正しい後悔の仕方
スカーレット
第1話 その男、ぐうたらにつき
彼は、ぐうたらで自堕落な生活をしている。
郊外にあるワンルームの安いマンションでの一人暮らし。
年齢は35歳。
離婚歴あり、子どもは元妻の元で育てられている。
職歴はそれなりにあるが、現在無職。
身長体重共に平均的なものではあるが、大半の意見として実年齢よりも幼く見られることが多い。
物怖じせず非常にのんびりした性格で、自分の身に降りかかる災難でさえも痛みを伴わなければ忘れてしまえる。
喫煙者でもある彼は、タバコを吸っている時だけは色々なことを考えていた。
そして彼に友達はいない。
しかし現在無職の彼は、過去に一度だけ元妻に助けられたことがある。
春先の、温かくなりつつある心地よい気候が続いたある日のことだった。
たまたま彼の暮らす地域まで用事で来ていた元妻が、彼の様子を見て行こうと彼を尋ねた時の話からしよう。
彼は既に死に体だった。
死体ではない。
簡単に言ってしまえば、死にかけていた。
合鍵を預かっていたから、彼女は部屋に入れた。
インターホンを鳴らしても応答のない彼。
日曜の昼下がりに彼が外出しているということはまずほとんどありえない。
多少の罪悪感に苛まれながらも、彼女は自身の中の嫌な予感に従って鍵を開けることにしたのだ。
そして部屋の真ん中で倒れ伏す彼を発見して、彼女は悲鳴を上げる。
その悲鳴で彼は意識を取り戻した。
「あ、あんた……どうしたのよ……」
「……君か……いつの間にか、意識が」
結婚生活を共にしていた頃とは随分と変わってしまった、彼の口調。
少なくとも彼女の知る彼は、こんなに大人しい人間ではなかった。
人間は支えや目標を失うと、こんなにも変わってしまうのかと彼女は思った。
「あんた、生活どうしてるの?」
「……ご覧の通りだよ。君が来なかったら、もしかしたら死んでいたかもしれない」
悪びれる様子もなく、彼は言う。
そんな彼を見て、彼女は怒りをあらわにした。
自分が捨てたせいで、もしかしたら彼は変わってしまったのかもしれない。
そう言った思いがなかったわけではない。
しかし、だからと言って自らの命を軽んじる様な彼の発言を、彼女は許せなかった。
「死んでいたかも、って何を呑気な……だったら何で何もしないのよ!?死にたいってこと?ふざけないでよ!!」
「……別にふざけてはいないんだけどな。現状を冷静に分析しただけで。それより、由衣はどうしているんだ?預けてきてるのか?」
「それよりって何よ、あんた自分の状況わかってるの!?」
由衣というのは、彼と彼女の間に設けられた娘の名前で、現在8歳になる。
彼――中村界人と釘宮ゆかりの間に生まれた娘。
前述の通り、ゆかりの元で育てられている。
「死ぬかもしれなかったのよ!?あんた、何日食べてないの!?本当に死ぬわよ!?」
耳元で喚き散らすゆかりを、界人は鬱陶しいともうるさいとも思わなかった。
寧ろ、こんな自分をここまで心配して怒ってくれる人がいるのか、と多少の感慨深さを覚えている。
「とりあえず……これでも食べてなさいよ」
ゆかりが放って寄越した、小袋に入ったスナック菓子を、彼は見つめた。
――本当に、何日ぶりだっけ、食べ物。
じっくりとパッケージを眺める彼を、再びゆかりは恫喝する。
「早く!!食べなさいって言ってるの!!あんたに死なれたら、由衣に何て説明したらいいのよ!!あんたは一人で生きてるつもりかもしれないけど、あの子にとっては血のつながった父親なのよ!?」
ゆかりの言うことは最もだと界人は思う。
今日、ついさっきゆかりが訪れるまではまるっきり一人で過ごしていた彼だが、世間は思ったほどに彼を放っておいてはくれない。
放っておいてくれたらいいのに、と何度も思ったが、そういうときに限って誰かしら自分を助けてくれるこの世界に、彼は複雑な思いを抱いていた。
しかしまたもゆかりを怒らせてはいけないと、界人はスナック菓子の袋を開ける。
彼女もまた、由衣の親なのだ。
そんな彼女がたとえば高血圧なんかで倒れたりしたら……そう考えるとやはり怒らせるのは良くないと考える。
涙目で睨みつけてくるゆかりをチラリと見やって、彼は一口二口とスナック菓子を頬張っていく。
元々量の少ないものではあったが、究極に空腹状態だった彼は瞬く間に空っぽにしてしまった。
「ありゃ……もうなくなってる」
「どうしちゃったのよ、あんた……生活はこんな荒れ放題で……」
「いや、どうもしてない」
「嘘ね。何で報告しないの?仕事はどうしてるのよ、言ってみなさいよ!!」
痛いところを突いてくるな、と界人は思った。
無職になった、ということを彼はゆかりに言っていない。
聞かれなかったから、というだけのものではあるが、ゆかりからしたら一大事だ。
これだけ怒るのも無理はない。
離婚するに当たって彼女が出してきた条件は、彼の近況が変わることがあるなら随時報告すること、だったからだ。
「……やめたよ。僕は、社会不適合者だから」
「……はぁ?」
彼の言葉が信じられない、と言った様子のゆかり。
彼は元々そこそこに有名な会社に勤めていたはずだった。
少なくとも、ゆかりの知る彼はその仕事に、それなりの誇りと自信を持って働いていたはずだった。
それが今、どうしてこうなってしまったのか。
わからないことだらけだが、界人を責めるよりもまずは救済が必要だとゆかりは考えた。
「仕事、探してるの?」
「一応。でも、通信手段を始めとするライフラインは止められているから。思ったよりも難航してるよ」
「……は?それ、難航じゃなくて、もう手詰まりじゃないのよ……。うわ、本当に水出ない……というかやけに暗いと思ったら、電気もなのか……」
水道の蛇口を捻っても水は出ない。
部屋に明かりは一切ない。
何日前のものなのかわからないゴミが散乱した部屋。
通常水は相当溜めこまなければ止まったりしないと聞くが……それが止まっているということは相当切迫した状況であることが窺える。
「ライフラインは全滅してるんだ。何日前からだったかな」
「そんなことはどうでもいいのよ……その状況自体が異常だってことをまずは理解しなさい」
「…………」
どうしたものか、とゆかりは考えた。
とりあえずの生活費だけでも、と思うが手持ちがそんなに沢山あるわけではない。
もっとも何日分も渡すのでなければ、今日一日くらい何とかしてやることは出来るかもしれないが。
「まずは食事……しないとよね。歩ける?」
「いや、僕はお金持ってないから」
「はぁ……おごってやるって言ってんの!!グダグダ言ってないでついてきなさいよ!!」
そう言ってゆかりは近所にあるファミレスまで彼を引っ張って行った。
「ご馳走様でした」
「すごい食べっぷりだったわね……本当、何日食べてなかったのよ」
二人分の食事をあっという間に平らげた界人を見て、呆れた様にゆかりは言う。
ここまで切迫した状況であれだけ落ち着いていられるっていうのは、異常だと彼女は思った。
「最後に食事したの、いつだっけ……」
「ああ、もういいわ。ここ2,3日の話じゃなさそうだし……本当、私が来なかったら確かに死んでいたかもしれないわね」
「そうだね、恩に着るよ。出世払いで返していきたいところだけど……」
冗談でも誤魔化しでもなく、彼は本気でそう思っている。
彼は昔から借りを作ることを毛嫌いしていた。
その辺だけは今尚健在ということになる。
「現状文無し職無しのあんたに、そんなの期待してないから。それより、これからどうするつもりなのよ」
「そうだなぁ……」
考えてみるが状況が既に詰みで、死ぬのを待つだけかな、なんて考えていた彼に妙案などあるはずがなかった。
根本的なところ、まずは生活を何とかしなければ、彼の人生は立て直すことすらできないだろう。
「何も、思いつかないのよね。あんたのことだから……」
「まぁ、そうなるかな」
どうしてこう、呑気な顔をしていられるのか。
かと言って誰かが助けてくれるとか思っている様子でもない。
まさか本当に死を受け入れるつもりだったのか、そんな想像をして彼女は青い顔をした。
いや、死を受け入れているというより……自分のことさえもこいつは他人事だと思ってしまっているのではないか、と彼女は考える。
そうだとしたら、かなり厄介だ。
少なくともゆかりの周りにはそんな人間はいない。
誰かに相談、と思っても前例がないことだ。
人を頼って、というのはどうも望みが薄いと思われた。
「とりあえず、これ持ってなさいよ。一円も持ってないんじゃ、どうにもならないだろうから」
そう言ってゆかりが手渡したのは一万円札だった。
一瞬その一万円札を見た彼は、すっとゆかりに札を押し返した。
「何のつもり?」
「受け取る理由がない。本当なら、こうして食事をご馳走になることだって」
「あんたになくても、私にはあんのよ!!くだらないこと言ってないで持ってなさいっての!!あと、あげるんじゃなくて貸すの!!わかった!?」
夕方近い日曜の、人気の少ないファミレスにゆかりの怒声が響く。
何事か、と周りが多少ざわつくのを感じて、つい熱くなってしまった自分を心の中で諫めた。
「……どうしても返したいんだったら、生活が何とかなってから返してくれたらいいから。今日はとりあえず、ネカフェにでも泊まったら?ああいうとこなら食事も有料だけどあるし、飲み物飲み放題だったりするみたいだし。携帯も充電は出来るでしょ。今止まってるって言っても、コンビニとかだったら通信だけは出来るんだろうから、充電はしといて損はないわ」
「ネカフェか……」
「何よ、不満?駅前にあったでしょ。心配しなくても、そこまでは車で連れてってやるわよ」
「…………」
界人には特に不満があったわけではない。
しかし、今日をネカフェで過ごすとして、明日以降をどうすれば、という考えが彼の中に生まれていた。
今受け取ったこの金だけは、死ぬ前に返さないと。
「明日、また私来るから。そしたらちょっと心当たりあるところに、一緒に行くわよ」
「……?何処へ?」
「今言っても実感ないだろうし、明日のお楽しみってところね。でも楽しいところじゃないとだけは言っておく」
「そうか……面倒かけるね」
「そんなほいほい助けてはあげられないけど……今日の件に関しては運命だったんだと思うことにするわ」
そう言って彼女が伝票を持って立ち上がると、界人もそれに倣って立ち上がる。
再度ご馳走様と伝えて、界人とゆかりは再び界人の部屋へと戻って行った。
「携帯と……着替えは必要ならコンビニとかで買いなさい。下着くらいなら置いてるだろうから」
「君は、僕に事情を聞いたりしないんだな。どうしてこうなっているのか、とか」
「ああ……明日どうせ聞くことになるだろうから。じゃ、行くわよ」
再び二人は外に出て、ゆかりの車に乗り込んだ。
駅前の臨時停車スペースに停められた車からは、界人だけが出てきて車内に顔を向けている。
「明日は十時くらいには来られると思うから。それまでには支度しておいてね。印鑑と……銀行の通帳かカード、持ってるでしょ?あと免許証。用意して待ってて」
「よくわからないけど、わかった。気を付けて帰ってね」
あの頼りなさそうな笑顔はあの頃のままだ。
そう思いながらゆかりは車を走らせる。
ゆかりとしても、明日の為に準備しないといけないことがいくつかある。
界人はゆかりの言っていたネカフェ……インターネットカフェを探す。
すぐにそれは見つかり、界人は一瞬躊躇って中に入る。
お金は使えばすぐになくなる。
そのことを界人は身をもって知っている。
今日の出費は最低限にしておこう、そう考えながら彼はインターネットカフェの入ったビルの階段を昇って行った。
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