Chapter 2.

1. 夕陽の行方 (1)

 その日の朝食の席では言い訳に難儀した。

 

 夜のうちに突然自分の息子の顔、特に頭と鼻がボコボコに腫れ、ゴミ箱には薄汚れたシャツがこっそり捨てられているのだから、両親が不審に思うのは無理もない。俺が親でも、息子の非行か、そうでなくても喧嘩か何かを疑うだろう。

 ベッドから落ちて頭を打ったとか―――自宅にはベッドはないが―――、実は昨日学校で階段から落ちたのだが、筋肉痛のようにしばらく時間が経ってから発症したのだとか、苦しい弁明を二人の訝しむ前でしなくてはならなかった。最終的には「今は大丈夫だし、こんなことはもうないし、とにかく大丈夫!」と勢いで押し切り、パンと目玉焼きを掻き込んだ後顔も洗わず、いつもより家を20分も早く飛び出してしまった。


 平常時よりも1本早いバスに乗り込み、席の埋まった車内で吊革につかまる。最寄りのバス停から駅まで15分、駅から電車に乗って10分。歩いて5分。乗り換えの待ち時間も含めると、片道大体45分くらいが俺の通学時間となっている。

 鼻の奥がつんと痛む。結局3時間程度しか睡眠時間のなかった寝ぼけまなこを閉じれば、まだありありとその情景が蘇ってくる。満月の光の届かない、薄暗い参道を転がり落ちるもの。スカートの裾を握りしめる姿。沢上り。青いパーカーを羽織った金髪の男と、包丁。そして、彼女の手のひらに確かに具現化した、光の剣。

 確かめなければ納得できないことがたくさんある。今まで気にも留めてなくて、名前さえ覚えていくなくて申し訳なかったけれど、それとこれとは話が別だ。しっかりあの丸い目を見ながら話そう、と……

 大きな欠伸を一つ。彼女も、よく眠れただろうか。


 8時45分、1限目開始のチャイムが鳴る。既に教壇に立っていた数学の先生が、名簿の順に出席を取り始める。あかつきは、小中高通じてたいていは1番だ。

 いつも通りにハイと返事をしながら、左斜め後ろに目だけで振り返る。来ていない。さっき他のクラスメートに確認した春原すのはら 夕陽ゆうひの机と椅子は、待ちぼうけをくっている。

 俺の腫れぼったい顔を確認して、大丈夫か、と気遣ってくれる優しい先生に、問題ないっす、昨日家の階段で滑っちゃって。と、ここでも別の言い訳をしながら、心の中では深い深い溜め息をついていた。

 昨夜は様々なことが起こりすぎて、情報の処理が追い付かず、脳が休息を渇望していた。俺があの作戦に参加していたのはトータルで25分くらい、その内20分は泥だらけの沢上りと、取っ組み合いの大喧嘩だったから、頭の方は5分くらいしか稼働していないが―――心身ともに疲労したっていうのは、分かる。俺も眠たいんだから、『アイツ』と何時間対峙し続けていたのかも分からない彼女のそれは、推して知るべし、である。

 だけどそうであっても、さすがに、事が起きた翌日くらいは頑張って出てきてほしい……しっかり約束も交わしたのだし。このまま投げっぱなしっていうのはちょっと、なあ―――


 ―――顔を上げ、目を開けると、時計の針はとっくに正午を回っている。黒板には、先ほど見た気がする数学の微分のグラフと式に変わって、現在完了形を使った英文がずらずらっと書かれている。驚いて背筋をピンと伸ばすと瞬間、周囲が少しだけ、どよめいた。「おう暁、お目覚めか」「現世へおかえりなさい、暁君」等の周囲の応援の声に混じり、板書の手を止めた英語の先生は怪訝そうな顔で俺を見つめた後、「怪我が大丈夫そうなら、授業ちゃんと聞いていてね」と言って、また板書に戻った。

 今度はその溜め息を心の中に留められず、外に出してしまった。その嘆息でまた先生が振り向きかけたが、そのまま I have been to ~ と例文を書き続けた。サッカー部を退部してから一転して授業態度がよくなり、教員からの評判がここまでうなぎ上りに上ってきたのも、今日で3割引き位だな……と嘆く。

 そういえば今日化学の授業があったはずだから、教室から実験室へ移動しなければならなかった。その時俺は一体どうしていたのだろう……と思い、ふと左斜め後ろを振り返ると。

 

 ―――いた。自分の評判を落としてまで今日すごく会いたくて会いたくて仕方がなかった、昨日まで記憶の片隅にしかいなかった例の女の子、春原 夕陽。今は振り向いたこちらには気づいていないものか、板書をノートにかりかりと書き写している。

 今日の彼女は昨日と雰囲気がかなり違っていた。具体的にどこが違うのだろうと思ってじっくり眺めてみると……なるほど、眼鏡か。黒縁、楕円形のあまり大きすぎないモデル。昨日出会ったときはコンタクトレンズだったのだろうか。咄嗟に名前が出てこなかったのも、その見慣れなかった裸眼のせいだろう……と、自分に言い訳を立てる。

 外見だけでなく、中身から醸し出す雰囲気もどことなく垢ぬけない印象があって、右手で光の剣?を操り、『アイツ』と大立ち回りを演じたスマートな印象はどこへやら、といった感じであった。3年C組での彼女は大人しく、どこにでもいそうな真面目・硬派な女の子だった。辛うじて、肩にかかる髪を束ねる赤いゴム紐が昨日の名残を伝えていた。


 左隣の席の、女子出席番号1番の赤川あかがわさんにこっそりと、


「春原さんって今日いつ来たんだ?あと俺、化学の時間は何してたんだろう」


と、囁いてみた。


「えっ?……あっ、春原さんならさっきのお昼休みの間に登校してきたみたいだよ。それからえっと、化学の時間は、暁君今日なぜかボロボロだから寝かしておこうってクラスで意見が一致したから、教室にそのまま放っておいたの」


と、目をぱちくりさせながら、丁寧に答えてくれた。


 なるほど。そういうことか。


 学校で寝るか家で寝るかの違いはあったにせよ、二人とも昼までしっかりお休みしてしまい、今ようやく通常営業の看板を出せるくらいまで回復した、ということだった。

 俺は今日何度目かの溜め息を長く細くついて、今日の授業終わりに気を取り直して話をしに行こうと改めて決心した。寝かせておいてくれた我がクラスの団結力と気遣いには、感謝したいような、それでも無理やり起こして連れて行ってほしかったような、複雑な思いがぐるぐると、痛む頭の中を巡っていた。

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