7. 距離を詰めろ (3)
大きく、ほの明るく、空の天辺から少しずつ沈みゆく満月を背に、俺は深夜の沢上りに挑戦していた。
程よい大きさであって、体を支えることのできる石を見つけて、足場にしてじっくりじっくり上っていく。沢の周囲を囲む森に比べればずいぶん緩やかなその斜面の中に、そういった石は数多く埋まっていた。時折、自分の上っていく本殿の方角を確認して、目的地にたどり着くためのボルダリングのように進路を考えながら、一つ、また一つと、その高度を上げていった。
ふと下を見ると、最初に右手をかけた出っ張りの石がずいぶん小さくなっていることに気づいた。ここまでに7、8メートルほどは上ってきただろうか。ビルの3階ほどの高さだが、月光のおかげで周りの様子ははっきりと見えているし、石は、流れることを止めない清水のせいで滑りやすくなってはいるが、掴み続ける握力もまだまだ健在だ。
『アイツ』への距離は確実に詰まってきている。
条例によって青少年は帰宅するようにと大人から促されるような時間に、小さな町のこんな山の上の神社の境内に陣取っている、『アイツ』。
太眉の、恐らくはクラスメートであろうちょっと変わった女の子と敵対関係にあるらしい、『アイツ』。
この2つが、俺が『アイツ』について今知っていることの全てである。
……さすがにちょっと、有益な情報が少な過ぎはしないだろうか。
仮にも、これからやっつけようと思っているその相手である。いい奴なのかそうではないのかはもう少し慎重に考えた方がいいだろう。
そもそもこの諍いの原因は何なのであろうか。もしも彼女と『アイツ』の痴話喧嘩の類だとしたら、この沢の湧き水でずぶ濡れながらも懸命に上を目指し、年末年始のお笑い芸人のように体を張っている俺とは、一体……
いや、さすがに痴話喧嘩ではないと信じたい。さっき俺は、月明かりの夜にスカートの裾を掴んで俯く彼女の姿を何とかしてあげたいと思ってしまったのだ。
―――女の子のわがままに付き合うも男の度量か。
決意を新たにし、残り2割ほどとなった沢の頂点までの登坂ルートを進んでいった。
上り切った。
沢が始まる部分の50センチメートルほど真上に突き出している、ブナの木の根っこに右手をかけ、体全体を持ち上げる。左腕を伸ばし、さらに奥側の根っこに左手をかけ、よりぐっとブナに近づく。そうして足の先まで、完全に沢の上へとたどり着いた。
ここまで来ると、さすがに少しはホッとした。転落するようなことはないと思っていたが、最後の方は苔むした石が多くて握力というよりも「指力」が試され、消耗していたのも事実だった。
流れゆく水で冷え切った両手の指先をこすり合わせながら、摩擦の熱でしばしの暖をとる。
今日は時計をせずに家を出てきたので、正確な時間は測れていないが、大体10分ほど上ることでかかったか。彼女と別れて沢まで移動する時間を合わせ、約12分。神社本殿との間には、ほんの少しだけまだ越えるべき山林が残っているが、木に手をかけながら目的地まで移動しておおよそ3分ほどで行けるだろう。
全部の合計は15分。約束の時間にはもちろん間に合うし、なんなら5分前行動でさらにほめられる。
自分の時間の見立ての良さに少し満足しながら、今度は月の光の届かない薄暗い森の中へと、ブナやナラの幹、枝につかまりながら、歩みを進めていった。
暗闇に慣れた瞳が認識する視界が突如として開け、まばゆいばかりの月光が再び注いだ。
普段は意識して見に行くことなどあまりない、H市南山神社、本殿裏側部分である。
建物を支える、黒々とした梁の木目。
町の喧騒を遠く離れた、しいんとした沈黙。
そこだけ時間が止まってしまったかのような空気を、なるべく変えないように。
今夜、家の階段を下りて玄関に行こうとする時にそうしたように。
足音をかさりとも立てず、建物の側壁に沿って、本殿の表側に向かっていった。
そしてついに、特徴もあまり聞かされていなかった『アイツ』の姿を、眼前にとらえる位置にまで到達した―――
俺は、参道側から見て本殿右手の壁沿いにしゃがみこみ、『アイツ』を左斜め後方から窺う格好になった。
『アイツ』は青いパーカーのフードを被った、少し小柄そうな青年といった出で立ちであった。境内の中心に座り込み胡坐をかいているので、正確な大きさはつかめていない。歳のころは、自分と同じくらいから大学生年代、といったところか。
参道の方を向いているので、俺の位置からだとその表情までは読み取れないが、金色に染まった前髪が見え隠れしている。『アイツ』の体自体は、彼女が上がってくるはずの参道の方に向けているものの、手に持っているスマホを覗き込んで操作していて、挙句の果てには白いイヤホンを耳穴に詰めていた。
―――かなり油断しているな。
これからもしばらくこの状態であるならば、参道から乗り込んでくる彼女一人でどうにかできてしまうのではないだろうか。
それでも、その辺の通りがかりである俺に対して彼女が協力を要請してきた、その事実。彼女に絶対に捕まらないと言える、何かしらの根拠と確信を『アイツ』は持っているのであろう。
周囲に罠を張り巡らせているのか、あるいは、陰に潜むものの気配を強く感じる特殊能力が備わっているか。または、目と耳を塞いでいても、彼女の姿を視界の端に捉えるだけで容易く身を躱せるという、絶対的な自信と力量差があるというのか。
一見隙だらけの『アイツ』を前に、どれ位の時間を思案に充てていただろう。
「お前。上がって来てんのは知ってんだよ」
―――息を呑んだ。突然それを無造作に掴まれたように、心臓のビートが跳ね上がった。全身の毛が逆立ち、肩に力が入り、呼吸が浅くなる。瞳孔は開き、月下『アイツ』の姿に神経が集中されていく。
『アイツ』は俺の隠れている本殿の方を振り向くことはなく、スマホから顔を上げ、参道の方を睨みつけた。そして至極億劫だとでも言わんばかりにゆらりと立ち上がった。
しばらくの沈黙ののち、『アイツ』の左腕全体がフッと持ち上がったかと思うと、参道を目掛けて『アイツ』がデコピンのように人差し指を弾いた。
瞬間、チチッ!と鋭く短い音がして、空気が震えた。
「なっ……」
その後中指、薬指も順に弾いていき、チチッ、チチッと連続して同じ音が鳴った。
明らかに指パッチンの音ではない。何がどうなってあんなふうに鳴っているかは全く分からないが、あの焚火の音はこの男が人工的に、それも一人で作り出している。
ここまで『アイツ』は、俺の方を一顧だにしていなかった。だから、もしかして。『アイツ』先ほどの声をかけた相手とは、俺ではなく―――
「懲りない奴だ。早く俺の方につけよ。この状況なら、お前は俺には敵わない」
『アイツ』は視線を変えず、言葉を重ねた。どうやらやはり、声をかけられている相手は彼女の方だった。
『アイツ』が続ける。
「お前も俺と同じ境遇を生きてきたんだ。昔からその生意気な態度は死ぬほど嫌いだったが、それでも悪いようにはしねェよ。だが、上下関係は、しっかりとよ」
一旦言葉を切り、右手を腰の方に持っていき、何かを一瞬だけ掴んで、元に戻した。刹那、月光を反射した、それは―――!
「その身に分からせてやらねェとなぁ……!」
その言葉の終わりを待たずして、俺は本殿の陰を飛び出し、『アイツ』に向かって一目散に駆け出した。
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