6. 距離を詰めろ (2)
境内からは太古の昔から湧水がこんこんと出でて小川へと注ぎ、かつては小さな農村だったこの町の人々の暮らしをしっかりと支えてきていた。
その水量はだんだんと少なくなってきてはいたが、今もまだ水の滲み出す場所は残っていた。
今も湧き出る地点。それは、参道を上り切り、鳥居をくぐって、正面に見える本殿、その裏側である。そして山肌を滑り落ちていく水は、時間とともに徐々に大きな流れとなり、周囲の地面や岩を削っていく過程で自然によって濾過され、貴重な清水となってゆく。
では、湧水の流れ出るその道は―――
「『沢』になっている。あそこなら、遡っていくことができる」
流れる水に削られた地面はその下流に堆積し、斜面の角度を緩くしている。絶えず水や土が少しずつ動き続けているため、障害となりそうな大きな樹木も生えていない。
だからその沢は、近所の小学校がひとたび夏休みになれば、子供たちが水着を持参して遊ぶことのできる天然の滑り台になる。
そして俺は毎年の夏、地元名物の滑り台と親しんできた、そんな子供たちの中の一人、だった。
「沢を上った地点からなら、建物の陰に隠れながら移動できる。参道とは違う場所から、出てこられる」
彼女の太い眉が全体少し持ち上がった。そしてまた、瞳との間隔が狭まり……凛とした目付きに変わった。最後の言葉を聞き、即座に決意を固めたのだろう。
「どの位の時間があれば上り切れる?」
「正確な時間を予想するのはムズいが、ここから沢まで移動することも含めて……20分あれば何とかできる、と思う」
彼女は、風で時折目に入りそうになる顔の横の髪を耳にかけ、
「参道の階段を上り切る方が早いね。わかった。じゃあ、暁君には沢を上って来てほしい」
「ああ、それに関しては子供の頃ずっと遊んできた俺の方が慣れているだろうし、別にいい。いいんだけど」
沢で遊べばはとにかく泥にまみれる。樹木はないが、斜面の所々に角ばった石が突き出ているから、それらに肌をえぐり取られて、擦り傷、切り傷もできやすい。さらに付け加えると、水が冷たい。
上記諸々の事情に鑑みると、俺が今着ているトレーニングウェアは、この作戦中にダメになる公算が高い。ただでさえ、先ほどの転落事故と、首根っこを掴まれ引きずられた際には、地面にがっつりと、防御しているはずのお腹が傷つくほどに擦り付けられているのだ。
完全に破れたりしなくても、洗濯が大変だろう。今夜の出来事が全部終わったら、新しいウェア代について少しでも彼女に負担を……
といったことも、正直、思い浮かばないではなかったが、ここは、
「いい。協力して、さっさと終わらせよう」
と、格好を付けていくことに決めた。男に二言なし。
ここに二人の決意が揃った。
「ありがとう。タイミングは私が合わせるから、君は自分が行けると思った時に出て。それまでは感づかれないようにね」
「『アイツ』の特徴を教えてもらっていないけど、本当に大丈夫なんだよな?人違いをすることはなさそうだけど」
「大丈夫。今、証拠は見せられないけど、決して君には危害を及ぼさせない。約束する。何かイレギュラーがあったら、叫んでも何でもいい、参道で待機している私に知らせて。それじゃあ」
彼女の右の手のひらがパチンと、俺のそれと重なって、乾いた心地よい音が鳴る。
「よろしくね」
「代わりに、後で事情をいろいろ教えてくれよ。……えぇっと」
さっきからずっと考えていた。彼女の名前は何だったであろうかと。
同じクラスの、後ろの方の席に座っていて、学校に来ない日も割とあったような気がする、あの子。高校生にして留年歴があるといって一時期噂になっていたあの子。
そんな俺の思案の表情を、最初は物珍しそうな目で見ていた彼女であったが、次第に……なぜか頬が膨らんできた。
「……もしかして、名前を言おうとして、出てこなかったの」
「ああ、スマン。もし良かったらこの機会に」
彼女が俺の右の手を、今度は、はたき落とした―――!
バチィン!
「私は君の名前を覚えていたのにぃー!」
「うわっ!そんなに怒ることないだろ」
俺は強制的に下げさせられた右手をひらひらし、左手でさする。
彼女の目付きは相変わらず凛としていたが、鋭さが増してしまった。
「もう早く行って!……全部終わるまで教えてあげないから」
「だから悪かったって!」
これ以上ここでは何を言っても険悪にしかならないだろう。俺はランニングシューズのつま先を、神社の本殿の奥、沢のある方角へ向け、駆け出していった。
数歩駆け出したところで一瞬後ろを振り返ると、まだ彼女はそこにいた。その丸い瞳は先ほどの激しさを既に通過したものか、ほんの少しだけの寂しさ成分を含んでいたかもしれない。
沢にたどり着くまでには2分とかからなかった。神社の周囲には街灯が少ないためいつもは薄暗く、足場を視認しながら上っていけることができるかが唯一不安であったが、今夜は満月が功を奏した。沢は月明かりがよく当たる位置にあり、遡上に関して特に問題はなさそうであった。
黄土色の緩斜面を広がり、流れ落ちる水が、月光を反射しながらきらめいている。
「後は、いかに濡れず、傷つかず、ウェアも汚さずに上っていけるか、だな……」
風はいつの間にかほとんど感じられないほどに弱まり、走ることを止めた瞬間の、体から上ってくる熱と併せてにわかに蒸し暑くなってきた。
沢は、流水の立てるからからという音と共に、森のへりに鎮座していた。
見上げる。
何年振りかの滑り台を今度は逆再生すべく、丁度顔の位置に突き出ている石をまず右手で掴んだ。
春の夜の不思議な作戦が、始まった。
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