2. 夕陽の行方 (2)

「ごめんなさいっ!昨日のことは、忘れて!」


 突然そう叫んだかと思うと、自称光の戦士―――春原すのはら 夕陽ゆうひは一目散に教室後方のスライド式ドアへ向かって駆け出し、それを力任せに開け……出て行ってしまった。赤いゴム紐に束ねられた髪が、やけに元気よく飛び跳ねていた。


 その場に呆然と立ちすくむ、俺。一日の授業時間をほとんど寝て過ごしてしまい、顔や手には何故だか沢山の生傷。

 あかつき君、春原さんに昨日何かしたの……?というひそひそ声が、近くの女子の間で交わされているのがほんの少し耳に入り、俺はさらに深い深いため息をつかなければならなかった。どうしてこんなことになるのであろうか。彼女が少しでも話をし易くなればという配慮のもと、5限目の英語終了後にすぐには話をしに行かず、本日最後の授業である6限目が終わるのを待って、さらに放課後部活や塾に行く連中が大体教室を後にするのを待って、満を持して話しかけに行ったのだ。彼女がそんな俺の内心を全くないがしろにして、こんな形で袖にするとは。平常時は温厚だと自負している自分の気質であるが、ここまで振り回されるとさすがに少し腹が立った。

 教室天井の木板の木目を数秒眺めた後、俯いてううんと唸った。とりあえずは自分の席に戻って落ち着こうと思った。昼休みも全部寝倒してしまったので、自宅から持参した弁当に手を付けていない。頭の中は疑問と失望が多くを占めていたので、空腹を感じる余裕はあまりなかったが、無理に食べ始めれば少しは気が紛れるだろうか。


 俺が再び、教室一番前右側にある席に着き、デイパックからおもむろに弁当箱と箸を取り出し、無言で1秒手を合わせた後、梅干しご飯を食べようとすると、今度は左隣の席から視線を感じた。

 まさにご飯を食べようと口に持っていった箸を止め、首を90度左に向ける。

 女子出席番号1番の赤川あかがわさんがきょとんとした目でこちらを眺めていた。

 新学年が始まってからまだ席替えが実施されていないので、クラスの席順はこの1か月程、名簿順である。男子1番の席は、最も首を捻らないと黒板の文字をしっかり読めない席の一つである。

 その隣の、赤川さん。彼女は受験勉強のために塾に通っているので、いつもはすぐに帰ってしまうというイメージを自分は持っていたが、授業終了後しばらく時間の経った今顔を合わせて、おや、と思った。


「暁君、今日は何か様子が変だったね。春原さんと何かあったの?」


 そう言って、首を少し右に傾けながら小さく笑った。

 

 赤川さんとの仲は、可もなく不可もなく。英語の授業の会話練習の時間も、後ろの席の飯島いいじま上田うえだ組に比べればずっと真面目にやっているだろう。ただ、こんな風にいわゆる普通の会話をした記憶があまりなかったので、少し不意を突かれた感じで危うく白米を箸からこぼしそうになった。

 

 今度はしっかり白米をトラップし、

「ああ、まあ、あったと言えば、あったな。……決して悪いことはしていない」

 と、返した。


「暁君が悪いことに手を出していたらびっくりだよ!」

 と、赤川さんはさっきよりも大きめに笑う。


「ん……?ああ。俺の真面目なところを評価してくれてありがとう。うん、決して悪いことはしていない、んだけど、あの子に確かめなきゃならないことが、昨日から突然いろいろ出てきたもんで」

「それを聞きに行こうとしたら、逃げられちゃったのね」


 何がおかしいのか、赤川さんはずっとニコニコしている。


「そうそう。いずれは聞き出さなきゃいけないことなんだけど、今日はどうするべきか、諦めていったん帰るべきかとか、昼飯を食いながらゆっくり考えようとしてたってわけ」

 と、そこまで言い切ってから思い出したように白米を口に運んだ。


「なるほどー。それは、急いで聞きに行かなきゃならないことなのかな?」

「急いで聞かないと何かがまずいってわけじゃないけど、早く俺の気持ちをすっきりさせたいのはあるな」


 一口食べ始めると、どんどん食は進んだ。おかずのきんぴらごぼうとの相性は抜群だ。

「あの子は真っ直ぐ家に帰るんだろうか。それともどこかに寄り道していくのかな……」

「家はわかんないけど、春原さんが行きそうな場所が分かるなら、そこを当たってみるのもいいかもね」


 赤川さんは左斜め上の方に視線を寄せて、ちょっと考えながらそう言ってアドバイスしてくれた。


「行きそうな場所、か。……うん、そうしてみるか」


 部活を辞めてからというものの、放課後の時間はとても長かった。何もすることがないのであればと親から塾に行くように言われ、実際通ってもいるが、週1回だけで今日は行く予定がない。

 それより何よりもとにかく、一度顔を突っ込んだこの不思議な事件の全貌をいち早く知りたかった。


「が、全然思い浮かばんな……」


 5限目と6限目の間にこっそりとクラスメートに確認したが、やはり春原 夕陽は留年高校生で、去年までは俺の一学年上のクラスに在籍していた。だからもちろん同じクラスになったことはなく、これまでの高校生活において二人の接点は全くなかった。


「春原……さんと、誰か仲の良い人に聞いてみれば、何か分かるだろうか」

「うーん。仲のいい子、誰かいたかな?見てると春原さん、真面目だし大人しいし、話しかけづらい性格ってわけじゃないんだけど、留年っていう事情が周りと距離を作っちゃっている感じはするね」


 そう。春原 夕陽が誰かと仲良く話をしている光景があまり浮かんでこないのであった。

 そんな背景もあって、彼女が俺に向かって叫んで出て行ったとき、周囲のクラスメートは結構驚いたのだろう。


「難しいな。元同級生は皆卒業しているわけで。となると、後輩……あいつ、どこか部活に所属しているんだっけか?」

「待って。後輩、部活、うーん……」


 赤川さんは一瞬何かを思い出したように目を見開き、それからまた閉じて額に右手の指をあててうんうん唸り始めた。そしてまた目を開くと、二人の視線がばっちり合った。

「暁君のサッカー部の後輩で、ほら、いなかった?なんだか格好がチャラくて、女の子の友達がいっぱいいる人。あの人なら……?」


 女の子の友達がいっぱいいるサッカー部員の後輩?一番その条件に該当する人物はと考えて、はっとした。確かに何かしらちょっかいをかけて春原 夕陽と接触していた可能性は、ある。確率は高くないと思うが、行動パターンについても何かしらの情報を持っているかもしれない。


「確かに、あだ名が『スーパーストライカー』だからなあ……」

 と言って、苦笑いを浮かべる。

 

「サッカー部の人だけど、その……大丈夫なの?」

「ああ。あいつとは今も仲良くやってるよ」


 そう言って残りのご飯を梅干しの果肉とともに掻き込むと、俺は急いで立ち上がった。


「赤川さん、ありがとう。あいつはゆっくり準備するタイプだけど、サッカー部の練習が始まる前にちゃちゃっと行ってくるわ」

「いえいえ。よく分からないけど私も何だか気になるから、もし話せることがあればまた教えてちょうだいねー!」

 

 そう言って、春原 夕陽と同じように教室を出ていく俺に、赤川さんは手を振ってくれた。



 2年D組の教室のドアを開くと、10人程度残った生徒の中に、上半身裸の目的人物がまさに着替え中だった。俺は迷いなく彼の元へ歩み寄る。


「お前、ちゃんと部室行って着替えろよなぁ」


 屈託のない笑顔と共に返事が来る。


「あっ!先輩久しぶりです、チィーッス、どうかしたんスか?」


 ヨネコウの『スーパーストライカー』、中西なかにし 亮二りょうじである。

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