5. 距離を詰めろ (1)

 湿気を含んだ風が弱く、目の前を吹き過ぎていく。

 彼女の黒い前髪が微かに揺れる。

 月が照らし出す側頭部にはほのかに、汗の線が光っているようだ。


 一息の沈黙の後、彼女は続けた。

「すぐに動かないとやばいってわけじゃない。でもあんまり悠長にしていられないのも、それはそう。だから、よく聞いて」

 

 言葉を切ったタイミングで俺も話し出す。

「話ぐらい聞いてもいいけどさ。立ち上がるまで……それ位さ。お願いだけど待ってくんないかな」

「立ち上がりながらでいいから聞いて。さっきも言ったと思うけど」


 ……結局待ってはくれないようだ。

 

 丁度おへその下辺りに擦過傷もできているだろうか。腕を突っ張って上体をやっとこさ起こすと、空気に触れた下腹部がさらにジンジンと痛み始めた。呼吸がやや辛い内臓への衝撃に加えて……外傷も。今日に限っては変な気は起こさずに、そのまま遊歩道を進むべきだったかもしれない。

 

 腹ばいから起き上がる俺の様子を、どんな気持ちで眺めているのだろう、目で追いながら彼女は重ねる。

「アイツ……神社の境内の、ちょうど中央に当たる部分にアイツが陣取ってるの。それで私は、アイツを、私の間合いに入れようとしているわけ」

「待て、待て。まず『アイツ』のことを教えてくれよ」

「それは今君には必要ない情報」

 

 話すのも面倒だと言わんばかりにぶっきらぼうに区切る。冷たい目だ。これは、結構――――いやかなり、感じが悪い。


「とにかくアイツに接近して距離を詰めないといけない。でも境内の広さから言って、私一人が近づこうとすると、間合いに入る前に絶対に気づかれるの。アイツの周りには何も遮るものがないから……」


 彼女は自分の発したい情報を吐き切るまで、一切の質問には答えないつもりだと、従前の問答から白状していたし、俺は観念して無言で先を促した。


「だから、一瞬でいいから、アイツの気を引いてほしい。3秒。3秒あればアイツは私の間合いに」


 彼女が短くふぅっと息をつく。


「私の間合いに、入る」



 先ほどから相変わらず、生ぬるいそよ風は彼女の前髪を揺らし続けていたが、いつの間にか汗の線は乾き始めているようだった。

 本当に沢山の、新しく学習すべき単語・用語・フレーズが彼女の口から出てきたような気がする。気がするのだが、この話の大事な点は一体どこにあるのだろう。

 2本の脚で立ち上がった俺は、ようやく人間らしく、向かい合って彼女と話すことができる。

 自分が立ったことで、相手がどの位の大きさの人間なのかをやっとつかむことができた。彼女と一緒にいる時間、ずっと地に伏せっていた事実を再認識する。


「つまりさ、『アイツ』がなんだか知らないけど、『アイツ』は悪い奴だから、あんたが何とかしようとしてるって、そういう認識でいいのかな」


 今夜、一番その目が丸くなった。そしてそのままその視線を、ローファーへと伏せた。

 どうやら今度は質問に答えてくれそうだ。


「……今は、そう信じて。ごめん、君の置かれた状況なら、聞きたいことは山々だと思うけど」


 一連の会話の中で初めて、その口調がしっとりとしたものに変わった。

 

 両こぶしを握り、スカートの裾を引っ張りながら、俯き立ち尽くす彼女。

 先ほどまで見上げる形だったのが、今では俺の方が頭のつむじを見下ろす側になった。

 俺はウェアに着いた土ぼこりをパンパンと、擦りむいていない左手のひらで払いのけながら、ほんの少しだけ返答を考えたが、


「わかった。言う通りにする。母校のよしみだし……」


 と答える他はなかった。

 今も昔も、女の子の真摯なお願いの様子は、人々の決断を左右してきたに違いない。


「その制服が他の学校の空似じゃなかったら、だけど」

「……はっ?」


 今の彼女の返答も本心から出たものであっただろう。



「となれば、だ」


 今度は自分から話を切り出していく。


「話を総括すると、俺はこのまま境内に登って行って、あんたとは別の場所から化けて出て、その『アイツ』を引き付けておくことが必要って、そういうわけだな?」

「引き付ける、までもしなくていい。とにかく私から3秒、アイツの目を逸らすことができれば、それでいい」


 ……化けて出る、は否定しなかった。とにかく何でもいいから、3秒間のショータイムを『アイツ』のために演出してほしい、ということらしい。


 しかしここで一つ、もやっとして引っかかる言葉が含まれていた。

 「別の場所」という部分だ。


 境内にたどり着くためには当然参道を登っていかなければならない。南山神社の参道は忍者の修行坂、本通りがただ一つである。バリアフリーも何もあったものでもない。


 参道の周囲は広葉樹林の鬱蒼とした森である。その斜面は、全国のどんなスキー場のゲレンデよりも急峻だろう。ここから登山用品もなしに上がっていこうとするならば夜が明けるまでにたどり着けるとも思えないが、それまで『アイツ』は待っていてくれるのだろうか?もし健気にも明日のお昼ごろまで、ずっと待ってくれるものとしても、俺はそこまではやりたくない。

 彼女の方も懸念事項がいくつかあるのだろうか。目を逸らすための方策についてはそれきり何も言わなくなってしまったが……


 俺自身が彼女の姿から離れ、周囲に目を逸らしてみると、その暗い森の山肌の中に対照的な、明るい茶色の部分を見出した。そしてその存在が、幼少の記憶から湧いて出てきた時。


「……やれる。きっとその作戦は、俺なら遂行できる、はずだ」


 トレーニングウェア一枚分の犠牲はついに覚悟しなければならないかもしれなかった。

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