第2話 その男の過去について

夜の静かな、時折パソコンのキーボードの打鍵音が聞こえる様なインターネットカフェで、彼は思い出す。

かつて妻に捨てられながらも彼が仕事に心血を注ぎ、それこそ血を吐く様な思いで頑張っていた頃のことを。

今の自堕落な彼からは到底想像もできないが、情熱という言葉を何より大事にして、彼は仕事にそれを生かすべく努力をしていたのだ。


学歴に恵まれなかった彼はこうなってしまう以前、携帯ショップで働いていた。

彼の学歴が恵まれなかった要因はいくつかあるが、その解説は後に譲る。


界人は一生懸命な人間で、純粋な人間だった。

人のことを疑うことを知らない、困っているなら手を差し伸べる様な、そんな人間だった。

綺麗ごとだの偽善だのと言われても、彼は折れなかった。


そんな彼の姿勢は仕事においても存分に発揮され、反発する者もいたが支持する人間もいた。

しかし、反発する者の中には、彼の上司も含まれていたのだ。

彼の勤めていた店の中の、いくつかあるグループの一つで彼はリーダーを務めていた。


真面目な姿勢、そして新人への教え方や同僚への接し方等、特に問題もなく良好だったはずの彼の勤務は、突然終わりを迎えることとなる。

上司から目をつけられ、疎まれていた彼は結果として、上司にハメられた。

上司の可愛がっていた、彼の同僚のミスの大半を押し付けられるという、彼からしたら寝耳に水の出来事。


界人が接したこともない様な客の分のクレームまでもを押し付けられ、それでも界人は腐ることなく対応を続けた。

上司の言い分としては、彼の教え方に問題があったからこういった結果を招いた、というものだった。

界人にも言い分はあったが、何とかそれを呑み込み、彼は始末書なども甘んじて書いて提出していたのだ。


周りの、難を逃れた同僚からは謝罪を受けたりしたが、悪いのは彼らではない、と界人は考える。

だから自身の心が折れなければいいだけだ、と前を向いて頑張っていた。

そんなある日のこと。


「杉田さんがね、君のいる店にはもう来たくないと言っているんだ。杉田さんは昔から……そうだな、君がここに配属される前からのお得意様だ。わかるな?」


いつもの様に出勤したところで上司から声がかかる。

あまりにも突然の、はっきりとは言わないが店をやめてほしい、という勧告だった。

そして杉田というのは上司から界人が押し付けられた客の一人で、元々のクレームは彼の同僚に向けられていたものだった。


彼はその同僚の代わりに杉田の対応をして、どうにか納得してお帰り頂いたと思っていた。

それが、休み明けに出勤したら突然の勧告。

朝一で詰め寄られ、心なしか同僚たちの界人を見る目さえも冷たいものに感じられた気がした。


今まで頑張ってきたのは何だったのか、という考えが浮かぶも彼はこんなことで終わるわけにはいかない、と考え直す。

しかし以前まではある程度の口答えもしてきたのに、今回に関してはそんな気も失せてきてしまっている自分に気づく。

何か言わなくては、と考えるのに口が思う様に動かない。


落ち度なくやっていたと思っていたのは、自分だけだったのか。

そう思った瞬間、彼は開店前の店を飛び出してしまっていた。


――つまらないことを思い出してしまった。


ここ最近は、特に思い出すこともなく平穏……とも言い難い生活を送っていたはずだった。

心当たりは一つだけ。

昼間に訪れたゆかりがそれを思い出させたのだろうと彼は思った。


何で自分みたいな人間を……それは由衣がいるからだとゆかりは言っていた。

それにしても、今月までは慰謝料なんかも預金から辛うじて出せていたけど、来月からはどうしたものか。

それどころか借りまで作ってしまっているというこの現状。


半ば世捨て人の様な生活を送っていた彼だったが、とうとう極まってきたなと思っていた。

夕飯はフロントに頼んだ焼きそばで済ませた彼が、ここまで金欠なのには理由がある。


店を飛び出して、後日彼は正式に店への退職願を提出した。

退職金も僅かだが出た。

この時点からおよそ半年前のことだ。


新たな仕事を探しながら彼は、資格でも取ろうと考えて動き始めた。

その頃には仲間なんていうのはやはり建て前でしか付き合えないものだ、と結論づけてしまっていた彼は、なるべく単独で動いて完結できる仕事を、と考えていた。

年齢的にもまだ間に合うはずだ、と職業安定所へも通い、受けられるだけ面接も受けた。


しかし人生はそう甘くなく、学歴等が足を引っ張ってなかなか次の仕事へつくことができずにいたのだ。

そんな生活が三か月ほど続き、預金も目減りして行く中で彼は焦りを感じ始めていた。

このままじゃ行き倒れになるのも時間の問題だ。


当時から今まで住んでいるあのマンションは家賃が安い。

生活も今のペースで行くのであれば、近所の安売りで有名な場所での食材調達で凌いでまだ数か月は持つはず。

そう思っていたある日、彼に来客があった。


「よう、久しぶりだな中村。元気してるか?」


そう言って界人に懐かしい、満面の笑みを向けてきたのは彼の以前の配属先にいた元同僚だった。

数年ぶりの再会。

その時にはすっかりと仲間意識など何処へやら、と言った様子の彼だったが、敵意のない元同僚の石川の顔を見て懐かしくなってしまった。


「久しぶりだな。どうしたんだ、こんなとこまできて」


彼は石川を部屋に招き入れた。


「聞いたよ。お前、あの店辞めたんだって?」

「…………」


聞いたということは、店に行ったと言うことか。

彼の心の中は複雑だった。

もしかしたら石川も敵に回ることだって……。


そう思ったが、やはり敵意は感じられない。


「ある程度お前のことも聞いてきたよ、中村」

「……そうか」


今にして思えば、正直覚悟が足りなかった。

自分がもっとしっかりしていれば、と考えないこともない。

だから界人は誰のことも恨んでいなかった。


「お前、もう次は決まってるのか?」

「いや……」


この後ももう一件、面接の日程は決まっている。

それも正直見込みは薄いと彼は思っていた。


「ならさ、俺はお前の助けになりたい。今のお前は、放っておけないからさ」


そう言って屈託なく笑う石川。

助けになるとはどういうことか、彼はそう思うのみで石川の言葉を信じて疑わなかった。

石川は、知り合いの伝手で確実に儲けが出せる商売を知っていると言った。


今考えればそんなものがあるわけない、と思えるのに、当時の界人には余裕がなかった。

何かを守ろうとするあまり、藁にもすがる思いだった彼は、本当に藁に縋ってしまった。

その額、預金のおよそ八割。


二百万という大金を、石川の言うまま振り込んでしまう。

近いうちに朗報を持ってこられるはずだから、と言い残して石川は帰って行き、界人も石川を信じて待ち続けたのだ。

しかし、一週間が過ぎても二週間が過ぎても石川からの連絡はなく、次第に界人は石川への不信感を募らせていく。


彼が勤めていた、界人の以前の職場へ連絡するも、一か月以上前に辞めてここにはいない、と言われて界人は自分が騙されたことを悟った。

やっぱり人間って、ロクなもんじゃないな。

そう思った頃には彼は、唯一友人だと思っていた人間も失っていたのだった。


しかし無駄に心配をかけることは出来ない。

そう考えて彼は何をおいてもゆかりへの慰謝料、養育費だけは優先して払い続けた。

だからゆかりは昨日まで気づかずに来てしまっていたのだ。


そして最初にガスが止まり、電気と携帯が止まった。

一か月ほど間が空いて、水道を止めに職員が訪ねてきた。

払ってもらえてないので、水道は止めさせてもらいます、という職員と話したのが、ゆかりが訪れる一週間ほど前に他人と交わした界人の最後の会話だった。


トイレは近所の公園やコンビニで済ませて、風呂は近所の公園から汲んできた水でタオルを濡らして全身を拭く、という現実離れしたもの。

季節柄まだ夜は冷えるから、と昼間のうちに水を使って体を拭き、布団に潜り込むことで寒さに耐えた。

備蓄していた食料もやがて底をつく。


この時ゆかりが訪れる四日ほど前。

ゆかりが訪れるのがもう一日遅れていたら、界人はこの世の人ではなくなっていたかもしれない。


――空腹がひどすぎたのと、体力ももうほとんどなかったから思いつかなかったけど……部屋の物をいくつか売ったら良かったんだな。


冷静になった頭で今更の考えが浮かんで、自嘲気味に笑った。


十時に迎えに来るということは、九時半には自宅に一度戻っておきたい。

駅前から自宅までは徒歩で二十分ほど。

辛うじて家賃はまだ待ってもらえているので、鍵を変えられずに済んでいる。


早めに戻って迎えを待つことにしよう。

そう考えて界人はインターネットカフェのソファを倒して眠りについた。



「お待たせ。よく眠れた?」


昨日怒鳴り散らしていた人物と同じには思えない、穏やかな表情のゆかりの顔。

ちょっと離れたところに住んでいるゆかりは、界人よりも早起きをしていると考えられたが今はゆかりに任せる他なかった。


「おかげ様で。準備はできているよ」


ひとまず車に乗る様に言われて、界人は大人しく従う。

遠慮して後ろに座ろうとしたら、助手席に座る様言われて彼は助手席に座り直した。


「これ、食べていいから」


運転席でゆかりが渡してきたのは、コンビニのおにぎりが入ったビニール袋だった。

わざわざ買ってきてくれたらしく、お茶まで入っている。


「ありがとう。いただきます」


そう言って界人がおにぎりを食べるのを見て、ゆかりは車を走らせた。


「今日は月曜だから、もしかしたら混んでるかもね。でも、時間は沢山あるでしょ?」

「何処に行くのかわからないけど、無限とも言える時間がある。少なくとも、僕が死なない限りはね」

「嫌な言い方するわね……まぁいいわ、そんなに遠くないところにあるから」


そんな彼女の言う通り、目的地には車で十分も走らないうちに到着した。

界人が連れてこられたのは、市役所だった。

そういえば市役所には全然きていない気がする、と界人は思い出す。


用事がなかったから仕方ないが、ゆかりはこんなところへ自分を連れてきてどうしようと言うのか、界人にはゆかりの意図が測りかねていた。


「こっちよ。早くきて」


車を駐車場に停めたあと、ゆかりが先に立って歩く。

何とも色気のないデートだ、なんて思うがそもそも彼女とはもうそういう関係ではない。

とっくに切れて別れた間柄。


なのに何でこんなにも必死に……昨日も考えたことをまたも考えてしまう。

考えても詮無いことではあるが、やはり子どもという繋がりがある以上は簡単に切れないのかもしれない。


そんなことを考えながら辿り着いたのは、生活福祉課という場所だった。

ここで界人の、第二の人生の立て直しが始まる。

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