するまでの界人は、あらゆる地獄を見てきたのだろうと推測されるその瞳。
少なくとも大坪には界人の目が、正常な思考をしている人間のものではない様に見えてしまった。
そして界人もその視線には気づいている。
しかし界人は、ここで何が何でも保護を受けなければ、という思考には至っていない。
何故なら彼は、受けられなければ野垂れ死ぬだけだ、と考えている。
もちろん受けられるのであれば、昨日ゆかりから受けた借りを返すことができるし、返すまでは死ねない、とも考えているが、それに関しては家にあるものをいくつか売ったら何とかなるかもしれない、と思っている。
それさえ返してしまえば、いつ死んでも別に後悔はないと界人は考えていた。
「ご家族は、他にいらっしゃらないんですか?」
「生憎と、天涯孤独の身でして」
界人は施設育ちの男だ。
高校卒業までを施設で育てられ、それからはゆかりと結婚するまで一人で生きてきた。
親の顔は一度だけ、遠目に見たことがあるというだけのもの。
界人が中学生になって少ししたときに、あれがお前の親だ、と施設の職員に案内された。
女の子と三人で暮らす家族の様子を、何処か他人事の様に見ていたのを覚えている。
そしておそらく自分が捨てられてから生まれたであろう女の子。
血縁上ではもしかしたら妹に当たるのかもしれないが、自分はここの家の人間ではないから、とあっさり引き返して職員を動揺させた過去がある。
「一応、戸籍の関係については私どもと致しましても確認をさせていただく必要がありますが、よろしいですか?」
「問題ありません。自分も何度か確認はしていますから」
過去に数回、彼は用事で戸籍謄本を取り寄せたことがある。
その度、自分が孤独であることを確認していた。
だからか今更誰かにそれを確認されたからと言って、特に古傷が、とも思わなかった。
それから何枚か書類を記入して、改めて保護についての説明を受ける。
この国の国民は誰しも、最低限生きる権利があるだとか色々言われはしたが、彼の心には響かない。
そして彼は頼れる人間もいないということで、保護受給の認定をされる見込みであることを聞かされた。
――ここへきて、尚僕は生き永らえてしまうのか。
そんな風に考えるが口には出さない。
出してしまうことでまたゆかりに怒られるのも面倒だし、大坪にも変な目で見られるのは、と考える。
「それから……今現状でほとんど手持ちがないということでしたが」
「そうですね」
「それだと、保護費が出るまでの間生活も厳しくなるでしょうから、借入が出来る事務所を紹介いたします。抵抗ない様でしたら、私の方から連絡を入れておきますが」
「そうですか、しかし返済はどうしたら……」
お金を借りられるというのであれば確かに生活の面では助かることになる。
しかし、その借りた金はどうやって返すのか、という疑問が彼の中に湧いた。
保護費は決して多くない。
働いていた頃に比べるとおよそ三分の一程度まで減るのだ。
生活そのものの見直しも必要になるし、保護費から一括で、となると生活そのものが送れるのか、という懸念があった。
「それは向こうで話し合っていただく必要がありますが……おそらくは事情が事情ですので、最低限ライフラインの復旧に必要な分は借りられると思います。ただ、確実ではありませんので過剰な期待はしないでください」
そう言って大坪は電話をかけに行った。
大坪を待つ間、界人はこれからの生活について思いをはせる。
食事等に困ることがなくなるのであれば、今よりはいくらか楽になる。
しかし仕事は探さなくては。
その為に必要な資金として支給される金であるということも説明されている。
仮に界人が二度と働きたくない、と思ったとしてもそれを全面に出すのではなく、働きたいのに仕事が見つからない、という姿勢が必要だ、と大坪は言った。
そんな抜け道的なことを職員が口にしていいのか、と界人は思ったが彼はまだ働くこと自体を諦めてはいなかった。
「お待たせしました」
大坪が一枚のプリントを持って再度小部屋に入ってくる。
「こちらの場所なんですが……おわかりになりますか?」
「…………」
手渡されたプリントをじっくりと見てみるが、界人の行ったことのない場所だった。
もしかしたらゆかりが連れて行ってくれるかもしれない、と考えて大丈夫です、と返事をする。
「終わったの?」
「ああ、だけどこれからもう一か所行かないといけないところができた」
ゆかりは何やら携帯をいじって時間を潰していた様だった。
界人の知る限り、比較的新しい機種だ。
金銭的には割と余裕があるのか、と界人は考えた。
もしかしたら彼氏とか新しくできたのかもしれない。
ゆかりは界人の四つ年下だし、まだ若い部類に入る。
子持ちだとは言ってもそれなりに綺麗にしている様だし、男が言い寄っても何ら不思議はないと界人は思った。
「あー……私も行ったことないとこだね。だけどこのデパートが近くにあるってことは……」
ぶつぶつと言って、ゆかりは場所の把握をした様だ。
目的も大体わかっている様に見えた。
「じゃあ、ありがとうございました。何かあればまた来るか連絡すると思うので」
「中村さん、頑張ってくださいね」
大坪に見送られ、界人とゆかりは市役所を後にした。
次に向かう場所、それは市の福祉協議会という場所だった。
ゆかりにも界人にも馴染みのない名前。
そしてそこで一時的な借り入れができるというのがどうにも界人には想像できなかった。
しかし大坪が約束を取り付けてくれたので、行かないというわけにもいかない。
「じゃあ、次は福祉……協議会だっけ?行きますか」
「悪いね、お願いします」
「しっかりしてね。じゃ、出発」
明るい調子でゆかりは車を出発させる。
次の目的地までは五分程度で到着できる様だ。
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