8. 距離を詰めろ (4)
『アイツ』が、さっき一瞬だけ腰に右手で触れて、取り出しかけたもの。
月光を反射した刃の、銀色の煌めきを見間違えることはない。
それは黒い鞘に納められた―――包丁だった。
瞬間、頭には血が沸騰した。
今夜感じた全ての戸惑い、躊躇いは、湧き上がる怒りや激情に押し流され、全くどうでも良くなっていた。
その刃を何に、誰に向けるのだ。
一体お前は、何をしようとしている―――!
「何やってんだてめえはぁッ!!」
声に反応して『アイツ』がついに振り向く。目には不意をつかれた色がありありと浮かんでいたが、どう反応しようが俺の知ったことではない。
何よりもまず、その右腰の後ろ側にぶら下げているそれを、早く捨てろ―――!
『アイツ』は少し後ずさって距離を取ろうとしたが、行動を起こした時にはもう遅い。俺は『アイツ』の腰を目掛けて頭からタックルをかまし、そのままドスンッ!と仰向けに地面に押し倒した。
その距離が、完全に詰まった。
参道の階段の陰から彼女が血相を変えて飛び出してきた。
姿を現した彼女の右の手のひらは、空に向かって掲げられていた。
「ばかぁっ!そこまでしなくていいって言ったでしょう!!」
彼女が何がしかを叫ぶ。
俺は『アイツ』の腰に上から組み付き、青いパーカーの下に隠れたベルトの周りを両手で必死で探っていた。
左手の爪が、包丁を納める無機質なプラスチックの鞘に触れた―――
「誰だお前はッ!」
『アイツ』が、俺を体の上からどけようとして抵抗を始め、
「邪魔だぁッ!」
「ぐうっ!!」
ぐおん!という鈍い音。
頭を肘鉄で殴打されたのか。ほとばしる激痛に耐えられず俺の動きが止まる。
それでも、最後の力を振り絞り。
左手の指先で……『アイツ』の得物を、ベルトから弾き飛ばした。
瞬間、左の側頭部への強い衝撃。
「ぐわあぁっ!!」
境内の地面を滑り、俺の体は1メートルほども真横に吹っ飛ばされた。
―――俺がまだ何の悩みも、恐れもなく、サッカーを楽しくやれていた頃。
そういえばこんな身体的な接触はしょっちゅうだったな―――
「……なめんなぁッ!!」
地面に転がっているたった一つの石ころが、いくつにも分裂して見える。
明らかに脳震盪の症状だ。どうやら『アイツ』に思い切り蹴飛ばされたものらしいことに初めて気付く。
世界は回転し、反射的に嘔吐しそうになる。
こみ上げ逆流する胃酸をすんでのところで飲み込み、うつ伏せの状態からなんとか片膝を立てる。そして今の『アイツ』と彼女の状況を確かめるために、顔を持ち上げると。
今夜、これまで目にした中で一番眩く、月に照らされた彼女の姿。彼女が今まさに、『アイツ』を斬ろうとしているところだった。
その右手には、剣。
俺の目からは二重に分裂しているように見えているが、確かに彼女は剣を握っていた。
全体が薄く、ほのかに赤みがかった、白い剣。それは柄と刃の区別が明確でなく、いつもよく大河ドラマかなんかで見る模造刀などとは、何かが異質であった。
剣には重みがなく、この世界の中で一つぽつんと、浮いているような。
全てがまるで、この世のものではない物質で構成されているような。
この境内の空気を裂くように。
剣を持つ彼女の右手は、『アイツ』に向かって振り下ろされる―――!
『アイツ』は、彼女の右手が描く剣の軌道に対し、上体を後ろに反らすことで間一髪避けた。ボクシングで言うところの、スウェーバック。
彼女の体勢が元に戻らないうちに、『アイツ』はそのまま両腕を伸ばして背中の後ろに手をつき、ブリッジの姿勢からバック転で再び距離を取った。
一連の動きで、この男の運動神経がただ者ではないことが察せられた。
「協力者だと……!?」
着地した『アイツ』は少しの間、驚きを含んだ声とともに、剣を振るった彼女と片膝立ちの俺を交互に見つめていた。
慌ただしく変化し続けた情勢の中で、一瞬、時が止まった。
光の剣が、彼女の手の中で弾けて、消えた。
「……お前。どうなっても知らねェぞ」
それは彼女のことを指したのか。あるいは、俺か。
『アイツ』は言い終えると同時に背を向け、本殿の裏側、俺が元来た沢の方角に向かって駆け出した。
「おい、ちょっと待っ……!」
「待ちなさいッ!」
二人の声が重なる。
俺の方はといえば、声を発したはいいものの、脳をぐわんと揺らし続けている衝撃の余波からは逃れようもなく、その場からは一歩も動けない状態だった。
―――とりあえずは、彼女のもとから危機が去ったのであれば。
そんな思いで、未だ焦点の合わない目をぼんやりと前方に向けて、『アイツ』が走り去っていく様を見送るのみであった。
彼女の方は、動き出していた。
『アイツ』の走った経路をたどるのではない。
その道を斜めに横切るように、俺の目の前を通り過ぎ、本殿の脇のブナの木の前に立つ。
彼女がその手のひらを空、西の空へ傾きかけた満月へと、掲げると。
先ほど消失してしまったはずの剣が、再びその姿を現した―――
「なっ、あっ……!」
分裂した世界が次第に集約され、重なり、一つの像へと結ばれてゆく。
今度はしっかりと、見えた。
彼女は再び右腕を振り下ろす。
その切先は、ブナの木の幹。
光の刃が音もなく、灰色の幹の内部を通過してゆく。
ややあって、上方に見える枝葉が、ガサッ、ガサガサと音を立て始める。
そしてその木のざわめきの大きさは、加速度的に増大して―――
「嘘だろ……?」
樹高10メートルはあろうかというブナの高木が、轟音とともに倒壊していった。
ズウゥン!と鈍く、お腹の底に響くような、衝撃の音。
木は、境内から沢に向かう『アイツ』の進路を防ぐように横たわった。
「本当に、斬った……」
参道の下で彼女か言っていた。剣がどうとか、間合いがなんだとか。
何のことだかよく分からなかった上に、彼女の方も詳しく説明するつもりがなかったようだから、適当に聞き流していた、が。
頭の中で、パズルがはまっていく。
今、この木が彼女の手で斬られたこの瞬間から。
何かが動き始めたようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます